慎重に王子宮を出る。シャルガたちが出た後、外に面した扉、窓、あらゆる場所が閉じられ、塞がれた。これで砂蜥蜴が侵入してくることはあるまい。ただ、自分たちが逃げ帰る場所もなくなった。進むしかない。
場所と方向が分かるシャルガが先頭を切り、最後尾にはリリスがいて、それに挟まれる形で王子が守られている。庭の緑のざわめきを、シャルガは強く警戒した。王子宮の庭には、背の高い木々や茂みが多く、砂蜥蜴が潜むのに最適な場所だからだ。
「……砂蜥蜴は、昼間に動く生き物で、音や振動に敏感、歯を見ると肉食ですね。身体の表面は乾いていたから、乾燥に強いけれど、多量過ぎる水には弱い。水かきがついていたから、泳げないわけじゃないようでしたが」
「砂蜥蜴を見たのは初めてか?」
それにしては的確な観察だ。倒し方も正しかった。砂蜥蜴は、分担したからといって油断していると、頭だけが動く場合がある。牙が届くことのないよう、頭を潰すのが最適な退治方法だった。
「砂漠の竜を見るのは初めてでした。私が見たことがあるのは、あれの類型だと思われる、水に強い性質の竜です。乾燥に弱く、水の中に潜み、夜行性です。同じようなものだと思って頭を潰しましたが、他に弱点はありますか」
「背中の外皮は硬いが、腹部は柔らかい。砂蜥蜴はあなたくらいの身長なら跳び越せるほど跳躍力があって、飛びかかる時にしか腹をさらすことはないが、速さに自信があるなら、その瞬間に斬るのも有効だ」
「あの皮、なめすといい防具になりそうですね。靴にすると通気性がいいんじゃないですか」
ユン王子がぎょっとした。差し出された花に顔を寄せて微笑んでいた娘が言う台詞ではないのだが、その様子に気付かないシャルガは普通に応答してしまっていた。
「遺跡に住む者たちはそうしている。肉を食べ、牙を抜き爪を取り、皮を剥いで道具に用いる」
遺跡は砂蜥蜴の巣になりやすい。そして、そんな場所に村を形成している民は、狩りと称して砂蜥蜴を狩る。
「ああ、昔、聞いたことがあります。食用に飼育している場合もあるとか」
「脱皮する前の幼体はまだ毒が溜まっていないので、食用にされる場合がある。といっても一部の氏族だけだ。竜に近しいからと、手を出さないことが多い」
「美味しいんですか?」
「私は食したことはないが、食べた者によると、癖があるそうだ。締めたての子竜は、鰐に近いらしい」
「鰐も食べたことがないんですけど」
「鰐は、鶏肉に近い淡白な味がする。脂が乗っていると美味な方だと思う」
「兎に似ている……とか?」
「兎は甘くて柔らかい。鰐は硬いな。肝のような弾力がある」
「へえ。竜はいいけど鰐は食べてみたいな。どこに行ったら食べられますか?」
「……二人とも、さっきから話題がちょっと変だよ」
シャルガもリリスも同時に我に返った。ユン王子は微妙な顔をして二人を、特にリリスを見ている。
シャルガも顔をしかめた。うら若い乙女に、砂蜥蜴の肉と鰐の肉について解説しているこの状況はなんだ。
それもこれも、周囲を警戒しているのに、砂蜥蜴が潜んでいる様子がないせいだ。話している間に、すぐに枯れ井戸に到着してしまった。
「蓋が開いている……」
上に重いものが乗ったのか、踏み抜いたように、封じた板が割れている。剣の柄を板の下に差し込み、打たれた釘ごと抜いてしまう。ばきばき、という音が、底の方へ響いていく。
「私が先に降ります」と、先んじてリリスが言った。
「私の方が小さいし、小回りが利きますから。安全だと分かったら合図しますから、そこで降りてきてください」
地下はそれほど狭いものではないだろうが、確かに彼女の言う通りだった。シャルガの身体では、退くのが難しい可能性がある。
リリスはひょいと井戸をまたぎ越し、シャルガが結んだ縄をぐいと引っ張って強度を確かめると、滑るように降りて行ってしまった。あまりにも鮮やかな動きに、感心すらしてしまう。
「……すごいね。なんだか、砂漠の戦士みたいだ」
ユン王子も、シャルガと同じ感想を抱いたようだった。
「彼女が何者なのか、殿下はご存知なのですか」
「ううん。北から来た人だということは聞いていたけれど、どんな素性の人なのかは、誰も教えてくれなかったし、本人も言わなかった。でも、とても賢い人だっていうのは分かったよ。植物のことも、薬や毒のことも、生き物のこともよく知っていたし、物語がすごく上手だった。聞いたことのないお話を、たくさん聞かせてもらった」
例えば、と王子は思い出しながら説明した。
「星の話。最初に地上に降りた竜は、金色の竜だった。この竜が生んだものが、すべての竜の始まりになった。金色の竜は人に狩られそうになったけれど、空へ逃げて、竜の星になった。それが、金色竜座っていう星座になったんだって」
古の王国の時代に、王を救わんと隣国へ助けを求めるため、竜の蔓延る暗闇の大地を走り抜けた戦士の話や、ただ一頭の竜だけを追い続けた老いた戦士の話など。たくさんある、と王子は言った。
そして、不安そうにシャルガを見上げた。
「シャルガは、そういう話、どこかで聞いたことがある?」
「いいえ」
北の星を目指して旅を続け、このラク王国の街の基礎を築き上げた賢者の話や、砂漠の氏族同士の争いによって引き裂かれた男女の話など、氏族の中で暮らしていた頃に語り部の老女や女たちから聞いた覚えがあるが、そういったものに疎い自分でも、初めて聞くものだと思った。
「……おーい!」
井戸の底から声がした。覗き込むと、明かりが見えた。ぐるぐると円を描いていた。合図だった。
王子を先に行かせ、最後に降りたシャルガは、地下に響く風の音に驚いた。そして、足をついて、その広い空間をぐるりと見回した。
大広間のような場所の、祭事場らしきところだ。地下だというのに、思ったよりも明るいのは、石材がほのかに光っているから、だろうか。水路が引いてあったらしいが水源は枯れて、シャルガたちの立つそこは、昔は水をたたえた水槽だったろうに、今はただの四角い穴になっていた。
「この水路だったところをたどっていくか、上に出るか、どちらにすると道がわかりやすいですか?」
「上に出た方が分かりやすい。それに、水路はどこかで道が詰まっているはずだから」
リリスが先に上がり、王子とシャルガが続いた。シャルガは腰に下げていた洋燈に火を入れ、王子にもたせた。そして、リリスが持っているそれを受け取ろうとしたが、断られた。
「私よりも、あなたが両手を使える方がいいでしょう? 大丈夫です、慣れていますから」
さあ行きましょう、とリリスは王子を促した。
通路の方へ行きかけ、ふと、彼女は洋燈を壁にかざした。光を得た壁は、互いに反射するようにして、色鮮やかに絵を浮かび上がらせる。
星に手を伸ばした人物が中央に描かれていた。聖職者で、女性だろう。被り物をしている。その周りには、彼女をたたえる人々が描かれている。そして様々な異形のものが集っていた。もちろん、竜の姿もある。
最も巨大な暗色の竜が、聖職者の掲げる星を自らの体で取り巻いているところだった。竜の尾は長く、巨大な翼を持ち、角を持っている。
しばらく見ていると、聖職者は星を掲げているのではなく、竜に向かって星を差し出しているようにも感じられた。
「……この世界が、三つに別れた、その直後の絵だよ」
しんと静まり返った遺跡に、王子の声が響いた。
声の持ち主を見るリリスの瞳は、闇を吸い込んで深い色をし、水のように王子を映している。
王子はそれ以上何も言わなかった。ただ、真摯な目でリリスを見つめ返した。今は語るべきではない、と、彼の奥底に宿る何者かが告げているように、シャルガは思えた。
リリスも、問わなかった。歩みを再開した。
気配と音を聞き取りながら、足を進める。ずいぶんと離れたところから、声のようなものが響いてくるような気がするが、どちらかというと流れてくる風が立てる地響きに似た音の方が大きい。
人の気配はない。他の生き物の気配も。
「…………」
「どうかしたのか」
リリスが何かを探す素振りを見せたのだが「いえ」と返事がくる。
四つ辻に出たそこを、右へ曲がる。確かに、地上では門の方角だった。シャルガの頭の中に描かれた地図と合致する。だが、どうしてか言いようのない不安を感じ始めていた。
(静かすぎる……)
身の危険を感じる不安ではない。だが、これを放置したままでいたなら、いつか足元をすくわれるかもしれない、地の底を流れるような不穏さがある。
道が蛇行し始めた。どうやら、催事場を中心に、円を描く通路になっているらしい。崩れたのだろう柱の破片や、壊れた壁が、石の塊になってあちこちに落ちている。
「この通路を右に曲がるところがある。その先だよ」と王子が言った。
「通路の合間に、少しだけ広い場所がある。そこに結界石があるんだ」
「待ち伏せには最適の場所だということですね。警戒していきます」
言葉の重さに対しては、明るい声音だった。
少しずつ、リリスのことが分かってきた気がする。彼女は、本来はひとところに留まる性質ではないのだ。常に前を向き、歩み進んでしまう。身体が勝手に動くのだろう。そして、周囲にその前向きな明るさを分け与えようとする。だから、落ち込んだり、沈んだりするよりも、明るい調子で余裕を持っているように振る舞うのだ。だからといって軽率だったり軽薄だったりというわけではない。芯の部分が確かだから、周りにいる者は、彼女に手を引かれているような気分になる。
今も、リリスはなんでもないように言いながら、前方に不穏な気配がないか、王子が何かに躓きはしないか、シャルガが背後を守っているか、など、気を張り詰めさせている。シャルガは、同胞と戦う時のように、先陣を切る彼女を信頼している自分に気付いていた。彼女の腕は確かだ。素性はどうあれ、先頭を任せることができる。
ならば自分は、王子と、彼女の背を守るまで。
「……何か光ってますね」
リリスの言うように、奥の道で、青い光が瞬いていた。
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