第6章 呪   
    


 胸当て、膝当て。脚絆。腰に帯を巻き、剣を下げる。長くなった髪をまとめる作業が増えたが、手早く一つに縛り、最後に耳飾りを取り出した。
 板の上に刻まれたキサラギの名。誕生日。生まれた場所、キサラギノミヤ。成人を証明した地、セノオ。はめ込まれた赤い石の明るさに救われる気持ちがする。
 赤は、生きる色だ。
 片耳だけのそれを下げて、最後に外套をまとえば旅支度の完了だ。荷物を持ち上げて行くと、くすんだ金の髪の女性が、自分を囲む男たちに何か指示を与えている。彼らの視線がキサラギに向いて、彼女が振り返った。
「お待たせしました」
「荷物はそれだけか」
「何も持たないままここに来たから。私物も増やさないようにしてたし」
「出て行くと分かっていたわけだ。賢明だな」
 鼻で笑われる。いくつか年上だろう騎士姫アリスは、どうもキサラギに対して辛辣だ。面倒をかけた上に、これからさらに厄介を追加しようというのだから、くさくさするのも仕方がないかもしれない。
 これよりキサラギはルブリネルクに向けて発つ。同伴するのは騎士領国の戦士たち。彼らと共に騎士領国に入り、反ルブリネルク勢力と合流して、首都ルブルスを攻める。
 すでに手はずは整えられていて、アリスたちはラク王国の助力を受けようとこちらに来ただけだったはずだが、思いがけずキサラギを拾って帰ることになってしまった。竜に狙われるお荷物を堂々させるのだから、気が張って当然だろう。
 色彩に乏しい、実務的な服装の彼らが、どこかで見たことがあると思っていたが、エルザリートに連れられていったマイセン公国での夜会で知ったのだ。エルザリートとオーギュストに敵意を向け、戦う術を持っているだろうに介入しなかった、暗い瞳の戦士たち。その由来を聞けば、ルブリネルク王家に関わる人々に敵意を抱き続けるのも仕方がない。
 騎士領国は、ルブリネルク龍王国において騎士と呼ばれていた者たちが、所属を離れた後、自発的に集まった土地なのだそうだ。だが、騎士とは龍王国の貴人に抱えられる者たちのこと。彼女たちは正しくは、騎士を名乗る傭兵たちなのだ。
 騎士領国の者は、独自に長をいただいて、戦士たちを斡旋してきたが、独立の気運が高まり、引退した名のある騎士たちが集ってその要求を行ってきた。しかし、それは未だなされることはないままだった。その彼らが、ルブリネルクに反旗をひるがえすことになった。
 アリスたちの剣は等価を求める剣だ。強きには栄光を、弱きには衰退を、報われるべきは報いよ、という。それを認めないルブリネルク王家への恨みが連綿と継がれ、若年にして旗頭としていただかれるアリスもまた、同じように王国を嫌っているようだった。
「整ったか」
「陛下」
 跪かれるゼルムの後ろで、リュイナが悪戯っぽくキサラギに目配せをしている。
 アリスは、ゼルムに対しては丁寧な態度を取る。彼女の父親がゼルムと知り合いなのだと、周辺の事情や世界情勢に加えて、人物の背景まで、キサラギはリュイナに色々聞かせてもらっていた。
 ゼルム、リュイナ、ユン、乳母やと彼女に抱かれた幼い王女。そして王を守るシャルガたち砂の戦士が顔を揃えている。
 みんな、キサラギたちの出立を見送りに来てくれた。
 キサラギはゼルムの前に膝をついた。ゼルムは優しい眼差しを向けた。声には、いたわりが込められていた。
「巫女がお前を守るよう告げた時、私は、時が来たのだと思った。守護者の力で守られ続ける我が国が、大きく変わる前触れなのだと。そしてお前は行くという。私たちの知らない、世界の秘密を抱いて」
 キサラギは目を伏せた。
 この世界を変えたいとか、間違っているとか。そこまで大きな気持ちを抱いているわけじゃない。自分と世界に対する復讐心は、もう草原に置いてきた。
 王国では、自分一人ではどうにもならない、世界という広さを思い知った。
 受け止める、ということを知った。
 砂漠では、何を得ただろうか。ひとときの平和の中に。
「……世界を救えるとは思っていません。ただ、私はこの国で、陛下たちに平穏を味わわせてもらいました。私は、自分が、彼にとってそういうものでありたいと思います。だからもし世界を救うとしたら、その理由は、彼がこの世界を生きてみてもいいか、と思えるものにしたいってことなんです」
 キサラギは世界の救い手になりうるかもしれない存在だ。そんなものが、自分自身の望みのために戦うと言っている。この人たちが守ってきた古い時代のこと、秘密を、異邦人ごときが知らされた挙句のわがままだ。
 叱られるだろうか、と苦笑を浮かべるが、ゼルムもリュイナも優しい顔をしていた。リュイナが近づいてきて、キサラギの手を取った。
「あなたのことをもっと聞かせてほしかった。ふるさとのこと、家族のこと、大事な人のこと……。だから、必ず、戻っていらっしゃい」
「リュイナ様」
「砂漠はあなたの故郷にはならないかもしれないけれど、翼を休める場所にはなる。いつでも、いらっしゃい。そういう場所が、あなたたちにはきっと必要でしょう」
 キサラギは唇を結び、大きく一度頷いた。
「ありがとうございます……このご恩は、決して忘れません」
「いいのよ。こちらこそ、王子の相手をしてくれて、本当にありがとう」
 含みのある言い方だった。ちょうどそこにユンが来たので、キサラギはリュイナには問わず、彼に微笑みかけた。
「王子様。しばしお別れです。身体に気をつけて、勉強や鍛錬を怠らずに、幸せに過ごしてください。そして、陛下や王妃様、妹姫様のことを守ってあげてください」
「まるで今生の別れみたいだよ、リリス」
 キサラギは、思いがけず真剣になっていた自分を少し恥ずかしく思った。
 命を捨てるつもりで戦った、あの時とは違う。
 だから約束するなら、もう一度会うことを。
「成果を拝見しに来ますから、しっかり、励んでくださいね」
「もちろんだよ。楽しみにしていて。リリス、ありがとう」
 王子と抱擁を交わして立ち上がると、キサラギは、今も王の側に影のように控えているシャルガに、深々と一礼した。彼も礼を返してくれた。キサラギたちが発った後は、彼らが砂漠の国を守る。金砂竜ハルヴァの力は以前より弱まったけれど、彼もその約者シェンナも残っている。
 だからキサラギは、自分の望みのために走る。
(セン。あんたを、狩る(たすける)よ)
 アリスが声を上げる。
「出発!」
 そしてキサラギは旅立つ。長く南へ下ってきた旅を、今度は北へ。
 これが最後の戦いになることを目指して。




   *




 再び王宮に戻るには準備することが山ほどあった。エルザリートは、まず北区から中層の、誰の持ち物か分からない屋敷に連れられ、溜まった汚れや垢を落とし、以前のように、きらびやかではないが落ち着いた服装に戻った。
 短くなった髪は、適当に揃えて放ったままだったので、着替えを手伝ったその屋敷の女中は、痛ましそうに眉をひそめて「手を入れさせていただきます」と鋏を手に取った。それに対して、エルザリートは言った。
「今よりも短くしてくださる? できれば、……このくらい」
 と手を横に動かすと、彼女は驚きつつもそれに応じた。切り終えて、鏡に映ったエルザリートの髪は、出会った頃のキサラギのような長さになっていて、満足した。
「ありがとう。こんな風に短くしてみたかったから、嬉しいわ」
 女中に礼を言うと、いいえ、と彼女ははにかんだ。
「御髪が長かった頃のことは存じあげませんが、短いのもよく似合っておいでですわ。宝石などで耳や頭を飾れば、凛々しい印象におなりでしょう」
 名を尋ねれば、アーナという名を教えてくれた彼女は、エルザリートより年かさの二十歳で、エルザリートの世話をするように連れてこられたのだという。主人が誰なのかを尋ねたが、それは教えてくれなかった。
「後日必ず皆様ご参集いたします。それまでどうぞ、心身を休めることを優先してくださいまし」
 十分に暖められた部屋の中で、自分がすべきことを考えた。
 オーギュストは、エルザリートの動きを把握していることだろう。人を使って連れ去ろうとするかもしれない。けれど自分は、絶対に彼の妃になることはできない。しかし彼はそれを強行できる権力を手に入れてしまった。それを防ぐにはどうすればいいか。
(あの日……母が死んだあの日から、わたしたちは、もう戻れないところまで来てしまったのだわ。いつかはこうなると、お互いに分かっていたのだ。わたしたちは、相手を愛おしみながら憎むのだと……)
 すべてはこの、今も細い手首を流れている血のために。

    



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