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 じっと見つめるだけの間が続いた。フラムの瞳は、例えば宝石の深奥で、あるいは水底の透明な闇で、もしかしたら夜空の果てだった。目を逸らし、否定すれば、許してもらえるだろうかとイリスは考え、胸の中では答えはすぐに導き出された。――いいえ。私は、彼に囚われる。吸い込まれていく。

 だとすればイリスの回答はひとつ。そこから一歩も動かないこと。進みもしないし顔を背けもしない。名前も呼ばなければ、目も閉じない。時を止め、心を凍らせること。
 愛の言葉のバリエーションは、彼にとっては容易いはずなのに、彼の言葉はそれ以上紡がれてこなかった。手を差し伸べられているのは分かる。抱きとめられれば安堵することも。でもその先に何があるだろう? イリスは知っている。あるのは、喪失だ。

 フラムの目がゆっくりと細まる。ネコ科の目だ。見えるのは、不思議なことに苦悩だった。
「愛を告げると、あなたは泣くのですね。あなたにとって、愛は喜びではないということが、これで分かりました」
 彼はゆっくりと離れた。決して触れてはいないのにその重みが退いたようで、イリスは呆然としながら起き上がる。ベッドに片足を載せていた彼は彼女の目を見て、そっと微笑んだ。
 こんなときでも彼は微笑う。
「母の気持ちが、分かった気がします」
「お母様?」イリスは問いかけ、迷ったのは一瞬、ベッドの端を見た。彼がそれを嫌みと取るか、許容と取るかは分からなかった。イリスは拒んだのだ。その目の動きで察したフラムが選んだのは、そこに腰掛けることだった。苦笑いだったけれど。
「あなたの家族の話を、聞いたことがなかったわ」
「話しませんでしたから。私たちは、そういうものだったでしょう?」

 集まった三人の食卓が浮かぶ。
 温かな、会話と笑い声のする、でも家族ではない私たちの集まり。

「話してくれないの?」
「どこにでもある話です」
「聞きたいわ」イリスにとって、それが妥協点だった。
「そういうことしか、できないから」
 図々しい女だと思われただろう。でも歩み寄れるのはそういう部分なのだ。彼を嫌っていないという態度を取れるなら、どんな非難も甘んじて受けよう。都合のいい女、厚かましいと思われても構わない。覚悟しての眼差しに、フラムは口を開いた。
「両親は愛のない結婚をしました。しかし愛がなかったのは父だけだったでしょう。父がほしいのは息子でした。だから私と弟は無条件にかわいがられたけれど、母はそうではなかった。母は父を愛していたけれど、父はたくさんの愛人を作り、母は病で亡くなりました」
「寂しかったわね」言う声は静かになった。フラムは何も言わなかったが、彼が失ったものを愛おしんでいるのはよく伝わってきた。
「お母様はお身体の丈夫でない方だったの?」
「強い人ではなかったと思います。私が弟の世話をして、母は部屋でゆっくりしていることが多かった。父は滅多に帰ってこなかった」
「お父様を許せていないのね」
「どうでしょうか」彼は嘆息した。「今なら許せる気がする。彼は彼なりに、何か考えるところがあったのでしょう。同じものになろうとは思いませんが」
 イリスは答えを知っている。
「怖かったのかもしれないわ」
 フラムは意外な顔つきになった。
「怖い?」
「そう、怖いの」

 イリスは自身の組み合わせた両手を見下ろした。ここからは、多くのものがこぼれ落ちていく。
 不意に愛したものを取り上げる主の御手がどんなに恐ろしいものか。

「あなたは、愛しているのに愛されない、その気持ちがわかったと思っているかもしれない。でもお父様は、愛した妻がいなくなることを直視できなかったんだと思うわ。あなたは二人兄弟なんでしょう? お母様は身体を弱くされていたはずだから、近付いてくるその時が恐ろしかったのでしょうね。でも寂しかったのね、他の女性のところへ行ってしまったというのは」
 フラムは疑いと困惑の表情で目を落とす。彼には、きっと分からなかったのだろう。でも、私には分かる。この人を失えないという思いが。
「お父様に会ったら、聞いてみて。妻を愛していたかどうか。きっと、あなたは聞いてこなかったんでしょう?」
 そっと頷く彼に、なんて不器用な人と思った。器用で落ち着いていて、余裕があるように見えて、彼は不得意な部分を突然見せる時がある。
 なのに、目を和ませるイリスを見て言うのだ。
「あなたも怖いのですね」
 イリスは敷布を握りしめる。そっと。手のひらでシルクのそれを撫で、目を伏せた。
「でもやはり、母の気持ちが分かった気がします。先ほど言ったのとは違う、別の思いが」
 彼が彼女の名を呼び、彼女が顔を上げると、彼は真っすぐにその言葉を告げた。

「イリス――どうか疑わないで、恐れないでほしい。あなたを、愛しています」

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