「とりあえず、その格好をなんとかしないとね。おいで」
連れて行かれたのは兵舎の一室だった。武器や防具が整頓され、着替えが吊るされている。アーリィは、振り向きざまそれを押しつけるようにして、リカシェに囁いた。
「あんた、うまいことやったね。射手におさまるなんて。これで水葬王が見られるじゃないか」
ぎくりとする。ハルフィスに関心があることを気付かれていたようだ。
「お目に止まる確率はそれこそニルヤが地上に現れるくらい不可能に近いけど、まあ年若い娘っこが美貌の神王にのぼせあがるのは仕方のないことさね。よく見とくんだよ。すさまじく眼福だから」
しかしどうやら少しだけ認識がずれているらしい。美しいと有名な水葬王を一目見たいと思っている、と勘違いしているようだった。かっかっと笑われてしまう。
(確かに芸術家が写し取らずにはいられないであろう美しい方ではあったわ。ええ、見た目はね)
「まずは着替えだね。それを着て、髪をまとめておきな。他の準備はしておくから」
アーリィが出て行き、リカシェは着替えを始めた。兵士の服は、驚くべきことに絹のような手触りで、着心地がよく軽くて動きやすい。髪を後ろにまとめた後は、防具や手袋を身につけていく。これらも全部何で出来ているのかわからないほど軽い。
着替えを終えて元の場所に戻ると、他の兵士たちも準備を終えて待機しているようだった。
「ああ、着替えたんだね。はいこれ、あんたの弓と矢だよ」
弓は白い木でできており、つやつやとしていてよくしなりそうだ。受け取った矢の中には、二本だけ特殊な形のものがある。先端に蟇目がついているのだ。
蟇目は小さな筒に穴を開けたもので、射ることによってその穴から風が通り、笛のような音が出る。神事でも使用されるが、戦場では開戦や退却の合図で射られるものだった。
「普段はあの爺さんが射るんだけどね。その爺さんがあんたにやらせようって言ったから、他のやつらは何も言えなくなったのさ。鳴らすにはこつがあるらしいから、聞きに行ってみな」
「ご親切にどうもありがとうございます。聞いてみます」
にこりと笑ってアーリィは仲間たちのところへ向かった。彼女が示したさきほどの老爺のところに行くと、彼はちらりと目を上げ、満足がいったのか数度小さく頷いた。
「お役目をいただき、ありがとうございます。私はリカシェと申します」
「アレースィンだ。アレー爺と呼ばれている」
自己紹介を終えたところで集合の声がかかった。あちこちで立ち話をしていた兵士たちが移動を始める。
「これから城の門から外にでる」
「街へ行くんですね」
アレー翁はかすかに笑った。
「行けばわかる」
リカシェの疑問を見透かしたかのように言う。
ふと周囲を見回してみると、兵士の顔ぶれはほとんどが大きな子どもがいるであろう年齢の男性だった。次いでアレー翁のような年寄り、そして女性。女性は数が少ないからか一つにまとまっているらしい。仲間と歩いているアーリィと目が合うと、にっと笑ってくれた。
(兵士の数はあまり多くないのね。五十人……というところかしら)
アーリィに小さく手を振りながら城の門前とやらを目指す。
行き着いた先は、いくつもの柱がそびえ立つ広大な青い砂地だった。そこにあるのは、鏡の縁、硝子のない窓を思わせる、扉のない門だ。広い場所にぽつんと建っているので、装飾目的の芸術品かと思ったら、兵士たちはその前で止まるのだった。
「これより闇払いを行う。配置はいつも通りに。では、出発!」
「あんたはわしと来なさい。今回はわしの代わりをしてもらうからな」
もうみんな慣れているのか、特に説明もないまま発つことになってしまったので、アレー翁が声をかけてくれてほっとする。
先頭に立った隊が門に向かって歩いていく。何をするのだろうと思ったら、門をくぐった途端、兵士たちはまるで鳥のように次々に飛び上がった。
「空を泳いでいる……」
どんな力が働いているのだろう、翼もないのに高く跳躍し、泳ぐみたいに両手を使って空を掻いていく。
「門をくぐるとああやって『飛ぶ』ことができるんだ。さあ、行くぞ。思いきり地面を蹴るんだ」
気付けばリカシェたちの番だった。アレー翁はすたすたと門をくぐり、軽々と空を飛んでいく。混乱して不安になるリカシェだったが、後ろがつかえているという焦りもあって、慌てて門をくぐる。
(戸惑っている場合じゃないわ、経験しないとわからないことよ!)
跳躍するように両足を曲げ、大きく地面を蹴り出す。
すると、ぐううんと空気を突っ切る感覚がして、自分でも思いがけない距離を飛んでいた。その速度が弱まったので落ちるのかと思いきや、水の中を漂うようにふんわりと浮かんでいる。
「なかなか思いきった人だな、あんた」
いつの間にかアレー翁を追い越していたらしい。追いついてきた彼に笑われ、リカシェは赤くなった。
「そう、泳ぐようにしてこの世界を『飛ぶ』。急ぐぞ、ぐずぐずしていると水葬王がお出ましになる」
水泳は得意ではないのだが、なんとかアレー翁についていく。
「蟇目矢は、水葬王が戦いに出る時に鳴らす魔払いの音だ。最初は力を宿すため、最後は場を清めるために射る。全員が配置についたら太鼓が鳴る。その合図で、お前と他の二人が清めの蟇目矢を射る。その後、兵たちが動く。終わる時も同じ、太鼓が鳴ってから矢を射る。それで終わりだ」
「戦闘には参加しないのですか?」
「冥府からやってくる闇は、水葬王の剣でしか払うことはできん。兵は補佐に徹する。ここに集められた者は皆、大なり小なり魔力を持っているから、浄化の力を高めたり剣に魔力を宿したりできるのだ」
ここだ、と言われたところは何もない青い中空だ。手を掻くのを止めると、身体はもちろん、まとめた髪や服の裾もまた水の中にいるように浮かんだ。
「蟇目の射手は重要な役目だ。なにせ、最初の魔払いの儀式だからな。魔力がなくてはいい音は鳴らんし、腕がなくても清めの音は出せん。失敗したらお役目を解かれて冥府の門へ直行だな」
リカシェはぎょっとした。
「そんな! そんな大事な役目を突然現れた私に託されたんですか!?」
「そりゃ、あんたが射手をやりたいと言ったからな。心配せんでもあんたはちゃんと射ることができる。これでも見る目はあるつもりだ」
リカシェの驚愕を埃を飛ばす気軽さで吹いて捨てて、アレー翁は微笑んだ。
まさかこれくらいのことをできないとは言うつもりか――そう言われているのだと思うと、顔が熱くなるのがわかった。
ぎゅっと弓を握りしめる。
(閉じこもったり立ち止まったりするより、行動して失敗する方がずっと私に合ってるわ。こんなこと、父がいたら絶対にやらせてもらえないもの)
それが水葬王の御前で清めの矢を射ることなのは身体が竦むが、ここで逃げ出すなんて考えられなかった。自分の力を試す前に女らしくあれと閉じ込められてきたけれど、水葬都市で少しは自由でいることができるのだとしたら。
(やってみせるわ。私の自由に、私の力の限り!)
前を見据え、息を整える。
どんな言葉も行動も、迷いがあれば付け入れられる。大事なのは自分が何を目指すのか、何を思っているのかを知り、己の行動による失敗や傷といった恐怖と向き合う覚悟を持つこと。揺らぐのは仕方がない。立て直すための強さを持つことだ。
どぉん……、と太鼓を打つ音が響いてきた。アレー翁が深く頷いたのでリカシェは息を整え、弓矢を構える。
ひゅうん。最初の蟇目矢が鳥の鳴き声のように響く。ひゅううん。二度目は少し長く、遠いこだまになっていく。
思考が透明になったその一瞬、リカシェは矢を放った。
それは白い軌跡を描いて彼方へと、滑空する白鳥の光を帯びて輝く。
――いいいいいいぃぃん……。
遠くへ消えるはずなのに迫り来るかのようにして高い音が降ってきた。音叉のように澄んだ無垢な音色は、リカシェの心と共鳴したようだった。その響きが消えたて、リカシェ長く息を吐いた。