美しいものに囲まれて、エルザリートは生を受けた。王家筋のランジュ公爵家は、実力のある騎士たちを抱え、立場を盤石のものにしていた。父である公爵は龍王に従順で、しかし他の貴族たちからも信頼を勝ち得ている、したたかな人物だったらしい。
(ほとんど話したことがないから、実態は知らない……本当は、優しい方だったのかもしれないわね)
 一粒種として生まれたエルザリートは、しかし、その後、父母から一切構われずに育った。憎悪されているのだと確信を得たのは、母が「生まれなければよかったのに」と言ったその瞬間であり、その母が死んだ後、父が娘の一切をオーギュストに委ねた時だった。
「今日から、ここがお前の家だ」
 母同士が姉妹だった、七つ上の従兄は、そう言ってエルザリートをルブリネルクの中心である王城へと招いた。
 オーギュストは、エルザリートが気付いた時には、毎年誕生日の頃になると公爵家へやってきて席についていた。まるで本当の兄のように、贈り物を携え、祝いの言葉をくれた。他にも、季節の折には手紙をくれ、高価な贈り物をされた。お礼を兼ねて返信を書くのがエルザリートの習慣であり、外との繋がりだった。
(くだらないことを書いたわ。けれど、返信が嬉しかった)
 その『お兄様』と同じ場所で暮らすのだ、という喜びは、ゆっくりと萎まされていった。
 一つ一つは瑣末だから、あげつらねることはもうしないし、忘れるつもりで過ごしてきた。ただ、悪意を受けたということが降り積もった。
 オーギュストは、常にエルザリートの状況に目を光らせていたものの、王太子であるために不在になることも多く、すべて行き届いているというわけではなかった。その中で、エルザリートは、心を固めていく手段を選んだ。
 他者を拒絶し、距離を置いていれば、傷つけられることは減る。
 オーギュストの庇護下にあるということも、エルザリートの仮面を分厚くした。傲慢な姫君の物言いは、先達や書物に当たって作ったものだ。
 そのうち、仮面は溶け込んで自分の一部になった。そして、その内側で、あらゆるものを冷めた目で見ているようになった。
(わたくしは、そうやって戦っていた。傲慢になることで、何も感じないように)
 お気に入りの騎士を抱えて、くだらないことで戦う人々。
 その戦いを見世物として楽しむ、獣のような令嬢たち。
 上に昇ることばかり考え、堕ちることを恐れる男たち。
 報酬を受けながらも、内心は主人たちを見下す騎士たち。
 日毎繰り返される享楽的で退廃的な騒ぎは、この国は別の要因があれば滅ぶだろう、と予期させるものがあった。
 草原から人が流入してくることは、ほとんどない。海域に生息している竜のせいで、確実な行き来ができないからだ。周辺の小国は取るに足りない。南の砂漠地帯に王国があるが、こちらは両国が砂漠越えという危険を冒さないために、戦争も起こっていない。ルブリネルクが最も警戒しているのは、正しくは国と認められていない騎士領国だが、こちらは国民の性質から、利益がないと確信されなければ攻め込んでくることもない。
 そういった点で、ルブルネルクは恵まれた国だった。だから、ルブリネルクの民は、何かがあれば何もかもが滅ぶのだということに気付いていないのだ。
(その滅びは、世界の半分を削るほど、惨たらしいものになるだろう……)
 ――滅亡の瞬間を、夢想したことがある。
 生きるもののない廃墟の街。崩れた石の建物たち。風に温度はなく、甲高く笑うように吹き抜ける。白っぽい光に満ちて、濃い影が溜まる。光と影の合間に、かつての繁栄の幻影が踊る――そんな、美しく哀しい終焉で、心を慰めていた。 
 そして、エルザリートにとって、オーギュストはその化身だった。
(わたくしは、あなたに生かされてきた……)
 腐敗したルブリネルクにおいて、光り輝く存在として生まれ、微笑の裏側で数多くのものを踏みにじってきた、その裏表が愛おしく、憎らしかった。
「お兄様は、どうしていつも笑っているの。楽しいことなんて、何一つありはしないわ」
 そう尋ねたエルザリートに、オーギュストは……。



 寒さのあまりに何度も覚醒したが、動くことができずにいた。
 何が入っているのか分からない、汚いものがはみ出している大きな箱の影にうずくまり、エルザリートは一夜を過ごしたのだった。
 夢うつつに、断片的に過去を夢見ていた。その名残に、脳裏にオーギュストの顔がちらついている。
(わたくしは、今ようやく、あなたから逃げることができたのに……)
 薄く開いた視界に、誰かが近付いてくるのが映って、エルザリートははっとした。ばっと顔を上げると、びくりと震えた人影は、小さな子どもたちだった。ぎくりとした顔をして逃げ出す。エルザリートは慌てて自分の身体を探ったが、どうやら何も奪われずに済んだようだった。
(ひと休みしている間にも警戒しなければならないということ)
 頭を振って意識を覚醒させ、軋む身体を動かす。すっかり手足は黒く汚れて、それを洗う場所にもためらうのが、この北区だった。すべきことが思い当たらず、エルザリートは、この辺りを見て回ることにした。そうすれば、何か見つかるかもしれないと思ったのだ。
 自分がここに落ちてくるのはすでに知られていたようだったので、少し考え、近くにあった箱を開いた。掃き溜めのにおいが立ち上って吐き気がしたが、なんとか堪えると、使えそうなものを探った。手を相当汚した頃に汚れた布切れが見つかり、それを結びあわせて、頭にかぶる。この髪を隠せば、多少なりとも紛れることができるだろう。ひどく臭うが、我慢するしかない。
 空は濁っていた。
 空気が悪いのだろう。疲れた顔をした人々が、足を引きずるようにして歩いている。壊れそうな音を立てる荷車を引く老人や、何かから逃げるように走り去る女たち。その手足がない男たちの姿もあり、街角にうずくまっている。命数が少ないのが、すぐに見て取れた。
 水路の上に勝手に板を渡した先に小屋らしきものが建てられていたり、ゴミが積み上がっていると思ったらその中から住人が出てきたりと、悲しみや辛さを覚える以前に、そういう世界があるのだと息苦しい驚きを覚えた。卒倒したりはしないが、昨夜の人骨のことは、今でも思い出すと冷たいものが伝う。
 比較的、朝方は平穏のようだ。橋のたもとで女たちが山ほどの洗濯をしている。会話はほとんど聞こえてこない。他には、小さな子どもたちが自分よりも巨大な荷物を背負って歩いていたり、赤ん坊を背負って歩き回っている。
 ふと、その赤ん坊を背負っていた少女が何かを落とした。拾い上げてみると、金属の破片、だった。こんなものを持って何をすると言うのだろう。首を傾げた時、足元に痛みが走った。
「痛っ!」
 少女が、エルザリートの足を蹴飛ばしたのだった。
「返して! あたしのだよ!」
「なっ……」と言葉を失っている間に、少女はエルザリートから金属片を奪い取った。見れば、腰から下げた袋の中に、そういったものが押し込まれているようだった。
 少女は、じろじろとエルザリートを睨み上げた。
「見たとこ新入りみたいだけど、死にたくなかったら人のものに手を出すのは止めときなよ。ここは縄張りを荒らすやつに厳しいから」
「そんな破片……いったい、何に使うの」
「集めて売るんだよ」
 屑鉄を集めてもう一度鋳造するのか、とそこで理解した。
「売人がいるのね」
「そうだけど……やだ、ついてこないでよ。商売敵が増えると、こっちがおまんま食い上げになるんだよ」
 少女は走り出した。エルザリートはそれを追いかけた。赤ん坊を背負っているというのに、少女はまるで鹿のように走る。そして、あっという間にエルザリートを振り切ってしまった。
(見失った……!)
 すっかり息が上がっていた。また見慣れぬところまで来てしまい、きょろきょろしながら歩き回る。先ほどとは違い、廃墟が立ち並び、ひっそりと静まり返っている。
 足が冷え切って痺れるくらい歩き回ってようやく、目印になるようなものを見た。
 それは、山だった。色とりどりの丘であり、強烈な臭いを放つ、ゴミの集積場だったのだ。
 そこに蠢いているのは、幾人かの子どもたちと年寄りだった。足を踏み出したエルザリートが蹴飛ばしたのは、割れた陶器のかけらだ。すべてつなぎ合わせると、茶器になるのではないだろうか。
 首都に出るごみが、上層下層関係なく、ここに集められているらしい。ごみ山を歩いている者たちは、それを拾って、先ほどの少女のように売人に売っているのだと思われた。
(流れ着くものを使って、ここにいる者たちは生計を立てているのね……。それがたとえ死体であっても)
 立ち尽くしていたエルザリートは、背後から籠を背負ってきた老人にどんと突き飛ばされた。彼はそのまま何を言うでもなく通り過ぎ、ごみ山の中に入っていく。
 エルザリートは少し考え、頭の布を外し、袋を作ると、意を決して山の中に分け入った。足元を突き抜ける破片の痛みが、自分がまだ生きていることを教えてくれていた。
「……っく」
 風が吹くと、凄まじい埃が立ち、目を潰す。被り物は袋にしてしまったので、覆うものが何もない状態だ。風が遠すぎると、咳が止まらなくなる。臭いと相まって、えづきに変わった。
 どれだけ広い山なのかは分からないが、相当巨大なものも下敷きになっているようで、壊れた家具の頭が突き出していたりもする。そうやって踏み固められているのならまだいいが、入り口に近いところはごみが捨てやすいからだろう、かなり高い山が形成されており、からから、と積まれたものが崩れる音が、時々響いてきていた。
 日が暮れると、ごみ山に一目で雰囲気の違う男が現れた。見上げるほど上背のある男で、かつては鍛えられていたであろう身体をだらしなく脂肪に覆い、明らかにそこにいる者たちを見下している立ち姿だった。暗い目をして、集まってくる子どもたちから差し出されたものを取り上げ、小銭を渡す。子どもたちは、それを奪われないよう胸に抱いて、あちこちに散っていく。
 エルザリートも彼らに混じって、集めたものを差し出した。男の目が、鋭く細められた。
「なんだ、新入りか? ようこそ、掃き溜めへ」
「…………」
 無用に口を開けば、相手を逆撫でることになると、これまでの経験から知っている。それを有効に使うときもあったけれど、この場所ではそれは無用のものだった。黙って、集めたものを渡した。
 それを一瞥して、男は顔を歪めた。
「ふん、ごみばっかりじゃねえか」
「あっ!」
 男はそれをごみ山へと投げ捨てた。割れ物のように散っていく破片が、儚い音を立てて消えた。
「何をするの!」
「金にならねえものばっかりだったから捨てたまでだ。もう少し見る目を養うんだな」
 震えているエルザリートをくつくつ笑った男は、さっさと行けと手を振った。
「それとも、別のやり方で稼ぎたいなら、紹介してやってもいいぜ。お前、なかなかいいじゃねえか。こっちに来い」
 汚れた手が伸びてきたのを、エルザリートは振り払った。逃げ出すと、笑い声が追ってきた。無様な、とこちらを笑っていた。
 あの男は、最初から金を払うつもりなどなかったのだ。こちらが新入りと見ていたぶりたかっただけ。集めたもののほとんどがただのごみだったとしても、多少なりとも金になったはずだった。
 悔し涙が滲んだ。急に、ぼろぼろの足が痛み始めた。見れば、靴が破れ、血が滴っていた。振り返ると、点々と赤い跡がある。
 心細さと不安とが一気に噴き出して、エルザリートはその場に座り込んだ。
 もう、一歩も立てないと思った。何も口に入れていない身体は悲鳴をあげていて、もういいだろうと諦めることを囁きかけてくる。
 そして次の瞬間、エルザリートは何者かに覆い被さられた。悲鳴をあげた途端、影はぱっと離れる。足元がすうすうし、見れば、エルザリートの靴を持って、幼子たちがごみ山を駆け下りていくところだった。
「っ……!」
 振り上げた拳は、叩きつければ叩きつけるほど、傷を作り、痛みを増した。
 美しい手だと、貴族たちが唇を寄せてきた手は、たった一日で失われた。あれほどそうして恭順を示されることを嫌悪したというのに、惜しんでしまう自分が、何よりも嫌だった。
 エルザリートの内側に渦巻くのは、自身への嫌悪と憎悪だ。それはやがて形を変え、この世界を作った『なにものか』に向けられていく。
 どうしてこんな世界がある。どうしてこんな世界になった。
 誰がこんな世界にした?
(ああ……騎士たちの気持ちが分かった……)
 主人のために我が身と命を捨てる騎士たち。戦って昇り詰めようとする彼ら。
 彼らは、戦うことで自らの世界を変えようとしているのだ。力を手に入れ、自らの生まれや立場に復讐するように。欠け損じたものを、埋めるために。
 見上げた暮れなずむ空に、城は見えない。
 エルザリートは考える。もし騎士たちのように戦うならば、自分は何に復讐するだろう。生まれ? 生い立ち? それとも。
 隠し持った短剣を握りしめ、ゆっくりと倒れ伏す。ざりざりとした感触と痛み、そして、奥底で細かなものがちりちりと零れ落ちる音がする。
 わたくしが一番殺したかったもの。

(――それは、わたし)

    



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