Chapter 5
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 イリスは少しも眠らなかった。フラムもまたそうだった。あの後別れそれぞれの部屋でまんじりとしない夜を越えた。
 イリスが一瞬眠りに落ちると、すでに空は夜明け前の暗闇に沈んでいた。彼女はそれと知らなかったが、フラムの眠りは一番深いところにあった。それと気付かずに起き上がったのは、精霊の悪戯だったのか。イリスは、ようやく決意を握りしめ、わずかな荷物を持って部屋を抜け出した。

 彼女たちにとって神聖で、堪え難いほど苦しい夜を過ごした神殿を包む森は、朝の露に濡れ、木々や草花がまだまどろんでいるのを思わせるような静けさに満ちている。時折眠たげな鳥が鳴き、梢が鳴った。闇に沈む足下がおぼつかないながら、イリスは少し駆け足で森を抜けた。港へ。
 たどり着いたそこでは、この夜でも海は変わらず波打ち、夜明けがくるのを息をひそめて待っているようだった。しかしイリスは、どうかまだ朝が来ないようにと唇を噛み締めた。できるだけ、遠く。彼が目覚めないうちに。
 もう失えない。彼は始めてしまったし、イリスは答えを出さなければならなかった。分かりきった解答を、イリスは自ら拒絶する。
 何故なら、もう失くしては生きていけないからだ。最初は二人、次に三人。かりそめの形であれ、イリスはひとときの安らぎを得た。ここでの日々は鳥が羽を休めるものと考えればいい。いつまでも飛び続け、どこかで休むことを繰り返していけば、きっと母が行ったところへすぐにたどり着けると、彼女は信仰するように考えた。平穏を望みながら、しかしその選択をした人生に休まる時はないであろうことに気付きながら。

 イリスは係留してあった、波にわずかに上下するボートに乗り移る。操舵席を覗き込み、辺りを見回して誰もいないことを確認してからスターターキーを回した。静けさを引き裂くような音を立てたエンジンが、一瞬不機嫌なのではないかと心配したが、うまく稼働している。ほっとしたのは、船の運転はしばらくしていないためだ。
「イリス!」
 呼ばれた声に振り向けば、泣きそうな顔をしてノイが駆けてくるのが見えた。彼は一瞬の躊躇もなく、船に飛び移り、彼女の胸に顔を押し付けた。
「あなたは残ってもいいのよ」
 イリスが言うと、彼は首を振った。
「一緒に行きます」
 顔を見ずとも、気持ちはぬくもりで伝わった。ありがとう、とイリスはノイを抱きしめた。

 フラムたちが見れば彼女を操舵席から引き剥がしたであろう危なっかしさで、船はおそるおそるトゥイの海へと滑り出した。危険な航海はさほど続かないはずだ。数十分もすれば大陸に到着する。危険だというだけではなく島を振り向くことができず、背後に遠ざかっていくものにイリスの胸は締め付けられた。緊張に指先をこわばらせ、深く息を吐く。
 これから陸に戻り、自宅からふさわしいものをすべて持って、イリスはトゥイを出て行く。行き先はどこでもいい。空港に到着した時点で一番出発が早い飛行機に乗ることができればなんでもよかった。そうすればフラムは追って来れないだろう、彼が、何らかの力を持った人間でない限り……。

 ボートは何度か不安定な寄り道をしかけながら陸地へたどり着く。心がとがめたが、その船は適当に係留した。さほど時間はをかけず、フラムはイリスたちの不在に気付くだろうからだ。船着き場は別荘からさほど離れていない。ノイの手を引き、心なし早足で自宅への道を行く。
 夜も明けきらぬリゾートは、住人の滞在を示す玄関のランプが冷たく灯って見えた。空気はわずかに白く思える。もうすぐ夜が明けるからだろう。暗闇に沈んだ我が家は、それよりもずっと時を止めてしまったように見えた。死んでいるよう、と思い、以前似たような思考を辿ったことに気付いたが、そのさきのことがふっと浮かびかけては霧散した。
 鍵を開けていた手が止まる。何かが、変だ。
 イリスの頭の中では警告音が鳴り響き、一方では使命感が込み上げた。ここは彼女の家、彼女の愛したティファニーから受け継いだ家だ。
 扉を開け、家の中に踏み入った彼女は、暗闇に沈むリビングから漂う嗅ぎ慣れぬにおいを察知する。むせそうな、すえたにおいと、アルコール。早く明かりをつけなければ。何が起こっているのかを知らなければ。スイッチに手を伸ばした瞬間、それは湿った手に阻まれた。

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