「あんた……」
「はい?」
 アレー翁が呆然としているのでどうしたのかと声をかけようとした時、馬の蹄の音が聞こえてきた。兵が並ぶ後ろから現れた青い世界の中に浮かぶ白い輝きは、馬車を操るハルフィスだ。
 一瞬見えた横顔は、強く引き締められ、まっすぐで気高い眼差しをしていた。
 彼が目指すところは青い世界の向こう、遥かな底だった。青の色が濃く沈んでいるそこに、自ら落ちるようにして進んでいく。かすかに濁った青に彼の姿が霞んでいき、見えなくなったかと思うと、白銀の光が星の形になるがごとくほとばしった。
 冷たい色、けれど温かい力が立ち上り、リカシェたちを包んだ。上昇気流のような風に落ち着いていた身体がふわっと浮かびそうになる。先ほどの輝きは二度、三度と続き、底にあった濃い色は心なしか絵の具の明るい青のような色に変わっていた。
(冥府の闇は、奥底から湧いてくるのね)
 嘆きや悲しみ、怒りといった感情は、たとえ冥府の門をくぐろうとも癒されずに残ることがある。それが闇だ。闇は和らぎ消えるまでニルヤの御許で慰められることになるが、強い感情は冥府の門から出て、水葬都市の死者たちを食らって大きくなろうとし、やがて地上に出ることを目指すのだ。
 それを抑止するのが水葬王であり、彼は冥府の門の番人でありながら、地上の守護者でもあった。
 太鼓が響き、最後の矢を射る。いいいんと鳴るそれを聞きながら、最初の一射とは異なっている気がしたのでリカシェは内心で首を傾げた。初めは気負ったせいだろうか、あの時鳥のようなものが見えたのに、今はごく普通の蟇目矢だった。
 ともかく、これで役目は果たした。冥府の闇を払うということはこういうことなのだとわかってよかった。
(水葬王の姿を見ることもできたし……あの方、人間を前にするより、仕事をする時の方が人並みの顔をなさってるんじゃないかしら?)
 少なくとも人を寄せ付けない性質なのは本当のようだ。でも戦うことが好きだというわけでもなさそうだった。楽しみが何もない、心に響くものが見当たらない、明るい感情を削ぎ落としたような顔をしていた。それが元々の美貌と相まって、水葬王の美しさを名だたるものにしたのかもしれない。
「無事に終わったんですよね? よかった」
 アレー翁は前を見ながらぼそりと言った。
「無事に終わりはしたが、あんた、覚悟しておきなさい」
「……どういうことですか?」
 問いはしたものの、彼は顔を伏せた。見れば、他の兵たちも続々と面を伏せていく。胸に手を当てている者もいる。その礼を尽くす仕草は、高貴な相手にするものではなかったか。
 ぶるうぅ、と生き物が息を吐く音がして、リカシェは硬直した。
 するすると車輪の回る音がする。何の音かは、明白だ。
(ふ、振り返りたくない……)
「清めの射手。最後の一矢を射ったのは誰だ」
 冷え冷えとした声に、リカシェは顔を下にやりながらそっと身体の向きを変える。
 問いかけに答えはない。全員が、リカシェの答えを待っているからだ。
「誰だ」
 苛立っていないし怒ってもいないが、答えを聞くまで収めるつもりはないようだった。
(仕方ない、私が悪いんだから!)
 リカシェは大きく息を吸い込んだ。
「――わたくしです」
 顔を上げ、まっすぐに。目を逸らさないと決めて。
 正面から堂々と見上げたリカシェがハルフィスは一瞬眉をひそめた。だが、それはかすかな不審と驚きに変わった。どうやら誰かわからなかったがリカシェのことを思い出したらしい。その眉が、ぴくりと動いた。
「こんなところで何をしている」
「皆様のお手伝いを」
「外に出るなら許可を取れと言い渡したはずだ」
「仕事をするなとはおっしゃいませんでした」
 ハルフィスのまとう気配がみるみる冷たいものに変わっていたが、リカシェは微笑みを浮かべ続けた。
 だが内心は冷や汗をかいている。神を怒らせるなんて、死してもなお苦しむ呪いをかけられても仕方がない。
 人嫌いの水葬王は怒りの矛先を変えるかのように質問を変えた。
「清めの射手はお前なのか。三つ目の音だ」
「わたくしです。わたくしが三本目を射ました」
 ハルフィスは隣で頭を垂れるアレー翁を見た。アレー翁は「その者です」と答えた。声がかすかに揺れていたのは、リカシェが何者かいぶかっているからだろう。
 改めてハルフィスはリカシェを見た。
「あれは最も清浄の力が強い音色だった。ともすれば闇を射抜くほどに。そのような射手がいるのなら近衛として勤めてもらおう思ったが……」
 彼は顔を歪めた。
「花嫁ならばそうもいくまい」
「いっ」
「はなっ……!?」
 ハルフィスの声を聞いた者たちの呻きが上がる。彼らに心の中で手を合わせつつ、リカシェは微笑みを浮かべて余裕を装った。
「水葬王の近衛に取り立てていただけるなんて、これ以上ない誉れですわ。女の身でもよろしいのでしょうか?」
 いけない。動揺して当てこすってしまった。下手に貼り付けた余裕はあっさり剥がれ落ちた。彼に言う必要のない、常々抱いている不満をぶつけてしまう。
「性別は関係ない。その魂の形に意味がある」
 リカシェは面食らった。
 ここまではっきり、さらに何の感慨もなさそうにずばりと言い切られ、握りしめていた憤懣がぽろりと落ちる。
 ハルフィスは周囲を睥睨し、彼らに非がないことを確かめると、再びリカシェを見て目を細めた。
「私の意に背く目的はなんだ」
 リカシェは笑みを収めた。
「反意を示したいわけではありません。お怒りを受けたいわけでも。わたくしの望みはただ一つ。……地上へお返しください。守らねばならぬ者を残してきたのです」
「ならぬ」
 ハルフィスの答えは端的で強かった。
 わかっていながらも突き刺されたように痛み、リカシェは大きく息を吸い込んだ。
「花嫁にふさわしからぬとお思いでしょう。自覚もございます。ならば」
「そなたは我が供物、白百合の棺を私は拒めぬ。そなたが私に捧げ物をすればその願いを叶えることができようが、あいにく私は何も欲していない。花嫁を受け取るのは、私がニルヤと地上のものとに交わした契約だからだ」
 リカシェは顎を引いた。
「……あなたに捧げ物をすればよろしいのですね?」
「必要ない、と言った。受け取る気もない」
 しばし、睨み合いのごとき視線の交差が続く。
「外に出たことについては、仕事だったゆえのことと言うのだな」
 ハルフィスは話題を変えた。
 リカシェは一瞬迷った。ここで肯定すると足元をすくわれそうな言葉運びだ。だが自分が口に出したことを引っ込めるのは性分に合わなかった。
「はい。わたくしから手伝わせてほしいと頼みました」
「仕事が欲しいのならば与えてやろう。そなたの望む『花嫁』らしい役割を」
 口ぶりからしてそれが嫌がらせなのは明らかだった。
「そなたに私の『枕』になることを命じる」
 リカシェは目を見開いた。
「ま、……ま……?」
「枕に弓は弾けぬ。賢しい口も利けぬ。そなたにはさぞ難儀な仕事だろう」
「…………っ!!」
 ふ……、と。
 水葬王はリカシェが真っ赤になったのを嬉しがるように、かすかに口の端に笑みを乗せていた。それを目の当たりにしたリカシェはますます赤くなって、ぱくぱくと口を動かすが、何も言えない。
 それほどまでに見る者の胸を弾ませるような美しい微笑だったのだ。たとえ自分へ向けての皮肉であっても、興奮と羞恥と怒りが混ぜ合わさって赤くなりながら目を離せずにいた。
「そなたは従士と共に帰れ。兵たちの手をわずらわせるな」
 そう言うと、彼は手綱を振るった。馬車は滑りだすように城へと向かい、入れ替わるようにして詰襟を着た従士たちが現れた。共に帰るというよりは連行される形でリカシェが城へ向かうのを、引きつった顔でアレー翁やアーリィが見送っているのが見えた。



 

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