―― 青 い 春 を 憶 う
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 木々が葉を落とし、むき出しの刃のような枝の合間に、強く冷たい風が吹くようになり、銀空に鳥の群れが飛び去っていくと、リリスの冬である。鳥たちが去るのを待っていたかのように、冬の雲から雪が舞い降り、闇夜の合間にしんしんと地上を覆って、ある朝、世界は白く染まっている。
 冬服を着込み、暖かい部屋で書き物をしていたアマーリエは、一年前とは異なる冬景色に、なんとも言えない感慨を抱いていた。
 リリスの冬は、室内の温度を自由にコントロールできる場所に生まれ育ったアマーリエにとって、寒すぎるし、不便なものだ。けれど思い出すのは、いまよりもずっと寒々しく苦しかった都市の冬で、それを思うとこの瞬間の温かさを安らぎは比べ物にならない。
(だって、キヨツグ様がいて、コウセツがいる。みんながいてくれる。少しも寂しいとは思わないから)
 それに、この季節、王宮の人間は多忙を極める。本格的な冬に入ると、年末年始の準備が始まるからだ。儀式の打ち合わせやおさらいのための予定が組まれつつあるなか、族長夫妻の社交関係の仕事は駆け込みのものが多くなる。
 およそ一年かけて体調を回復させたアマーリエは、元日を目処にして本格的に公務に復帰することになっていたが、思ったよりも早い段階で快調が続くようになっていたので、肩慣らしという形でいくつかの謁見や会食に臨んだ。
 この日は、南方の領主タン家夫妻との昼餐会だった。比較的温暖で雪が少ない南方だが、山岳地帯があり、木材のほか、鉱物や燃料などの資源の宝庫であるため、何かと事件が絶えないという。この地に忍び込む者の目的の大半は、ここで盗掘したものを高額で売りさばくことだ。
 そのせいか領主夫妻はどちらもおっとりしているが、大柄で、よく日に焼けていた。夫人の方も、狩りや農作業を日常とし、不審者を撃退するという。「そのせいで肌が黒くて。見苦しくて申し訳ありません」と恐縮されたが、とんでもないと首を振った。この半年の体調不良で、いかに自分に体力がないか思い知らされたばかりなのだ。尊敬こそすれ、見苦しいとは微塵も思わない。
「どんなものを育てていらっしゃるんですか?」
 気持ちを伝えて、南の生活について質問をすると、夫人はふっくらした頬に嬉しそうな笑みを浮かべて教えてくれる。
 キヨツグとタン氏は、暖冬による現状と今後の影響について意見を交わし合っていたが、やがて話題は、やはり不法侵入者のことになった。南方領には付き物の問題とはいえ、対策と解決には毎回頭を悩まされるという。
「ヒト族の侵入は激減しましたが、リリスの者の犯罪が増えております」
 領域侵犯についての取り決めが行われたため、罪に問われるとされながらもいままで見逃されてきた侵入者は、捕縛され次第、決められた通りに移送され、厳罰を受けることになっている。そうなると犯罪歴として記録されるため、厳密化された現在は、以前のように度胸試しなどと言ってやってくる輩がいなくなった。
 その一方で、異種族との外交が活発化し、リリス内外での需要を見込んで、南方の禁足地で資源を漁る犯罪者が増えているらしい。
「それで考えたのですが、セノオ一族の助力を得ようと思っています」
 キヨツグは何も言わなかったが、アマーリエは彼を見た。
(あ、セノオ一族って聞いて、ちょっとそわついてる)
 顔に出ないものを感じ取れるのは、妻の特権かもしれない。
 セノオという名の氏族は、族長の代わりに各地の調停役を担うことのできる、大きな一族の名だ。キヨツグは、幼少期にこの一族に預けられて、草原の暮らしを学んだ。だから、彼にはもう一つ、育ての親兄弟と故郷があるのだ。
 アマーリエが聞き知ったところによると、拠点となる集落が東にあるが、一族の生業のため、一年のほとんどは草原を移動して過ごす。彼らの主な収入源は、牧畜。そして、傭兵家業だという。
「そこで、天様にお願いがございます。セノオ一族を説得していただけませんか? 実は、助力を請うに当たって、少々困っております。彼らへの報酬が、どうにも高額で……」
 傭兵、と呼ばれる仕事に就く人々の俸給の平均を知らないが、キヨツグを観察していると、南方領主に提示された金額が妥当性を欠いていることがわかった。どうやらかなり吹っかけられているらしい。支払い能力がないことをタン氏は恥じたが、キヨツグはそれについては下手な慰めを口にせず、自分がすべきことだけを語った。
「わかった。仲立ちに入ろう。それから、南方の資源はリリスの要の一つゆえ、こちらから補助が出せるよう、評議する」
「ありがとうございます。よろしくお願いいたします」
 仕事の話を終わらせ、食後のお茶を楽しんで、解散となった。キヨツグは早速、南方の取り締まり強化のために執務に向かい、アマーリエは着替えをして、コウセツに会いに行き、食事の世話をした。
 少し前に色々あった乳母たちだが、新しい一人を加えつつも、仲良くやっているらしい。巫女でもある新しい乳母が、コウセツへの接し方をそれとなく見せてくれるため、辞職を申し出たこともあった二人がその動きに習ったことで、以前のように楽しそうに世話をしていると、こっそりリーファが教えてくれた。
 時間があったので入浴の世話までし、揺り籠のなかのコウセツが眠りに落ちたのを見届けて、アマーリエも部屋に戻って寝支度を始めた。女官たちに就寝の挨拶を告げて寝殿に行き、置いてあった本を読んでいたが、一時間経ってもキヨツグが来なかったので、大人しく寝台に横になった。

 早朝、目が覚めた。身じろぎしたアマーリエは、傍らに温もりがあるのに気付いて寝返りを打つ。薄暗い室内に輪郭をぼやかせたキヨツグが、目を閉じて眠っていた。アマーリエが寝入った後にやってきたらしい。
(……睫毛、長……)
 首が太く、骨格がしっかりしているので、女性に間違えられることはないが、顔だけ見ると性別が不明になるほど美しい顔だ。似ている、似ている、と連呼されるコウセツは、青年期を迎えるとこの人とそっくりになるのかもしれない。
 普段から表情が出ないキヨツグなので、寝ていても無防備であどけない顔にはならない。本当に隙のない人だ。きっとアマーリエはあどけないどころかみっともない寝顔を見せているだろうに。
(寝ていてもかっこいいって、ずるい)
 そのとき、ぱちっと目が開いて、アマーリエはぎょっとした。
(私、口に出してた!?)
 起こしてしまったのかと慌てて口元を抑えたが、鼓動は動揺を伝える速さになっている。敷布が擦れる音を響かせて、すっと身を寄せてきたキヨツグは、しばらくアマーリエを見つめた後、低い声で密やかに言った。
「……眠れぬのか」
 アマーリエの心の声が音になっていたなら、絶好の揶揄いの好機だ。聞き流すわけがない。だからキヨツグが起きたのは、アマーリエが覚醒したのを察知したせいだろう。そのことに多少安堵しつつ、彼の問いに首を振った。
「いえ……ふと目が覚めただけです」
 ん、と小さく応答して、キヨツグは伸ばした腕にアマーリエを囲い込んだ。近過ぎる彼の体温に、相変わらずどきどきしながらも、心の奥まで優しく抱きしめられているようで、安心する。
 大きな手が、アマーリエの背中を温めるように撫でていく。アマーリエがコウセツの背中をとんとんとするのを思い出した。優しい眠気が、緩やかに意識を運んでいく。
「…………」
 だが、それは急に阻まれた。
 うとうといていたアマーリエだったが、ふっと意識が浮かんで、何事だろうと目を開く。手を止めたキヨツグが、部屋の扉を見ながら半身を起こそうとしている。
 一気に覚醒した。アマーリエにはわからないものを感じ取れるキヨツグだ、きっと何かあった。
「どうかしましたか?」
「……人が来る」
 そう言って寝台から出て、夜着の上から羽織ものをまとう。アマーリエがそれに続こうとすると、構わなくていいと制し、音もなく寝間から出て行ってしまう。
 しばらくもしないうちに誰かがやってきて「天様」と呼びかけるのが聞こえた。
「起きている。何があった?」
 止められたものの、アマーリエは髪に手櫛を通し、夜着を隠すものを羽織ってしっかり前を留めつつ、扉の前にで漏れ聞こえる声を拾った。
 外にいるのは、どうやら侍従長のようだ。寝殿にまで取り次ぎに来るのだから、緊急の用だろう。だがアマーリエを憚ってか、それから声が小さくなった。何か言っている気配はするが、要件が聞き取れない。
 キヨツグが応じると、侍従長は素早く立ち去った。
 彼が一人になったのを見計らって、アマーリエは隣室に移動する。日が昇り始めてほの明るい部屋で、キヨツグが渡されたらしい手紙を読んでいた。文面に目を走らせる表情はいつものように変わらないが、読み終えたそれを折りたたむ仕草には、何故か投げやりだ。
「事件ですか?」
「……否、それほど大事ではない。盗賊の集団を追い込むので人を寄越せと、セノオの当主が言ってきただけだ」
 アマーリエはちょっと考え、言った。
「……十分、大事のような気がするんですが……」
 キヨツグと縁深いセノオの当主からの用件は、盗賊の捕縛のために力を貸してほしいということ。しかもこんな朝早く、さらに言えば族長に頼み事をするのに「寄越せ」とは、色んな意味で問題がある気がする。キヨツグが無造作な感じなのも、不躾な態度に呆れているからではないか。
 だが、それは見当違いだったらしい。彼は「……なるほどな」と、得心がいったように呟いた。
「……彼らしいことだ」
 淡い微笑みを目の当たりにして、アマーリエは大きく息を飲んだ。
 だがこちらを見たときには、すでに消えている。キヨツグは、自分は仕事に向かうこと、アマーリエはもうしばらく寝ていても問題ないと告げ、一足先に寝殿を出て行った。
 そうは言われても、眠れるわけがない。心配だし、何より。
(キヨツグ様を笑わせられるって……いったい……?)
 しばらく棒立ちになっていたアマーリエだが、驚きを振り払うと、キヨツグに遅れつつも寝殿を出た。できることはないにしても、早すぎる仕事を一つ終えたキヨツグを迎えることくらいはできるはずだ、と思って。

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