そしてキサラギはここに立っている。
こすれ合う鎧。地を踏みしめる鉄靴の音。はためくルブリネルク王家の紋章。風を生み出す人の熱と呼吸。渦巻く空を見上げる者たちが、心に剣と盾を手にしていく。馬は興奮で息を荒くし、蹄で土を掻いて頭を振る。
行く手では、早すぎる雲の流れが激流となり、大地は夜の沼に似ていた。
人の壁が何重にも重なり、騎馬、歩兵、弓兵など様々な兵種が揃えられている。
首都と周辺の地図を覗き込みながら「北区から入ることができるわ」とエルザリートは言った。
「ごみが、首都の壁を越えて山になっている。そこから入ることができるはず。部隊を分けて突入できるわ」
「私たちが使ってきた水路も使える。水の闘技場から街へ侵入できるぞ」
そう言ったアリスを、ごつい手のひらが引き寄せた。ぐきっと首を鳴らしたアリスの頭をかき混ぜる。
「立派になって……父は嬉しいぞ、アリス!」
「そ、ういうのはっ! 後にしてくれませんか、隊長!」
騎士領国。豪快な笑い声を響かせるのは隊長ルイス・マーシャル。緊迫した雰囲気に眉を寄せつつ、凛とした眼差しで周囲に目を配るアリス・マーシャル。その麾下、五百名。
「姫。首都から脱出してくる者たちはどのようにいたしますか」
ルブリネルク龍王国より離反した、ロズ伯爵、シーネ男爵、アルバ子爵とその騎士たち。不安そうながらも王国の貴人の意地として、誇り高い面持ちでエルザリートたちを仰ぐ。その仲間の数、三十名。
「彼らは見逃してもよろしいでしょう。参入を求める者には、竜たちを警戒してもらい、人を襲うことのないようにしてもらえばいかがですか」
マイセン公国に拠点を置く商人カステル。熾火のような興奮を、見えない手で静かに煽っている。彼の仲間である商人組合の者たちは後方支援と情報伝達を担う。
「傭兵たちは、マーシャル、あなた方の指揮下に入れていいのね」
「おう。任せろ」
そして、フェスティア公たち援助者が雇った傭兵、百名。
ここにルブリネルクに取り込まれた亡国の戦士たち五百名が加わる。
総勢、一千余名。これがルブリネルク龍王に叛意を示した者たちの数だった。
そしてキサラギは、彼らの中の一人となって、首都ルブルスとその周辺を取り囲む王国軍と対峙している。
キサラギに与えられた指示はただ一つ。竜約を成せということだけ。勝手に進んで、好きに戦って、手に入れてこい、というものだった。
ゆっくりと息を吐きながら空を見上げる。
冷たい空気が額に触れる。水の気配がしている。けれど草原とは異なり、濁ってよどんだ、生臭いものだ。痛みと苦しみの叫びが混ぜられた、鋭いものでもある。
(私は全能にはなりえない……今も、きっとこれからも)
どれだけ生きようとも、どんなに力を与えられようとも。
いつまでもちっぽけな存在のままで、この世界の一部であることしかできない。流れ、形を変えていくこの大地の行方を、じっと見ていることしかできないもののまま。
(私は、神様にはならない)
けれど、この世界の一部として、変わっていくあらゆるものを見届ける資格をもらった。
さあ、この大いなる流れの行き着く先へ。
行こう。一緒に。
「――今、迎えに行くよ」
喇叭が吹き鳴らされる。怒号が、抜き放たれた剣が、放たれた矢が大気を裂く音が、破裂する。
鳴動する大地に、竜の声が響く。
(さあ、最後の竜狩りだ――!)
その答えは、この曇り空が途切れたところにある。
*
血だまりの中で、女が自分を見上げている。
信じられないという顔をしながら、美貌をうたう顔が歪むのを抑えきれず、自ら吐き出したもので己の誇るものの何もかもを汚して苦悶している。
お前にはその姿がお似合いだ、と心の中で思いつつ、オーギュストは硬直したふりをして、毒杯を受けた王妃、己の母親が死に行く様に衝撃を受けた息子を演じた。周囲が血相を変えて医者を呼べだの、下手人を捕らえろだのと叫んで回っている中で、こうしていることが己の始末だと思ったのだ。
そうして、王妃は一人静謐を保つ息子が、毒杯の犯人だと気付いた。気付きながら、信じられず、何も言えずにどんどん言葉と意識を失っていく。
「お、オー……、っ」
(ご安心ください、母上。今頃、あなたの姉君も同じ末路を辿っていますから)
二人で死の扉を叩くがいい。醜悪な姉妹たち。
残された私たちは、お前たちから解放されて、寄り添って生きるだろう。お互いを守り、助け、慈しみ、どんなに形が変わろうとも互いの絆を信じるだろう。
(私には、あの子だけだ)
そのことがずっと自分を呪いながら救ってきたことを、オーギュストは知っている。
ず、ずず……と地の底から引きずる音がしている。
「…………」
まとわりつくような闇が周囲に降りている。水のようにとぷとぷと音がしそうな、重く粘ついた暗闇だ。明かりを探し、果たして最後にそれを灯したのはいつだろうかを考える。
思い出せない。
思考は鈍く、同じく身体も重い。頭痛がし、呼吸が困難で、手足がほとんど動かせなくなっている。少し腕を動かすだけで、心臓に重りがついたかのように鼓動が重く、息が切れた。
(なんだ、これは?)
その疑問が、思考の霧を払う。思い出せる限り最も近くあった出来事を思い出した。
そう自分は、ブレイドに命じたのだ。オーギュストは大きく息を吸い込み、その時のことをもう一度思い返した。
いいんですね、とブレイドは言った。
『本当に、俺がお側を離れても、いいんですね?』
エルザリートを追え、と告げての、その言葉だった。
オーギュストは己の騎士を嘲笑し、ただ行けと命を下した。愚かなことだ。オーギュストにとって最も重いのは、エルザリートの生死だ。それ以外のものは、例え自分自身のことであっても優先順位が下がる。だからブレイドに命じたのだ。確実にエルザリートの生死を見届けられるように。
それにしても、よく逃げたものだった。
地下回廊と呼ばれるそこは禁域扱いされている。何故かというと、そこに落ちると迷うからだ。亡霊や不思議な力を有した仕掛けも多く、何代か前の王たちはその場所を呪術の行使場所としたり、高貴な邪魔者を処分するための処刑場代わりにしていたという。エルザリートは出入り口の存在を知らないはずだったが、何者かが脱出に手を貸したらしい。今のところ手を貸した者は見つかっていないが、それらしい人物に目星をつけてある。
もしそれが正しかったならば、これからのことがやりやすくなる。
(ああ……)
黒い影の塊が、人の形を持ってオーギュストの足元から這い上がってくる。足を潰し、胸を押し、体温を奪って呼吸できなくさせる。この影は常に近くにいて、ふとした時、視界の隅、あるいは傍らに蹲っている時もある。そして、同じ言葉を囁くのだ。
『許さない……許さない……』
『約せ……約せ……王よ……片割れを……』
『ごめんなさい……ごめんなさい……』
『許さない』
『約せ』
『助けて』
「……また眠っているの?」と艶やかな声が、影を払う。光も闇も焼き尽くす紅い炎のような、笑う声だ。
「たまには起きていないと、溶けてしまうわよ?」
その方が都合がいいくせに、まるで心配するようなことを言う。
オーギュストは億劫に顔を動かし、寝台に下がる幕を無遠慮にめくる女を見た。
「……何の用だ」
「お見舞いに来てあげたのに、可愛くないこと。あなたがちゃんと正気を保っているかどうか、確かめに来たのよ」
少しずつ、毎日の様々なことを思い出せなくなっているのは本当だった。どの時点が最後のことなのか、記憶もあやふやになっている。告げた言葉は夢の出来事のようでもあったし、現実のことのようでもあった。
王がこれでは、絶望しても仕方がない。何が起こったのか正確には把握できずとも、この城に人の気配が薄くなっていることと、代わりに生きているか死んでいるのか分からない者どもの存在が強くなっていることは、オーギュストも感じ取っていた。
「これが、お前の望みか」
オーギュストの問いに、ユートピアは微笑した。
「そしてあなたの望みでもある。オーギュスト・イル・ルブリネルク。あなたもこの世界を壊したかった。そうでしょう?」
(エルザリート)
お前以外にいらない。でもお前が手に入らない。
(お前はどんどん美しくなって、人と繋がり、世界を開いていく……私の手の届かないところへ行ってしまう)
だったら、壊してしまえばいいのだと、そう思ったことが始まりだ。
壊れた国、どこにもいけない世界。そして自分たちは、二人だけで生きていく。お互いだけだと、ささやきあう。――それが、幼い頃から長らく望んだ夢。
そしてこの国は竜の顎に呑まれていく。オーギュストが、ユートピアが、この国に蝕まれた者が望んだ通りに。
――滅びよ、王国。血で血を贖う国よ。一族よ。罪も罰も栄光も、すべてを飲み込んで消えていけ。はじまりに戻れ。
「お姫様は取り戻したの?」
ユートピアが尋ねるのに、いや、と短く答える。
「手を貸してあげましょうか? 逃げるものを追うのは得意よ」
「あの子が引き裂かれるのはごめんだ。あの少女剣士のように」
紅の女は艶麗に微笑した。
「その少女剣士ね――生きているわよ」
オーギュストは驚いた。動かなかった身体が、びくりと跳ねるほどに。
「あの怪我で? まさか」
「そう、普通は致命傷よ。その上、水の中に落ちたというのに、助けた者がいたとしても、恐るべき生命力だわ。砂漠の竜が手を貸したのかもしれないわね。彼は私たちとは違って、もっと古い、それこそ最古と呼ばれるような者だもの……」
キサラギが、生きている。
ユートピアがそれを告げるということは、血だまりを踏みしめて、水へと身を躍らせたあの少女が、再びこの地へ戻ってきているということだろう。
「私はキサラギを殺すわ。私の小さな竜の前で、今度は死体をぶら下げてあげるの。あの子の心を憎悪と絶望で染め上げて、この世界の何もかもを壊してもらうわ」
うっとりと、夢見る口調だった。その時がもうすでに目の前に広がっているような、恍惚とした表情をしている。
恐らくユートピアは、今この国を中心に王国地方が混乱しているこの状況に、ある程度満足しているのだと思われた。長年憎み続けた王国と王族が、こうして病んで潰えていかんとする光景は、この女の本望だったのだろうと、オーギュストは密かに彼女に哀切の思いを抱いた。求めるもの、欲するもの、乾きや飢え、時の長さを自分程度でも理解できるのだから、この女は長く苦しみすぎた。
(そうか。キサラギが、来るのか……)
いつか、エルザリートが、キサラギは自分たちを裁くものだと言ったことがあった。
それがもうすぐそこまで迫っている。死の淵から戻ってきた彼女は、その場所から神の力を借り受けて、この世界を断罪する者になったのだ。――などと、想像する。
オーギュストは目を閉じる。ならば、今は眠っておかなければ。
望みが叶う、その時に。
この手で幕を引くために。
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