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 悲鳴は口を押さえられたことであげることができなかった。ノイに逃げるように言おうとするが、玄関ドアは閉じられ、黒い影が立ちふさがり、少年を軽々と抱き上げ拘束した。
 突き飛ばされるようにしてリビングに投げ出され、したたかに膝を打ったイリスは、その痛みを顧みずに影を見上げ、怒りの声を上げた。
「ルイ、マイク!」
「よお、イリス」酒臭い息を吹きかけて、まだ醒めきらない酔いとともにねっとりとルイはささやいた。「また会えると思ってたぜ」
 暴漢と化した従兄弟たちは、イリスとノイを捕まえ、逃がさないように追いつめると、どこかへ電話をかけた。やがて他人の家に入り込むことに何の躊躇もない男たちが踏み込んできて、勝手知ったるといった様子に、この男たちが彼女の家を蹂躙していたことがうかがえた。
 悔しくて唇を噛むが、ノイを庇ってやることしかできない。
「来い」ルイはイリスの腕を引っ張った。男たちの乗ってきた車に二人を乗せ、押し込むようにして隣に乗り込んだ。膝が触れ、避けようとするも、身体を擦り寄せられ、膝を撫でられる。鳥肌が立った。
「どこへ行くの」
「いいところさ、かわいこちゃん」

 車は人通りがまだ少ない市街地を往き、何故か再び海辺に出た。港のアスファルトの上に安いタイヤを転がせていく。不安定な揺れに負けぬよう、イリスはノイを抱きしめた。
 やがていくつも倉庫が建ち並ぶ一角に車を隠すように停めた。
「降りろ」
 言う通りにする。ただ歩くだけで「遅い」と背中をぶたれた。くずおれそうになるのを堪えたのは、ノイが噛みつきそうな顔でマイクを見ていたからだ。見るからに野卑そうなトゥイ人たちが、イリスとノイの前に現れては消えていく。小声でかわされる言葉は、トゥイ語なのでイリスには聞き取れない。
 突き飛ばされ倉庫に押し込められた際に転んでしまい、埃と土くずでイリスの手のひらには擦過傷ができた。
「さあ、イリス」薄気味悪い笑い方をしたルイは、倒れ込んだイリスの顎を強引につかんだ。「殺されたくなければ、大人しくするんだ」
「遺産は譲らないわ」
 イリスの中では嫌悪感に付随して使命感が燃えていた。彼女が三ヶ月の月日を経て元通りにしたあの家を、ティファニーの家を、むちゃくちゃにしたこの男たちに、絶対にこれ以上何も譲り渡すつもりはない。
 ルイはにやついた。「遺産がだめなら、身代金をもらえば済むことだ」
 イリスは眉をひそめた。
「誰のことを言ってるの?」
「さあ、誰だろうなあ?」
 兄弟は笑い、イリスたちに大人しくするように言って姿を消した。

 湿ったコンクリートで冷える倉庫内で、ノイがイリスに腕をまわす。自分がずいぶん冷えていることに気付かされ、イリスの食いしばった歯から震える息が漏れた。二の腕が冷たくなっている。
「大丈夫です」励ますようにノイは言った。「絶対助けが来ます」
「いったいどういうつもりなのかしら」イリスは呟いた。「身代金なんて、そんな親戚は誰もいないわ。むしろ遺産が転がり込むのを待っている人たちなのに」
 ノイは答えなかった。知らないからだとイリスは思った。だからイリスは立ち上がり、手の傷から埃を打ち払うと、倉庫の中を確かめ始めた。
 中は放置されて久しいらしい。置いてある木箱には『アップル』と焼き印されていたが、新鮮な果物の香りよりも土のにおいが強かったし、下部分は腐食していた。あちこちには空き瓶や空き缶が放置されて、時々こういう場所を根城にする人間たちに使われることがあるようだ。ルイとマイクはこの国に滞在するうちにそういった輩と親しくなったのだろう。そのコミュニケーション能力をうらやましく思うことは決してない。呆れるばかりだった。
「出口は一つ」イリスは腰に手を当てて、振り向いた。「私たちが入ってきた、シャッター横のドア」
「上の方に窓があります」ノイが指でさしたが、イリスは首を振った。
「肩車しても届かないし、この場所の箱を全部積み上げても届かないわ……」地団駄を踏みそうになる。「カナリーなんて名前なんだから、本当に翼があったらいいのに」
 しかし、それでも脱出方法を考えることは止めなかった。見張りはきっと外にいるだろう。イリスが見た限り、十人以上の人間が待機しているはずだ。今見える出口だけでは、扉をくぐってもそのさきに進むのは難しいだろうし、もし彼らがトゥイのマフィアであるなら、銃を携帯していることは安易に想像できた。八方ふさがりだ。肩を落とした。私は無力すぎる。
「イリス……」名を呼ぶノイを抱きながら、考えた。

「ノイ」一か八かだが。「私の作戦を聞いてくれる?」
 安全とは言えない。うまくいく保証もない。それを知っているから、ノイは首を振った。必死とも思えるくらいに一生懸命に。抱きつく彼の背中を叩きながら、イリスは作戦を説明する。
「私が正面を突破するから、あなたはしばらくここに隠れて、あいつらが私に気を取られている隙に逃げるのよ」
「嫌だ、イリス。やだ」ノイの涙声を聞くと、イリスの胸も詰まった。
「ノイ、お願い、聞いてちょうだい」
「殺されにいくようなものです。そんなの嫌だ。だって、あなたはフー・ラム様と幸せにならなくちゃ」
「大丈夫。私は死なないわ」
「嘘をつかないで!」
 ノイが鋭い悲鳴を上げた。
「いつだってそう思ってたでしょう? その時が来さえすれば、簡単に命を捨てる気だったでしょう?」
 ノイのふわふわした髪が、頭を動かすたびに揺れる。
「『だから』僕はあなたのところに来たんだ。あなたが呼んだから。一人は寂しいと言ったから」
「ノイ?」
 子どものようなかんしゃくに驚いて、イリスは食い入るようにノイを見つめていたが、混乱を理性で押さえつけると、彼の両肩を強く握りしめて言った。
「じゃあ、約束をする」
 ノイが涙の膜の張った瞳を向ける。
「あなたに誓うわ。ここを出られたら、ちゃんと言うって。フラムに。――愛してるって」

 ぱきん、と何かが割れるような音がし、光が目の前にひらめいた。

 しかしそれは錯覚だったらしく、目眩のようなものから意識が戻ってくると、ノイが呆然としている顔が目の前にあり、次の瞬間、少年はイリスの首にすがりついた。
「イリス」
 その細い腕を優しく叩いて言った。
「さあ、行くわよ」
 靴を脱ぎ、スカートを裂いて短くする。裂いた方の布を細く裂いて、それで髪をまとめた。肺には焦燥と恐怖、頭を痺れさせるような緊張があり、飲み込む息は石もかくやと固い。

 ノイに部屋の隅に隠れているように言うと、イリスは、めいっぱい息を吸い込み、叫んだ。

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