序章 雨   
    


 焼き尽くされた灰の濃色の雲から、やがて細い雨糸が落ちて天地を繋ぐ。
 降りしきる雨は、この場にある二つの身体に打ちかかる。大地に満たされた水は地を跳ねるが、それは些細で二人に身じろぎすら呼び起こさない。雨音の中、狭間には沈黙がある。
 見下ろす男の髪から雫が落ちる。わずかな明かりを集めて輝くような髪から、光が落ち、地を這い雨に打たれてまだらになった紅の中へ。紅を流し続ける女の身体は投げ出されたまま、その瞳だけが見下ろす男を捕らえている。
 何故、と沈黙を掻き分けるように男は問うた。女が男に求めたことはひどく無茶で、意図が分からず意味も分からぬものだった。見知らぬ男、それも自分を手にかけた者に願うことでもなかった。ゆえに、答えを求めた。
 だが女は答えない。ただ緩やかに目を閉じ、もう一度開き、笑うように目を細めて、左の手を差し出した。力の入らぬ手は長いこと支えきれずにすぐに落ち、それが、女の最期だった。
 その左手の指には、男に託したものがまだ光っている。



 そんな記憶を思い出したのは、外を覆う雨が洞窟に音を響かせているのが一つの要因だろう。雨の雫はここには及ばないが、音は記憶を揺さぶってくる。感じる冷気や水の芳香がそれを更に助長する。
 そして反面、晴天の記憶をうまく思い出せなくなる。愛した少女の記憶は今は遠い。思い出は持っているはずだった。だが、普段から思い出していただろうか。
「――……い……」
 焚いた光で影になっていたものが、小さく声を上げて身じろぎをする。
「………さむ……い……」
 近寄るとそれは身体に外套を巻き込んで固くなって眠っている。寒いと訴える反面、額には汗が浮かんでおり、触れると手袋越しにでも弾かれるような熱を返してくる。剥き出しにした腹部の包帯には再び血が滲んでいた。それを見た瞬間、雨の記憶も音も匂いもすべて忘れ、甘い香りが全身を支配する。
 支配――しそうになったのをとどめ、息を吐いた。寒いとまだうわごとを繰り返しているのを、手袋をはめた手で手当をする。なるべく血は見ないようにし、手当を終えた手袋は埋めて捨てた。
「寒い……」
 戻ってくるとまた小さくなっている。眉間の皺や目元の隈、そして震えるほど握られた手が苦痛と憔悴を表して痛々しく見えた。
「……ねえさん……」
 これで何度目だろうか、伸ばしかけた手が囁き声の呼び名に硬直する。まるでこちらが抱いている記憶を見ているかのようだ。想像するとあり得そうな話だった。二人の記憶が響き合い、こちらにあの時のことを思い出させているのなら、自分が雨の記憶に支配されているのも頷ける。
 だがしかし、そんなことはあるはずがない。強ばった手を伸ばし、握りしめた拳をほどいてやりながら、男は考える。また、思い起こす。
 雨の世界の記憶。一体、あの願いはどちらのためのものだったのだろう、と。

   *

 空を舐める紅が黒雲を照らしあげたのは、一体いつのことだろう。今は雨が降っている。雨雲のあの色は立ち上る煙の色を吸ったのだろうか。
 長い雨で地は泥に変わり、全身はぬれねずみで、感じるすべてのものが不快だった。むっとするような雨のにおいの中に、喉に引っかかるような灰の感触がある。倒壊の音か雷鳴か、空に響き渡る轟音に身を竦ませるよりも、映るものが現実であることを確かめる方がさきだと思っていた。何度も、そう考えた。
 だが進む足は思いに背いて折れ崩れ、身体を冷たい泥の中に叩き込む。もう何日も誰もいない街を彷徨いっぱなしだったのだ。燃え尽くされた世界には誰も見つからず、いつまでもどこまでも絶望を見せ続ける。出て行けばいいのに、行くところを知らない。顔を土に埋めながら、子どもらしからぬ冷静な意識があっさり判断を下した。これでは、もう、長くない。
 姉さん。浮かんだ名を心で囁けば、目尻に涙がにじんだ。姉さん。口からついて出た泣きそうな音。姉さん! 泣き叫んでももう届かない。『分かって』、そう言って消えてしまった。残されたのは故郷を誰もいない廃墟の街と、冷たい身体。
 雨に埋もれることがあるのなら、きっと今だ。どこに行けばいいのか分からない、教えられていない子どもだった。だから、姉の言葉の答えがないのだろう。分からない自分はとても空っぽで、空虚の中はとても暗くて冷たくて、寒かった。悲しみで固くなっていく心は、その寒さの中で石に変じていく。だから目を閉じて、答えのない世界にゆっくりと身を投げ出した。





 雨が降っている。
 今は、まだ。

    



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