優しい過去は姉の声だ。自分の名を呆れた声で、しかし愛おしそうに呼ぶのが好きで好きでたまらなくて、どこにでもついて回っては、だめでしょう、と叱られるのを待っていたように思う。
 晴れた日には、外に行った。連れていってくれと飛び跳ね地面をはしたなく転がってねだった。外の草原は子どもが行くのは許されていない場所で、恐ろしいものがたくさんあると大人たちも語り部たちも言ったのだ。でも姉だけは、少しだけよと手を引いてくれた。
 草原の強い風の下で、空は果てしないものだった。風が高く突き抜けていく。風は光のようで、空に溢れて尽きることがなかった。
 ぐるりと見回しても雲が欠片も見当たらない青空というのは珍しかったように思う。たかだが五年ほどしか生きていなかったからそう思ったのかもしれない。でも、そういう空の下では、世界は自分の手の中あった。ここにいる、姉と二人、世界の中心に立っていた。中心にいるということは、どこにでも行けるということだ。いつか行けると、信じて疑わなかった。
 姉の髪がなびくのがまた綺麗だった。仕事のない時は結わずに、さらさらと流して、でも仕事が仕事だからいつもすらりとした身のこなしで、女子にしては異様な出で立ちは、凛々しくて美しかった。そうして皆がそんな風に騒ぐ姉が自慢で、笑いかけるために見上げた高さにある剣の柄飾りの赤い石が、きらりと光を弾くので眩しかった。
 でもその人がどんな顔をしていたか、記憶が薄れて思い出せなくなっている。それでも姉に執着する理由はきちんと気付いていた。自分が目指さなければならないものだからだ。姿形の印象だけが鮮烈に、胸に焼き付いて離れない。強く凛々しく美しかったあの人の、人間としての最後の――。

「――……」
 見上げた空は蒼穹ではなく、赤い光と影が揺らめく岩の天井だった。ゆるゆると目を動かした先にたき火が揺れていて、土のにおいと岩が転がっていることからここが洞窟であるらしいと知る。煙が細くたなびいて、隙間らしい穴から消えていった。
 生活の場になっているがどう見ても急ごしらえの宿だった。キサラギ、かけられている毛布、そしてたき火以外の人間の痕跡が見当たらない。
 それにしても随分広いが、と思い、更に視線を巡らせた先に見た、白い固まりに納得した。どうやら竜の巣であるらしい。あれは食われたものの名残だ。もう宿主はいないようだが。
(そういえば……)
 私も食われそうになったんだっけ、としみじみ思ってしまった。ふと気付けば穴の空いていた腹部には包帯が巻かれていて、やはり誰かいることを示している。だが人の気配はなく、声を発しようとするが掠れてうまく出なかった。代わりに、身体を少しずつ動かして起き上がる。
 ついた手が固いものに触れた。鞘に納まった剣、自分の剣だ。握りしめると力が沸く。
「っ……」
 腹部から引き攣ったような痛みが走ったが、なんとか起き上がる。ますます洞窟らしいのを見回して、向こうに見える光の方向へ向かう。その方向が死後の世界だとしたら笑い事だが、それでも剣を支えに歩き出した。
 光は近付き、キサラギに向かって風が吹いた。そして、キサラギは目を見張った。
 なんて高い山の上にいるのだろう。草原が向こうまで見渡せる。だが地形に覚えがあって記憶をたどると、それはふた月の準備を行って確認したノグ山周辺の様子だった。つまり、ここはノグ山ということになる。
(誰がここまで……?)
 動かせないほどの重症患者だったからここに置いていかれたのか。いやそうだとしても誰もいないというのはおかしい。それに、手当を要する患者を何故岩ばかりの険しい山に運ぶことになるのだ。
 下方に目をやれば、黒竜が倒した森の跡が見える。木は貴重だ、また植えなければならないなと考えていると、その下方から何かが飛ぶのが見えた。
 驚いて目を凝らすと、それは人だった。文字通り、跳ぶように岩を蹴ってこちらに近付いてくる。段々、男と分かるようになった。
 長い銀髪に、黒い竜狩りの装備衣装。つとその顔がこちらに気付き、キサラギは仰天して一瞬意識が飛んだ。
 凄まじい美貌だった。どんな絵もここまでは描けないという現実の美しさを感じた。磨いた白鋼の鋭さと硬質さと輝きを思い浮かべる。白い肌は磨かれたようだし、同じ銀色の目が刃物のように鋭い。姿形があまりに白いので、衣装の漆黒が光を閉じ込めて見えて、余計に美しく見えた。
 だが一方で、男の姿形はひどく冷たく容赦がなかった。キサラギは相手を睨んだ。暗い影をも見る人間に覚えさせるようなその美しさは、そういった理由で人間味を失っていて敵意を覚えさせたのだ。
 その態度は不興を買った。男は不快を表情に出すと、岩場を登ってきてキサラギの前に立つ。そして、座り込むようになっていたキサラギの腕を掴むと、引きずって急ごしらえの寝台へ放り投げたのだ。
「っ!」
 背中を打ち、傷が痛む。睨みつけようとすると、腕を押さえられた。そのまま上に男が被さる。
「……っに、すんだよっ!!」
 使っていなかった喉が怒りを叫んだ。足を振り上げ、腹を、思い切り蹴飛ばした。鈍い感触が足先にあり、男はぐっと呻いたが、手を押さえる力は緩まなかった。眼光は更に凄まじいものになり、キサラギはぞっとして動きを止めてしまった。
「馬鹿が。死にたいのか」
 冷や汗が伝った。抵抗できない。声の温度は刃を突きつけられたようで、熱した鉄のように危険を感じさせる。
 男は抵抗のないことを確かめると、上から退き、何かを取り出した。よくよく見ればそれは緑の色をして、草、に見えた。目を瞬かせてもう一度よく見る。だが何度見ても、キサラギの知る、解熱の効果を持つ薬草として映った。
「あんたが……手当てしてくれたのか?」
 ぎろりと睨まれ首を竦めた。今分かったかと言うようだった。
 首を竦めたものの、だがひらめきに飛び上がる、が傷のせいで呻いてしまいそうになり、息を殺した。手当てされたということは肌を晒したということだが、この傷では感謝以外に何も言いようがない。しかし頬に熱が上るのを押さえきれなかった。
「あ、わ、私がやる」
 包帯を変えようと手を出すと、薬草が遠ざかる。
「出来るわけないだろうが」
「出来る! でき……あれ……?」
 急に四肢が萎えた。動けなくなる。男が舌打ちしたのが洞窟に響いた。
「血を失い熱を出して何日も寝込んでようやく目を覚めた途端にあれだけ動けば、そうなるのは当然だろうが。馬鹿めが」
 どうやらそういうことらしかった。大人しく、男が腹部の包帯を取り替え終わるのを、手の感触を意識から遠ざけて待つ。
 変な男だ、というのがキサラギの印象だった。こうして洞窟の中にいると分かるが、目が奇妙に光っている。灰色のような、青っぽい白いような瞳の色だからか。不快そうに眉間に皺を刻んでも、どうしても冷たさしか感じられない。
 ぼうっとしているのを不審に思ったらしい男が、手を伸ばして額に触れた。冷たいと身をすくめる。ため息。
「見ろ。熱まで出た」
 だから先程から瞼に熱湯を含ませたようなのだろうか。男は呆れた様子でもキサラギを抱き起こすと、取り出した瓶に口を付けさせる。飲めと言われて、青い薬汁を飲み干した。
 横にされ、毛布をかけられる。
「寒くないな」
「え、あ、うん……」
 短い間の印象が払拭されるほど優しさを感じる声だったので、戸惑いながら答える。そういえば、こんな真昼なのに火が焚かれていることに気付く。もしかして寒いとでも言ったのだろうか。
 男は頷くと洞窟から出て行ってしまう。その足下が、どこか見覚えのあるような気がした。
(あ……もう眠い……)
 あれだけ眠ったというのにものすごい勢いで引っ張られている。熱が上がっているのか、ずっしりと重みがかかって、見えないところへ攫われていく感覚がした。だから、今度見るものは悪夢だと分かった。

    



>>  HOME  <<