黒竜の声は雷鳴だ。その色は暗黒。炎のように燃え上がる、憎しみ。
「少しのところで逃げられたんだが、一所に留まっていれば現れると思ってな。遅かったな」
 ランカの執着はセンにある。自我をなくした失竜人でも、もし心が残っているとすれば、最も思い出に残る愛した誰かなのかもしれない。
 解かれた指をもう繋ぐことはできない。だが代わりに、キサラギはセンの腕を引き止めた。
「だめだ、セン。彼女を狩れば、あんたは戻れなくなる」
 センが不思議そうに目を細める。それは、優しい問いかけ。
「『分かった』んだよ、ユキが言ったんだ、愛することは許すことだ。センはランカを許さなきゃならない。そして、あんた自身を」
 黒竜が哮り叫ぶ。
『許さない、許さない! 私をこんな姿にしておいて、あなたは救われようというの!?』
 黒竜の意識は憎しみに囚われている。愛した誰かの記憶は、彼女にとっては復讐と憎悪に塗り固められてしまっているのだ。心残りとするのなら、自分を裏切った恋人への恨みのままで。
「彼女の憎しみは、消えない。解放してやりたい」
「なら私の血をあげるから」
 雨粒が。頬を伝っていく。彼の頬にも、閉じて開く瞼から流れて。
「私を、あげる。この朽ちない血、滅びない魂を」
 そうすれば二人はきっと救われる。本当に、人間の血が竜人を人間にするのか分からないままだし、失竜人が人間に戻れる保証もない。けれど、言わずにはいられなかった。どうか、限りある命と魂の証が、美しいものでありますようにと。
 センは、しかし、首を振った。
「罪を犯しすぎた。だから俺が連れていく」
「いやだ。人間に、なろうよ。ううん、あんたはもう人間だよ。あんたは私に求めなかったじゃないか……」
 泣きたい気持ちで言葉を紡いでいく。
「『分かった』って言ったろ。姉さんが『分かって』ほしかったのは、姉さんの願い事と、姉さんが抱いていた思いだと思う。願い事は、私に生きていてほしいということ。抱いていた思いは、多分、恋だ」
 泣きたいのは、止められないと分かっているから。剣を握る手は、それを捨てても、とても小さい。言葉だけ。言葉だけが、彼のために。
 でも最後に卑怯なことを口にした。
「私は、センがいなくなるのは嫌だ。センに、生きててほしい」
「もう行く」
 それでも引き止められてくれない。するりと抜けると思った腕は、近付いて額を合わせることに代わる。こつんと、軽い音。
「戻ってきたら、答えを聞く」
「だからもう答えたじゃないか……」
「聞かなかったことにする」
 ――苦々しい顔は神様が描き損なったようで記憶に強く刻まれていた。でも、キサラギはこの微笑を一生忘れないだろう。これこそ、永遠に。
 まるでそれに引き寄せられたかのように黒竜が迫る。マミヤとセノオの竜狩りたちから驚きの声が上がった。センは跳んだ、キサラギを抱いて。
 だがキサラギは竜ではない。鳥でもなければ、人間以外の何者でもない。少しだけ空中に留まった二人は、天地に分かれながらも手だけは離さない。センの目を見た。センもキサラギの目を見た。その手が二人を最後に繋ぎ合わせて。
 しかし、別れは来る。彼は天へ、キサラギは地上へ向かう。
「じゃあな」
 繋げた指が離れた。空に光が迸り、黒竜を連れていくように走っていく。二頭の竜の声が空に重なっていく。どちらからともなく混ざり合うように、縺れ合いながら天空へ飛び去っていく。
「約束……」
 白い竜人がしたひとつの約束。キサラギとセンを繋いだ約束は、彼にとって、死すべき者から与えられた一方的で不本意なものだったに違いない。だがそれでも違えず、彼はキサラギを見つけ出した。雨の始まり、人の街を訪れ、共にいてくれ、街を渡り、祭りで異界を覗いて、告白をし、解を求める旅をした。
 そうして未来へ繋がる約束を残した。しないと言った、誓いを。
 いつしか光を取り戻した空に冷雨は失せて、彼の飛翔した空が割れて光が射す。雫を受けた地上が輝く。血が流れ、人が傷付き、汚れてはいたけれど、そこは確かに命がある大地だった。
 見上げた先の太陽の環は、何かの約束事に似ていた。
「まるでお伽話だね、セン……」
 あまりにも綺麗すぎて、輝きに満ちていて。ずっと昔から知っていた。果てしなくてどこまでも続いていると知っていた。それでもやはり美しいままだった。物語は光に約束されていると、信じたくなる空だった。
 ――約束を、しよう。あなたが未来を望めるように。
 かざした手、指に、光が環を繋いでいた。

    



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