右舷側にあった影は、船と甲板にいる人々の姿がはっきりと捉えられるほどになっている。鷹なのか首長の鳥なのか、一種類ではない翼を持つ黒い生き物が船を襲い、帆に穴を開けたり縄を切ったりしている。それを追い払おうとしているのは船員だろう。だが彼らも突かれたり外に引きずり込まれそうになったりしている。
「あっ!」
 小柄な船員が猛攻に遭い、船から突き落とされそうになっている。セレスレーナが身を乗り出したとき、ディフリートの手にした筒から光とともにぱんと破裂音が響いた。途端ぎゃあと悲鳴をあげて虚鳥が飛び去った。
 彼はぱん、ぱんと何かを撃ち出して鳥を落としていく。それに向こうの船も気付いた。身を乗り出してこちらに叫ぶ。
「た、助けてくれえ!」
 ディフリートは周りの鳥を落としながら叫び返した。
「接舷する! そのままなるべく速度を保ってろ! それから全員室内へ避難するんだ!」
(接舷? 無茶だわ!)
 相手の船は虚鳥を振り切りたいのか、上下左右にふらついている上に速度を上げたり落としたりと危険な飛行をしている。その横につくとなればこちらの船も衝突は免れないだろう。
 怒鳴る間もディフリートは虚鳥を撃ち落としている。鳥たちはこちらに気付いたようで、大きく旋回し、攻撃するこちら目掛けて舞い降りて彼の手を止めさせようとする。
 だがそこでセレスレーナは気付いた。
(私だけ襲われない)
 この船も、向こうの船のように帆を破いたりなどもしてこない。
 守り火、と先ほどの説明を思い返した。これは魔除けの火なのだ。あの黒い生き物たちはこの光が守っているものを襲うことができない。なら一刻も早く守り火をあの船に届ければいい。
 ふたつの船が並走を始めた。こうなると一つの船と認識するのか、虚鳥の攻撃はオーディオンをも巻き込み始めた。
 それを撃ち落とすのはもう一つの発砲音。
 ずがん、と重い音が響き、それに怯えたように鳥の旋回が遠くなる。
「来たか、カジ! 洋燈を持って……」
「ディー! 見ろ!」
 小脇に長い筒を下げたカジが示す先にセレスレーナはいた。
 セレスレーナは後部甲板に走り、操舵室の屋根部分に登って、少し下の位置でふらつく相手の船を見た。右手には洋燈、左手には剣を持ち、灰色の雲のかけらを夜着の裾に触れさせながらそのときを待つ。
(あと少し。こちらが向こうを追い越した瞬間)
 今だ! とセレスレーナは床を蹴った。
「減速――――っ!!」
 ディフリートの声が届いたのか、オーディオンは減速し相手の船が先をいく。そのすれ違いざま、船の間の中空を飛んだセレスレーナは、相手船の後部甲板をごろごろと転がった。
 はっと起き上がる。身体が痛い。だが骨を折ったわけではない。大事な洋燈も無事。
 ならばあとは走るだけ。
 気付いた鳥たちが鳴き声を上げ、周囲を飛び回り、行く手を阻もうと集まってきた。
 守り火は万能というわけではないらしい。灯りを恐れずに体当たりしてきた鳥に顔を打たれ、セレスレーナは呻いた。飛び込んできた鳥は断末魔をあげて黒い霧となって消えるが、それを見たにも関わらず襲ってくる鳥の数は増していく。理性を失って人を害するためだけに飛び交う鳥のようだった。
「くっ」
 その時、ぱあんと破裂音がし、頭上にいた鳥が撃ち落とされた。見れば、向こうの船のへりの上に立ち、縄につかまりながら武器を構えているディフリートがいる。
 行けということなのだと知って、セレスレーナは走った。鞘を払い、剣を振りながら進路を開く。横から襲ってくるものはディフリートが倒してくれる。
「そこだ! その柱の鉤に吊るしてくれ!」
 背後から叫んだのは襲われている船の乗組員だった。走りながらその鉤を目視したセレスレーナは、柱に辿り着くと高く両手を掲げて持っていた洋燈をかけた。
 その途端、目に見えない何かが船の表面を滑るようにして覆っていくのを感じた。
 同時に暗闇に包まれていた船が淡く発光を始める。
 ぎゃああ、とまるで人のような悲鳴をあげて虚鳥が消え、あるいは飛び去っていった。あちこちに見えていた鳥の声も羽ばたきも消えてなくなった。穴の空いた帆や噛み切られてぱたぱたと揺れる縄など、襲われた痕跡だけが残されている。
 船は安定を取り戻し、水平を保って航行していた。その横にオーディオンがつき、橋桁が渡され、ディフリートとカジがやってきた。
「本当にありがとう! 助かったよ。私はこのブランシュの船長カルヴィンだ」
 カルヴィンは頭に布を巻いた背の低い壮年の男だった。船内に避難していた他の船員たちも姿を見せる。出身が同じなのか、みんな布を巻くか帽子をかぶっていた。
「オーディオンの船長ディフリートだ。災難だったな。だがどうして守り火がないなんてことになったんだ?」
「恥ずかしながら、洋燈が買えなくてね……」
 ディフリートは眉を上げた。どうやら滅多にないことらしい。
「実は遠方まで翔空していてね。洋燈を備蓄分まで使ってしまったから、帰路で見つけた商船で洋燈を買おうとしたのに、それが相場の倍以上の値段だったんだ」
「翔空衛団に報告した方が良いだろうな。あこぎな商売をしているなら、摘発の対象だ」
「ああ。恐らく船の名と塗装を変えているだろうが、念のためにそうしておくよ」
 そう言ってカルヴィンはセレスレーナに笑顔を向けた。
「お嬢さんもどうもありがとう。助かったよ。勇敢なんだねえ。びっくりしたよ、まさか跳んでくるとは思わなかったから」
「いえ、ご無事で何よりです」
 微笑して答えたセレスレーナの頭に、ディフリートの拳が振り下ろされた。
「いたぁっ!?」
「馬鹿野郎っ! 死にたいのかお前は!」
 拳骨で殴ったことを詰ってやろうと思ったのに、口を噤まざるを得なかった。
 目がつり上がり、瞳は燃え、顔がぴくぴくと痙攣している。本気で怒っているのだ。
「ここから落ちたら死ぬか、よくてもどこかわからない異世界に飛ばされるんだぞ! なのにお前は、暴走する船に向かって跳ぶなんて馬鹿をやって!」
「わっ……わ、私がやるべきだと思ったからそうしたのよ。ああでもしないと、洋燈をこの船に渡すことができなかったでしょう?」
「それは俺かカジがやればよかったんだ! お前が跳ぶ必要はない!」
「どうしてそこまで怒るの! あの時手が空いていたのは私だったし、あなたはそこまで心配するほど私のことを知っているわけじゃないでし、ぁ痛あ!」
 再び拳骨が降る。頭を押さえて座り込む、その肩を両手で掴まれた。
「あんたは俺のもんだつってんだろうが!」
 低く凄む、その表情にかあっと熱が昇るのを感じた。
「おおー……」
 身を竦めるようにしながらぷるぷる震えていたセレスレーナはその感嘆の声に我に返り、ディフリートもまた、カジに肩を叩かれて少し冷静になったようだ。肩を掴む手を緩めると、深いため息をついた。
「え、ええーと、ディフリート船長? お礼と言ってはなんだが、よかったらうちの商品をもらってくれないだろうか?」
「……商品?」
 おかしな空気を払拭しようとしたカルヴィンの提案にディフリートが問い返す。
「ああ。うちは服屋でね。お嬢さんの薄着がさっきから気になってしょうがなかったんだ。よかったら一式もらってくれないか。もちろんあんたやお仲間たちも」
「いいのか? 助かる」
 答えたディフリートはセレスレーナを解放し、待ち受けていたブランシュの船員たちに引き渡した。セレスレーナは船内の一室に連れて行かれ、気付けば、ふたりの女性船員がと引き出してくる無数の衣装に埋もれそうになっていた。
 彼女たちが持ってくる衣装は、見慣れた形のものもあれば変わった形のものもある。正直どれがいいのかさっぱりわからない。
「船長さんかっこよかったわね! 恋人なの?」
「はっ、はあ!? 誰があんな人と!」
「だって『あんたは俺のもん』って言ってたじゃない。恋人じゃなかったら告白? わあ、積極的! 素敵ぃ!」
 セレスレーナよりいくつか年上だろう彼女たちはきゃっきゃっと楽しそうだが、セレスレーナはむっつりと黙り込んだ。殴られた頭がまだずきずき痛む気がする。
(どうして殴られなきゃいけないんだろう? それも拳で。人の命がかかっているのなら私のとった行動は間違っていない。あんなに怒ることないと思う)
 けれど『死にたいのか』と言った彼は心の底から怒っていたようだった。そもそもそれがよくわからない。彼にとって自分は、行きずりで連れてきただけのはずなのに、命を無駄にするなだの何だのと、まるで近しい人のように言う。今まで誰も、故郷の人々ですらそんなことを言った人はいなかったのに。
 こつこつ、と扉が叩かれる音がした。
「お邪魔しまあす。ここで服がもらえるって聞いてきたんだけど?」
 扉を薄く開けたのは、オーディオンを操縦していたシェラだった。
 どうぞどうぞと女性たちは彼女を招く。入室したシェラは衣類に埋もれているセレスレーナを見るなり、にやりと笑った。
「お困りのようね、お姫様。それともディーに殴られた頭が痛む?」
「あなたたちの船長は乱暴者ね」
 むっつりと言い返すと、彼女は笑いを噛み殺した。
「拾ったからには最後まで面倒をみないと気が済まないのよ。あなたが船から跳んだとき、相当肝が冷えたんでしょうよ」
 あ、これかわいーと言って衣服を広げて身体に合わせている。彼女に言うとも無しにセレスレーナは呟いた。
「私が死んだからといって、寝覚めは悪いかもしれないけれど彼にとって不利益があるわけではないでしょう? なのにどうしてあんなに怒るのかわからない。私はただ偶然船に乗っているだけなのに」
「仕方ないわよ馬鹿だから。しかも言い出したら実行できちゃう馬鹿だから救いようがない。理解できないなら分かるまで考えること、それができないなら残念ね、諦めなさい。えーっと……」
 分かるまで考える、という部分がくっきりと響いた気がしたが、シェラが言いよどんでいることに気付いてそれを記憶の引き出しに放り込んでしまった。
「私はセレスレーナ・ジェマリアンナ」
「あたしはシェラ・クレメンサス。セレスレーナね。呼びにくいわ。レーナでいい?」
 そう呼ばれるのは久しぶりだ。子どもの頃、まだ生きていた母にそう呼ばれていた。後継として自覚を持つよう、教育の内容が厳しくなる頃には誰も愛称で呼ばなくなっていたから、久しぶりの響きにくすぐったい気持ちで頷いた。
「ええ、そう呼んでもらって構わない。よろしく、シェラ」
「よろしく。あの馬鹿のせいで苦労かけるわね。で、どういう話の流れだったわけ?」
「それ私たちも聞きたーい! 聞かせて!」
 成り行きを眺めていた船員たちが会話に加わってくる。あまり吹聴したい話ではないのだがとためらいつつも、意見を聞きたかったのでディフリートとの間に何があったのかを話した。その間にも服を選び、試着を繰り返す。
「……というわけで船に乗ることになったみたい。迷惑をかけて申し訳ないけれど色々教えてくれる? そしてできれば私を船から下ろすように彼を説得してほしい」
「説得にも協力してあげたいけど、あいつの気が済むまでとしか言いようがないわね。拾い主としてレーナがちゃんと一人でやれると確信を持てたら帰してくれるはず。そういうところで嘘はつかないから信用していいわよ」
「一人でやれるって何。私は最初から一人でやれる。ずっとそうだったんだから」
 苛立った口調で言い返す。いきなり現れて保護者のような顔をするなんて何様のつもりだろう。親切をしたとでも思っているのだろうか。
(何も知らないくせに)
 国のこと、母や父のこと。どんな風に生きてきたか。一度は死を覚悟したくらいなのに、面倒を見る、背負うなんて軽々しいことを言ってほしくない。彼はセレスレーナを気まぐれに助けただけ。どうせすぐに別れる相手だ。心から望む時にいつでも助けてくれるような存在にはならない。そんな存在はこの世に存在しない。たとえ異世界が無数に連なろうとも。
「わかった。あの人に頼らなければいいんでしょう。私が一人でちゃんと、自分の面倒を見られるようになればいいんだから」
「そういう意味じゃないような……」
「しぃっ。言っちゃだめよ」
 何か言いかけた船員の一方をシェラが小声で遮るが、渡された着替えを頭からかぶったところだったセレスレーナは見ていなかったし聞いていなかった。話は一度そこで終わり、シェラが服を見立ててくれることになったのでそれにかかりきりになった。

 シェラとともに廊下を歩いていると、ブランシュの船員たちが「かわいいじゃないか」「よかったな」などと声をかけてくれた。それにありがとうと礼を言って甲板に出れば、船長ふたりが話をしている。
 ディフリートはすぐに気付いた。どきっとする。
(ど、どうしてそんなに優しい顔をするの……)
 そして何故カルヴィンに断ってまで近付いてくるのか。やってきたディフリートは顎に手を当てて、ふむと頷き、笑った。
「よく似合う。新米女性翔空士って感じだな。シェラの見立てか?」
 長袖のシャツに胸と腰を保護する革製の胴着、男物のような脚衣にふくらはぎを隠してしまう長さの革靴を履いている。翔空士の服装の特徴なのか、袖口や裾など各所に絞れるような帯革がついていて、ふわりとした寝巻きと比べてごつい印象だ。長い髪をまとめると貴人に仕える小姓のようで、腰に巻いた太い帯に剣を差すと余計に少年っぽく見えた。
「かわいいな。うん、かわいい」
 だがディフリートがやけに嬉しそうに繰り返すので、セレスレーナはぐっと声を詰まらせ顔を背けた。こんなわかりやすいおだてに乗るものか。
「ふふん、かわいいでしょ? もっと褒めなさい『さすがシェラ!』って」
「さすがさすが。すごいすごい」
「雑!」
 シェラの苛立ちの蹴りがディフリートの膝に入った。うおっと、とわざとよろめいた彼にふんと鼻を鳴らしてシェラはオーディオンに帰ってしまう。船長に対する振る舞いではないような気がするのだが、ディフリートはそれでいいらしい。不思議な船長と船員の関係だ。
 見つめていると目が合いそうになり、慌てて視線を外した。
「これからどこへ行くの?」
「あんたがオーディオンに乗るなら翔空士登録を済ませなきゃならない。だからこれから中継船団へ行く。中継船団はすべての世界の空船と翔空士が集まる場所だ。そこで補給をして、次の《天空石》がどこにあるのか情報をもらう」
 船が港に立ち寄ったり商隊が都市に入ったりするようなものだろうと想像する。
「そう言っている間に見えてきたな」
 ディフリートが虚空を指す。セレスレーナの目にも人が灯したものと思われる無数の明かりが見えてきたが、その全貌を知るにつれて言葉を失った。



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