エジェ、とエルザリートは呼び、窓に背を向けて、彼と向き合う。そして、目を大きく開いたまま、震える唇を開いた。
「クロエを助けられなくて、ごめんなさい」
 エジェはまるで木になったように動きを止める。
 エルザリートは、溢れそうになるものを飲み下しながら続けた。
「クロエが大事だった。わたしにいろんなことを教えてくれた。もっと教えてほしいことがたくさんあった。あんなところで死んでいいはずがなかった。彼は、わたしの愚かな失敗を拭うために力を貸してくれたのに、あんな傷が、死に至るはずがなかったのに、わたしは、クロエを助けられなかった……!」
 口元と襟元を血で汚したクロエは、あの明るくおおらかだった面影が見えないほど、苦しんで亡くなっていた。
 その苦悶の表情を、エルザリートは過去に別の誰かで見たことがある。
「殺したのは王太子だろう」
 エジェが言うのに、エルザリートはひくっと息を詰まらせて彼を凝視した。
 静かな断罪の言葉が、エジェの口から吐き出されていく。
「ランジュ公爵夫人と実の母親である王妃を殺したみたいにやった。俺の兄貴はその二人に比べて殺しやすかっただろうな。なんせ、ただの騎士だったんだから」
 手を下したのは誰かを知りながら、ずっと言えないでいた。
 毒を受けた母。その杯が誰からのものなのか、エルザリートは知っていた。吐瀉物と血の海に沈む目が、エルザリートではなくその背後にいる者に向けられていたからだ。
 本当に、彼が側に立っていたわけではない。けれど公爵夫人は、エルザリートを通して別のものを見ていた。彼女が悪しざまに言っていた王妃と、化け物のような王子、そういうものだ。そして、その王子に庇護されようとする娘を、恐れていた。
 多分、きっかけは、彼女の、娘への振る舞いが、オーギュストの耳に入ってしまったことだろう。あの頃、エルザリートは母から暴力を受けていた。それが決定的になるまで長く続かなかったのは、すぐに彼女が亡くなったからだ。
 エルザリートを公爵家から取り出すために、オーギュストは公爵夫人を殺し、王妃を殺した。王妃もまた、エルザリートの存在を憎悪し、否定する言葉を吐いていた、とのちに聞いた。それが理由だったのだろう。
 あのひとは、わたしのためにそこまでやってしまう。
 一度手を血に染めれば、ためらいがなくなる。あとは、殺し続けるだけだ。
 オーギュストが、遠国から取り寄せた薬を龍王に盛っていたことも、エルザリートは知っていた。力を得るためだという龍王の指示だったというが、最初に囁いたのはオーギュストだったのも分かっている。
 全部、分かっている。
「お前は、一番近くでそれを見ていたのに、気づかないふりをしたんだ」
「そうよ……」とエルザリートは嗚咽を殺した。
「こわかった……言えなかった。やめてと言ったとして、止まらないとも分かっていたのよ。取り憑かれたように人を殺していくあのひとは、わたしに微笑むの。『大丈夫だよ、安心しておいで』と」
 ――お兄様は、どうしていつも笑っているの。楽しいことなんて、何一つありはしないわ。
 その答えに、彼は言った。
「『お前がいるから、この世界が楽しく思えるのだよ』と、心から安らいだ表情で告げるあのひとを、どうすれば止められたというの」
 溢れる涙を隠すように顔を覆い、唇を噛み締める。自ら埋めた過去がこうして立ち上がり、後悔の波となってエルザリートに押し寄せる。息ができなくなるくらいの冷たさだ。取り返しのつかないものが多すぎて、足が震える。
 墓を作って、そこに罪があると分かっていても、どうすればいいのか分からなくなる。
「だから、王になるんだろう」
 エジェの言葉に、エルザリートは顔を上げた。
「王太子の持っているものを全部奪って、間違ってるって投げ捨ててやればいい。本当に大事なものが何なのか、もう一度集め直せって言ってやればいいんだ。俺だったらそうするし、兄貴だってそう言うだろう。『やりなおせ』って」
 やりなおす、それが出来たらどんなに。
(失われたものが多すぎた。これからもそうだろう)
 玉座に座る者が変わったとしても、形を変えて果たされるのが犠牲だ。何かを失わずして、変わるものなどありはしない。
(わたしは、もうオーギュストの手が汚れるのを見たくはない……)
 だったら、わたしが負わなければ。
 何故なら、わたしたちは繋がったものだから。
「……許されるなら、エジェ……わたしは、オーギュストに、別の人生を与えてあげたい……手を汚さずに生きられる場所、何も疑わなくてもいいところ、心安らかな日々を過ごしてほしい……彼がわたしに、そうであれと願ったように……」
 エジェの瞳の底にたゆたう闇。その奥底で光を放つ、鋭く褪せない感情の炎。
 それが答えだろう。
 許されはしない。
「……食事は、そこに置いていて。あとで食べるから」
「この世の中で、一度罪を犯した者は許されることはない。許しを請いながら、一生を歩む。そして、罪を犯さない人間なんていやしないんだ」
 視線を合わせないエルザリートに、焦れたようにエジェは言った。
「だから、どう生きるかなんだ。お前はオーギュストが許されないと分かってる。でも、そのオーギュストがどうやって生きていくかなんだよ。評価はその人生が終わった時に下される。ここで、許す、許されないなんて言ってても、あの王子が罪を犯し続ければ、いつか報いを受けるんだ。ただそれだけのことだ。だってのにお前は、あの王子の今までとこれから全部背負ってやるつもりかよ」
 そうよ。だって最初からそうだったもの。
 エルザリートは微笑み、言った。
「あなたがさっき言ったことがすべてだわ。わたしは、生きることを許されてきた。それがわたしの罪。だから、これからどう生きるかなの。わたしの人生、残りの命をこの国と人に委ねるわ。それをどのように使うのかは、この国の者たちが決めればいい。わたしは道を示すだけ。あれが生きるための方角だと」
 それは光。目を閉じてかすかに感じる熱。仄かに己を温めるもの。
 もし、この国のものすべてが、同じ光を目にすることがあれば、何もかもが変わるだろう。
(わたしがそれになれるとは思えないけれど……)
 それでもこれがわたしの戦い方。これから進んでいく道。
 そうして、道を見定めるための会話が終わり、エルザリートは、それを共に歩む者の選定を待った。
 しばらくして、結婚許可証が差し出されるのと同時に告げられた相手の名は、エルザリートに目を見開かせたものの、やはり、と思わせるものだった。
 知らせを受けたあと、初めて顔を合わせたとき、「ごめんなさい」と言ったエルザリートに、彼は言った。
「こうなるだろうと思ってたさ。あの試合場で立ち上がったお前に、多分この女のために死ぬことになるんだろうな、と思ったんだよ」


 この日、龍宮から王の使者がやってきた。アーナや他の者たちとの応酬の後、部屋に踏み込んできた使者たちは、エルザリートに王より迎えを命じられたことを告げた。一通りの抵抗を試みた後、連行されたエルザリートは、以前よりも一層静寂の漂う宮殿の一室に閉じ込められ、その人に再びまみえる時を待つことになった。
(こんなに闇の深いところだったろうか)
 近付きたいと思ったことはない場所だったけれど、足元を冷たい気配が包むほど、こんなに重い場所だったのか。荘厳な城のすべてが色褪せているのは、それを手入れする者たちの数が少なくなったせいか。
 静かな気配が押し寄せ、エルザリートは振り返る。
 壮麗な金の髪。憂いを帯びた眼差し。華やかな微笑。
 それらすべてに含まれる濃い影に、エルザリートは眉をひそめた。彼は、いま自分がどんな顔をしているのか、気付いていないのだろうか。
「エルザ。元気そうでよかった」
「それはわたくしの台詞だわ。なんて顔色をなさっているの、お兄様」
 頬は青ざめ、唇に色はなく、目元には隈がある。まるで十歳は老け込んだような顔をしていた。華麗な美しさが色褪せていくのは、こんなに見るに堪えないものなのだと思い知らされる。それは、変化という兆しでもあった。
 この人がここまで衰えていく、それほどまでに状況が悪いのだ。
「手駒を使って監視させていたのだから、わたくしが元気だということはご存知だったでしょうに」
「いつも通りのお前のようで、本当に安心した。不埒な輩がお前を囲っているというので、余計なことを吹き込まれていないかと心配していたのだよ」
「キサラギのように? それとも、クロエのように、ですか」
 オーギュストは微笑する。ただ、笑っている。
「クロエもキサラギも、何も吹き込んだりはしなかったわ。わたしが人として間違っていることを指摘して、自分を殺していることを止めるように言っただけ」
「そして次の輩は、お前に王になれと吹き込んだ」
「わたしは、自分の意思で王になると決めました。自ら進んで、使われることを選んだのよ」
「望まない結婚をさせられそうになって、それでも彼らが正しいと、お前は言うのかい」
 知らないわけがなかった。結婚証明書は教会に送られたはずだったが、オーギュストの手勢がそれを押さえないわけがない。使者が途中で襲われ、証明書は奪われたのだ。
 だが、エルザリートはその恐れを表に出さず、淡々と告げる。
「もうご存知なのね。そう、わたくし、結婚しました。相手はフェスティア公の令息です」
「薄汚い田舎騎士だ。名前も覚えていない」
「顔をご存知のはずです。マイセン公国でわたくしの命を狙ったこともある男、旧姓はロリアール、今はフェスティア公と養子縁組をしたので、エジェ・ロリアール・フェスティアですわね。結婚に至るまで色々と物語があったのだけれど、それは置いておいて……お祝いの言葉をくださらないの、お兄様?」
「その結婚は無効だ。教会は受理しない。私が許可証を破棄したからね」
 言って、オーギュストは連れていた侍従に何かを持って来させた。仰々しい台の上には、金箔で飾られた結婚許可証が、筆記具を添えられて署名されるのを待っている。
「お前が名を記すのはこれだけだ」
「いけないわ、お兄様。それでは重婚になってしまってよ。わたくしは既婚者なのですから」
「エルザ。聞き分けのないことを言うのではない」
「聞き分けていないのはお兄様の方でしょう」
「所詮紙切れ一枚だ。書類上はお前は結婚していない」
「まあ、そうですわね。『書類上』は」
 オーギュストが、ゆっくりとエルザリートを見た。
 さあ、ここからが本番だ。
 エルザリートは息を飲み下し、笑みを浮かべる。誰に似ているかといえば、目の前に立つこの人だった。オーギュストがいつも浮かべていた笑みを真似た表情だ。
 怯えてはいけない。今からすることに怯んでいては、これから戦っていけない。
 わたしを守っていてくれたあなた。
 オーギュスト。わたしは、今からあなたを傷つける。
「あなたの妃にはなれません、お兄様。わたくしは、すでにフェスティア公令息の妻です」
 血が引く音が聞こえるようだった。
 オーギュストは蒼白になり、真っ白になったかと思うと、怒りに染まったまま声を荒げた。
「エルザ――!」
「修道女でもなんでもお呼びになって確認すればよろしいわ」
 吐く息は、凍えていた。
「それでも結婚するというのならばやってみるといい――結婚証明書は存在しない、けれど婚姻届が提出されたことは教会の司祭が確認している、そしてわたくしとエジェの夫婦関係が成立しているこの状況で、その男の子を孕んでいるかもしれない女を娶るのを、この国の者たちが許せばね!」
 叩きつけるようにエルザリートは言い放った。
 笑みを失ったオーギュストが、呪いを吐くように低く言う。
「私にそれが出来ないと思っているのか」
「やろうと思えば出来るでしょう。けれど確実に民は王を見限るわ。それに、竜たちにとって、冠をかぶせておくのはあなたでなくともいいのですもの。あなたにそっくりな男をそこに座らせておけばいいのだわ。それこそが、あの者たちの本願でしょう。彼らは竜の国を手にいれる――」
 オーギュストの目をぎらつかせるものは、憎しみだ。
 これまで多くの犠牲を払って守ってきたエルザリートが、彼の思うままでなくなり、他の男のものになり、それを堂々と宣言しながら、お前にはできはしないと嘲笑っている。彼でなくとも憎らしく思うだろう。
「お兄様、よくお考えになって。――ここはいったい、誰の国だというの?」
 それに対するオーギュストの答えは。
「――エルザリートを地下回廊へ入れよ。私が命じるまで、出すことは罷りならぬ」
 掴まれた両腕を後ろにやられて、引きずられていったエルザリートは、薄暗い階段を下り、見たこともない地下の奥深くへと連れられていく。やがてぽっかりと穴の空いた広い部屋にたどり着くと、周囲を確認する間もなく、そこへと突き飛ばされた。
 そして、何も分からなくなった。

    



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