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「なんだ!?」

 扉を開けたのはマイクだった。暗い部屋の中に絶叫したイリスの姿を探すが、見つけられずに混乱する。
 その隙を彼女は見逃さなかった。空き箱を、こめかみに向けて力一杯ぶん投げたのだ。脆くなっていたとしても、箱を形成していた木片はマイクの頭蓋骨と脳みそを揺さぶり、彼は立ちくらみを起こしたように横に倒れた。そこから、イリスはドアを抜けて走り出した。

 コンクリートのうちっぱなしにしてある灰色の通路は、蛍光灯もろくに変えていないのか、不安定に明滅している。ざらついた廊下を走っていると、足に痛みが走った。しかし振り向きもしなければ、立ち止まりもしない。廊下には、ガラスを踏んで出来た傷が、点々と赤い跡が残ってしていく。
 地上へ出る階段への曲がり角に来た時、そこにたむろしていた二人組みが目を丸くした。イリスは勢いを殺さず、思いきり右の靴を投げつけた。細いヒールのサンダルは一人の男の鼻にぶつかったものの、到底相手を止められるものではなく、イリスに向かってトゥイ語で叫びながら襲いかかってきたが、イリスは冷静に、狙いをすまして、男の目元にサンダルの踵を突き出した。
 貫いたわけではなかったが目元を攻撃され、男は絶叫しながら目を押さえて座り込む。もう一人が怯んだ隙に、イリスはその手をすり抜けて階段を駆け上がった。

 ノイは無事に逃げられるかしら。刹那、心配が胸をよぎり、いいえ、と彼女は強く決意する。私が、突破口をつくるのよ。

 階段を上りきり、息を整える間もなく通路を突き進めばそれが出口だ。
 しかし、それまでだった。腕を掴まれ、壁に押し付けられる。頭に固いものが触れる。銃口だった。

「ルイ」
「お転婆だなあ、イリス?」
 ルイの背後で、彼が現れた部屋の扉が閉まっていく。
 ちらちらとする銃口も、ルイの眼差しも同じ光を持っていた。壁に同化させられるのではというくらいきつく押し付けられ、イリスは痛みに顔を歪める。同時に、嫌悪感が足下から這い上がってきた。短くなったスカートの、露になった足に、ルイが手を這わせているのだ。射殺すつもりで睨むと、それすらも楽しげにルイは笑い声をイリスの耳元に流し込んだ。
「ガキはどうした?」
 息が詰まった。ルイ・カナリーという男は、弟とは違って頭の回るところがあった。
「ガキが心配なら、どうすべきか分かるよな?」
 二の腕を、銃のバレルで撫でられた。身体的にも、精神的にも、冷たい感触が心臓を握っていた。
「綺麗だよ、イリス」
「……最低」とイリスは吐き捨てた。
「本当だ。ぼろをまとっててもお前は綺麗だよ。本当に、嫌みなくらいにな」ルイは吐き捨て、イリスの両手首を彼女の頭の上で押さえつけながら、顔を近づけた。
「お前よりプレイガールの方が救いがあるよ、イリス。自分が綺麗だと思っていない人間は罪だよな。素直に認めりゃいいのに。そうすれば、他人を翻弄せずにすむのに。トゥンイランも、俺も、そんなお前に狂った一人ってわけだ」
「触らないで」
「口の利き方に気をつけろよ」ルイはいやに優しく言った。「脳みそを愛撫する趣味はないんでね」
 ルイの手が首元を絞めるように形をなぞり、頬にのぼっては、また首へ、胸へと降りる。
 イリスは唇を噛み締め、この屈辱に耐えた。

 彼には。フラムには、こんな屈辱を覚えなかった。このまま心まで刻まれるように蹂躙されるかと思うと、意識はいつの間にかフラムの名前を、祈るように叫び出していた。
 しかし次の瞬間、イリスは気付いた。

 最初に白い墓石が見えた――彼女が葬儀の後、一度も訪れていないティファニーの墓だ。
 次にユースアの自宅が浮かんだ――鍵をかけて二度と開かなくした家。
 そして白い月と黒い瞳がよみがえった。

 ――恐れないで。

 私はいつも遠ざかった誰かの名前を呼んで……その人がいなくなった場所から、そしてその人自身から逃げてきたのだわ。

 そうと気付くことができたなら、すべきことはひとつしかなかった。

 逃げたのなら、戻らなければならない。

 イリスはそっと足を持ち上げ、ルイの足に自分のそれを絡めるそぶりを見せた。ルイを見つめ、ゆっくりと瞬きをする。猫は、敵意を持たない印に、目をゆっくり細めることを繰り返すという、それを。
 手は汚れた足を探り。ぬるりとした感触にたどり着き、勇気を振り絞って痛みに耐えると、右手の中にそれを握りしめ。
「イリス」
 ルイに向かって微笑んだイリスは、そうして彼の耳と首の間に、尖ったガラス片を叩き込んだ。
 悲鳴が狭い通路に響き渡った。イリスは座り込んだルイから抜け出すと、出口に向かって走る。

 しかし、外には、まるですべてを予期していたかのようにトゥイマフィアたちの顔がずらりと並んでいた。

 ここまでか、とイリスは力を抜いた。一人ならどうにかなった。武器があったなら二人でもなんとか。でも、彼らは暴力のプロで、イリスには決して太刀打ちできない数を揃えていたのだ。

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