黄色く変色した人の目玉は、獲物を狙う竜のようだ。
空気は熱っぽく、皮脂と汗のにおいが充満していた。吐き出す息は湿り、呻きともつかない低い声があちこちでささやかれ、金切り声に似た叫びが舞台に向かって投げられる。
「十万!」
「二十万!」
「二十万で落札!」と進行役が宣言すると、舞台上にいた青年は手枷の鎖を引かれ、隅にある檻に投げ入れられた。檻はいくつも舞台の隅に設置されており、中にいるのは若い男女と子どもばかりだが、みな表情を凍らせて何も見ていないような顔をしている。
再び鎖が引かれた。現れたのは、目深に頭巾をかぶった『商品』だった。同時に、反対側から、幅広の大刀を抜いた大男が歩いてくる。
男が剣を振りかぶった。
客から驚きの声が上がる。男の暴虐な振る舞いに。そして『商品』の身のこなしに。
剣が振り下ろされた瞬間、細い体躯が中空に飛んだのだ。
頭巾が落ちる。
短い黒い髪が、薄黄色の肌が、淡い色の唇が露わになるのを、客たちは見た。進行役の口上が高らかに始まる。
「遥か北の草原地帯から来た商品だ! 見ての通り細身だが、頑丈で、身のこなしは軽く、数日の断食にはびくともしない! 最初は三十万から!」
「くっそやろう、死にさらせ!」
『商品』――キサラギは怒鳴った。
横に凪ぐ刀を避けると、手と足の鎖がちゃりちゃりと音を立て、耳の奥から不快にさせる。戦うことを見世物にするなんて吐き気がした。この商売はキサラギに憎悪しか与えない。
(人が人を買うなんて!)
古い時代は、草原地帯にもそういう風習が残っていたというが、今はそんな非人道的なことは行われていない。竜から逃れるためには、誰もが助けあわねば生きていけないからだ。
その草原を離れて、キサラギは、王国地方へ、人を探して旅をすることを決めた。王国地方に渡るために唯一の移動手段である船に乗れたのはよかった。龍王国にたどり着く、それがキサラギの第一の目標だったからだ。
途中、その船が海賊に襲われ、乗客全員が捕まらなければ。
剣を生業にしている護衛が乗船していても多勢に無勢。キサラギも、全員を守って戦うほどの技量は持っていなかった。人質をとられ、抵抗できずそのまま捕まった。両手足に枷をつけられ、こうして海を渡り、この場に引き出されてきたのだが、船がどこに到着したのかは分からない。しかし舞台を囲む人々の、白い肌、薄い色の髪、色のついた目を見れば、どうやら大陸を渡ったらしいことだけは分かる。
「よそ見なんて余裕だなあ!」
剣がキサラギをめがけて降ってくる。まるで鉈だ。薪を割るように落とされる刃は、上質なものではないのだろう。叩き割ることを目的としている鈍重な攻撃をなんなく避けると、キサラギは、踊るようにして後ろへと飛び、同じようにして次は前へと踏み込んだ。
それは男にとって素早い動きだったのだろう。ぎょっと目を見開いたのが見えた。キサラギは両手を組み合わせて拳を作ると、押し上げるようにして男の顎を突き上げた。
がきっと歯が噛み合う音と、息が詰まったうめき声が上がる。
そして、キサラギが振り回した右足が、男の脇腹へと叩き込まれた。
人として並外れた膂力は、身体を浮かすほどの衝撃となって、男はそのまま後ろへと飛び、仰向けに倒れた。
客たちがおお、と声をあげ、口を開けて見入っている。
キサラギは足を上げたまま叫んだ。
「ざまあみさらせ! これで剣士たあ笑わせやがる!」
ぽかんとしていたのは進行役もだ。慌てた様子で舞台袖に顔を向ける。指示を受けた男たちが、落ちた大刀を使って鎖を切ろうとしているキサラギを羽交い締めにし、もう一人が思いきり殴り飛ばした。
「うっ、ぐ……! は、なせぇ……!」
そのまま床に顔を押し付けられ、身体の上に乗られる。身動きが取れず、もがくキサラギは、枷の上から後ろ手に縛り上げられた。
「この通り、取り扱いに気をつけないと、牙をむくから要注意だ!」
「六十!」
「八十!」
「八十五!」
次々に値段が釣り上げられていく。最低だ、とキサラギは唾を吐きかけてやりたい気分だった。こいつらは、人の命に値段をつけることを、なんとも思ってないのか。
「――二百」
その声が響いた瞬間、辺りは、さあっと静まり返った。
恐怖した、というのが正しいのかもしれない。舞台の前方にいた者たちは、怯えた表情で後ろを振り返った。頭を押さえつけられているのでキサラギの視界は限られていたが、舞台を囲む広間には中二階が設けられており、そこになにやらきらびやかな人々が座っていた。その人たちも、ある方向に向けて表情を強張らせている。
舞台上手側。ひとつだけ緞帳が下がった席がある。声は、そこからしているらしい。
「……二百! 他はないか!」
それで競りは終わった。キサラギは無理やり立ち上がらされると、檻ではなく、舞台裏に連れて行かれた。梁が剥き出しで、荷箱やごみで散らかっている中をぐいぐい引かれていき、ある部屋の中へと突き飛ばされた。
「なにするんだよ! ……っ!?」
室内に、絶句する。
ここは、本当に、先ほどの胸糞悪い舞台と同じ建物なのだろうか。
金で模様が描かれた赤い壁紙に、花模様の描かれた陶器の花瓶には鮮やかな紅色の百合が生けられ、机も椅子も木でできているが、つやつやと輝いて金をまぶしたように見える。椅子にはふっくらした枕が貼られ、ずいぶん座り心地がよさそうだ。
貴人の部屋。表現するとしたらそれになる。なんだここ、と呆然とするキサラギの背後から、誰かがやってくる気配がした。さらに後方へ向けて、恭しく礼をした男は、さきほどの進行役と同じような仰々しい衣装を着ているため、ずいぶん芝居がかった仕草に見えた。
「どうぞ、こちらです」
キサラギを連れてきた男も、一礼して一歩下がる。そして、キサラギはきょとんと目を瞬かせた。
(女の子……?)
ふわふわ、金の雲のような髪。真っ白の肌に、真っ青な目が、冬の青空を思い出させる。身につけている青い衣装は、上半身に沿うような形をして、足の部分は俯く大輪の花のように膨らんでいる。
十七、八歳だろうか。キサラギとさほど変わらないだろう。きっと無邪気な笑顔を持っているだろうに、こちらを見る目は冴え冴えと冷徹で、可憐さが押し殺されている。
綺麗だけど、冷たい、ちぐはぐな印象の子だった。
途端、キサラギの頭が押さえつけられる。
「跪け! 顔を伏せろ。お前なんかが見ていい方じゃない!」
「構わないわ。それくらいの度胸があるなら、この先もきっと生き延びるでしょう」
可愛い声。高いけれど弱い印象じゃない。なのに、やっぱり言っていることがなんだか妙だ。
「お前、名は」
「…………」
「人の名前を聞くときはそっちから名乗りなよ」と喧嘩を売ることも考えたが、彼女を見ていると、なんだかなあという気持ちがだんだんと強くなってきた。手が自由なら頭を掻きたかったが、軽くため息することでその代わりにした。
「私は、キサラギ」
「ではキサラギ。わたくしはお前を買いました。お前を、わたくしの騎士にするために」
少女が手を振ると、枷が解かれた。手首にはすっかり跡がついてしまっている。
「騎士って何? 馬に乗った剣士?」
「口の利き方に気をつけろ! また手錠をかけられたいか」
「騎士とは、貴人の剣であり盾。名誉であり誇り。身分と地位を証すもの。勝利し続けなければならない義務を負う者のことよ」
男の言葉を無視して言い、少女はうっすらと笑った。
「お前の運命はどちらか一つ。勝ち続けるか、死ぬかよ。それでもいいならついていらっしゃい。嫌ならば、ここで死になさい」
キサラギの目の前に、少女の腰の帯の中に隠されていた短剣が投げ捨てられる。
つまり、自分は、奴隷として売られていたところを、この少女の騎士とやらにするために金で買われたということになる。値が告げられたときの静寂を思うと、法外な金額が提示されたのは想像に難くない。
ねえ、と呼びかけていた。
「あなたは何をそんなに恐れてるんだ?」
少女の微笑が消えた。
それを他の男たちも目の当たりにしていた。室内はしいんと静まり返り、冷たい風が吹いてくるようだった。図星か、と思いながら、キサラギは首を振った。
「……言いたくないなら別にいい。どっちにしたって、あのままじゃ逃げられなかったし、助けられた、と言っていいかは分からないけれど、枷は解いてもらったから。あなたと一緒に行くよ」
金額分の仕事をするのだと思えばいいのだ、と考えることにした。長期に渡るかもしれないが、不自由に縛られるよりはましだろう。それに、この分だと逃亡することは簡単そうだ。なにせ、舞台で大暴れしたキサラギの拘束を解いておきながら、短剣を放るような女の子なのだから。
(なんか危なっかしいんだよな。それとも、私を試したんだろうか)
少女は顎を引き、ふんと不敵に笑ったが、キサラギにはずいぶん強がりをして見えた。
「面白いわ、お前。わたくしはエルザリート・ランジュ。お前の主人です」
「よろしく、エルザ」
言ってから、言い方がまずかったことに気づく。エルザリートは、今度は表情を無くさなかったものの、微笑を張り付かせたまま震えていた。
(面目潰したかな。失敗失敗)
心の中で舌を出しながら、キサラギはエルザリートに跪いて見せた。キサラギの改まり方に満足したのだろう。エルザリートは顎を引き、キサラギについてくるよう命じた。
乗った馬車は、どんどん坂道を上っていく。窓の外から景色を見ると、海辺の街が下方に見えた。ずいぶん高低差があるところに街を作ったらしい。ともすれば、砦のような作りだ。
「ここはどこ? 私はどこに連れていかれるの」
「ここは、マイセン大公の治めるマイセン公領。これから行くのはわたくしの仮住まい。働き次第で、この先、お前の行く先が決まるわ」
「何をすればいいの?」
「わたくしを守り抜き、戦いに勝てばいい」
キサラギは首を傾けて尋ねた。
「護衛をすればいいってことだね?」
エルザリートの花のような唇から、長い息が吐き出された。
「お前、本当に何も知らないのね。騎士とは何かと聞いたくらいだもの。王国では考えられない無知さだわ」
それにはさすがにかちんときた。
「だから訊いてるんじゃないか。ここは私の知る文化とまったく違うみたいなんだし。何も知らないままじゃ、あなたを守ることはできないよ」
「その口ぶりは、なに、本当に草原地帯から来たっていうの?」
エルザリートは気だるくもたれていた背を起こし、まじまじとキサラギを眺める。すると、死んでいたようだった青い目が、日の光が差したかのような輝きを持ち始めた。
「キサラギというのも偽名ではないの?」
「ちゃんと、私の名前だよ」
正確に言うと、子どもの頃は別の名前で呼ばれていたが、最初の故郷をなくしたときに捨てている。キサラギは今の名前だ。古い名前を知っている者はほとんどいない。この王国地方に至っては、ただの一人も。
「……では、海を渡ってきたの? どうして? 海を渡るのはたいへん難しいと聞くわ。海竜が襲ってくることがあるのでしょう。そこまでして、ここに来る理由があるの?」
キサラギは微笑した。
北は草原地帯。南は王国地方。二つの地方の境界は砂時計のように細く、キズ山脈と呼ばれる険しく危険な山々が連なっている、この大陸。
草原地帯で、竜を狩ることで生きていたキサラギは、ある男と出会った。銀の髪に銀の瞳をした、一睨みで他人を殺せそうな美しい男で、キサラギが最も憎んだ存在といっても過言ではなかった。
そして同時に、心の底から愛した男だった。
「人を探してる。銀の髪に銀の目をした、黒づくめの絶世の美形なんだけど、心当たりはない?」
「……やっぱり嘘をつくのね」
「嘘じゃない。多分、こっちに来てるはずなんだ」
王国地方へ渡る前に、キサラギは竜狩りの伝手を使って情報を集めたが、そこで聞いた『目撃談』はキズ山脈の向こうへ『飛来していったようだ』ということ。
王国地方――竜にまつわる何かがある土地。その手がかりを拾うために、キサラギは海を渡ってきた。
「どのくらいの美形かは分からないけれど、少なくともわたくしは知らない。そんな人間が現れれば、噂になっているはずよ」
「そうか……」
分かっていても、落胆した。そう簡単には見つけられないとは思っていたけれど、ここに来て、手がかりがなくなってしまったのだ。
「ねえ、それは、お前にとって大事な人なの? 恋人?」
年頃らしく興味本位で尋ねる少女に、どうだろうか、とキサラギは苦笑した。
「よく分からないんだ。恋をしたのか、憎んだのか……それを飛び越えて、自分の半身みたいに思うときもある。話をすると腹が立つし、殺してやりたくなるときもあったけれど、もう二度と会えないのは、絶対に嫌だって思う」
彼は、キサラギの前から姿を消した。
行くな、とキサラギは言った。あんたがいなくなるのは嫌だ。生きていてほしいと。男を憎む過程で見出したその思いは、キサラギが名前を捨てなければならなかった出来事の、ある問いかけに起因していた。
――死にゆく者がお前に言う。『分かって』。何を分かれというのか。その答えは?
キサラギの答えは『生きていて』だった。許し、愛することだった。
そして男は、叶わない約束を与えた。
――もう一度会えたらそのときに答えを聞く。
そう言って、去った。
もう二度と会うことはない、と二人とも分かっていた。
しかしキサラギは諦められなかった。もう一度会いたい。会って、自分の思いを確かめて、伝えたい。待つなんて性分じゃない。自分から会いに行くんだ。そう思った。
そして、王国地方を目指してきた。王国の中心地、ルブリネルク龍王国に、男の手がかりがないかと思って。
「会いたいんだ。もう、それだけしかない」
苦笑して肩をすくめたキサラギは、だったら、ともう一つ問いかけた。
「人じゃなければ、竜を見てない? 白く見える銀の竜か、黒い竜。すごく大きい個体だ」
途端、エルザリートの目から光が消えた。ゆるく背を預け、目を伏せて黙り込む。
「エルザ?」
答えない。訝しく思っていると馬車が到着し、エルザリートが降りる。キサラギは後に続き、その立派な家構えにぎょっとした。
白く塗られ、青い屋根を持つ箱が、四つ連なっている。どうやら奥にも似たような棟があるようだ。通り過ぎてきた街を思えば、飛び抜けて壮麗な建物だということが分かる。
以前、同じような造りの建物を見たことがあった。人の手の入らないあの場所には、妖しく美しい魔性が住んでいた。
屋敷を背後にして、エルザリートがその時の女性に似た気配をまとい、薄く笑っていた。
「エルザリート・ランジュが言祝いであげる。王国地方へようこそ、キサラギ。ここがお前の死地とならぬよう、祈っているわ」
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