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 キヨツグから連絡が来たのは、朝餉の時間を少し過ぎた頃だった。
 そろそろ食事をしないと、キヨツグに待たなくていい、先に食べなさいと改めて注意されてしまうと思っていたのだが、待っていてよかった。先に始めていた仕事を片付けながら伝言を聞いたアマーリエだったが、その内容に首を傾げた。
「お部屋に来るように、って? なんだろう……とりあえず、『わかりました』と伝えてください」
 朝食を一緒にどうか、と言われたのはいいけれど、指定されたのは、キヨツグの私室だ。しかも食事の手配はしているとわざわざ言ってきた。朝食を一緒に摂るとき、最近は、アマーリエの部屋か、コウセツのいる子ども部屋で過ごしていたので、なんだか、いつもと違い過ぎて気になる。
(私室ってことは、人には聞かせたくない話をするつもりなのかな。食事の手配……私が準備していると困った、ってところ……?)
 推理してみるが、どんなに飛躍させてもその程度のことしか思いつかない。キヨツグのようにはなれないと思いつつ、彼の私室に向かった。知性が足りないのなら、行動してみるのがアマーリエの最適解だ。
 私室は、戻って来る主人のために十分に温められていた。きんとした朝の空気を緩める温もりにほっとしつつ、椅子に座って、目を閉じる。ぼんやりとした眠気が残っているのは、早くに目が覚めたせいだ。このまま横になれば、いい感じに二度寝ができそうだった。
「…………」
 そして、本当に眠ってしまったのだろう。
 キヨツグが戻ってきて、アマーリエに声をかけようとし、何か考えて止めたような気がする。そうして誰かに何かを言って、アマーリエを抱き上げた。そんな夢を見た気がした。
 眠りと目覚めの狭間にある浮遊感に心地よく漂っていたので、目を開けたとき、どこにいるのかわからなかった。
 全身を暖かい毛皮に包まれているが、天井は暗く、明らかに狭い空間だ。浮遊感は重力に変わり、大小の振動で身体が揺れる。ごとごと、がらがら、と車輪の音が賑やかだ。
(……馬車……えっ、馬車!?)
 ぎょっとしたとき、声がした。
「……目が覚めたか」
 毛布に包まれたアマーリエを抱いていたのは、キヨツグだった。
 てっきり不埒者にさらわれたと思い込みかけたアマーリエは、状況がさっぱりわからず、のろのろと身を起こしながら呆然と彼を見た。ずるりと毛布が落ちても、馬車が大きく揺れても、このおかしな夢は現実のままだ。
 では、あれは夢ではない。半覚醒状態で見ていた、現実なのだ。
「……え、っと……?」
「……眠ければ、もう少し寝ているといい。到着までもう少しかかる」
「いえ、あの、……朝ごはんは……?」
 どういう状況ですか、という質問が浮かばず、言えたのは的外れにもほどがある問いだった。だが、キヨツグはもちろん、笑ったりはしない。
「……あちらが用意している。空腹なら、飴があるが」
「ち、違います、飴は大丈夫です、それよりも……どういうことなんですか? 説明してください」
 懐に持っていた飴を取り出そうとするのを制すると、キヨツグはとりあえずアマーリエを膝から下ろし、しっかりと毛布に包ませてから、このわけのわからない状況を解き明かし始めた。
 まず、セノオ一族の要請は無事完遂された。王宮側から武官を出し、セノオの者たちが追い立てた盗賊の集団を挟撃して、一斉に捕縛することに成功したのだ。
 このとき、犯罪者の移送のついでに、今回の件の労いに何を求めるのか、さらに南方領主家との折衝にキヨツグが入るため話し合いがしたい旨を告げると、セノオの当主はこう言ったらしい。
「天様と真様と朝食をご一緒したい」
 そのときに話し合いもできるからちょうどいい、というのがセノオの当主の言い分だった。
 族長夫妻を呼びつけ、しかもそれに応じたのが発覚すると、色々とまずい。特にいまはタン家夫妻が逗留中だ。だがセノオの長の言葉を無礼なと一蹴するのもよろしくない。
 そう考えたので、伝言役は他に誰にも告げず、キヨツグだけの耳に入れた。
「……タン家当主が、セノオ一族に高額な報酬を要求された、と話していたことを覚えているか。セノオの当主の人柄を知っているが、そのような言いがかりをつける者ではない。だとすれば、そのように言った目的があると考えられた」
 一つは、タン家当主に問題がある可能性。力を貸す謂れなどない、と抵抗を示したかもしれない。だが、調べさせてもそのような事実はなかった。タン家の長は、温厚ながら積極的に外に出て住民と交流を持って慕われている人物だ。ゆえに、この推測は外れだ、とキヨツグは判断した。
「……タン家当主は、私に話を持って来る前に、セノオ側から多忙を理由に一度断られたらしい。となれば、タン家当主は私に助力を求めるだろう。私が命じれば、セノオも出て来ざるを得ない。それが決まりかけたところで、今朝の急使だ」
 あのとき、キヨツグが「彼らしい」と笑ったことを思い出すが、ついでに胸のざわつきも蘇ってしまった。
「……あの書簡が真に意味するのは、『近くまで来ているから会おう』だ。わざと南方領主に高額な報酬を求め、私が表に出て来る口実を準備した。盗賊団の捕り物は偶然だろうが、意図はわかる。先ほどの意味に加え、年明けの参賀の代わりにしようというのだろう」
 そしてキヨツグは、周囲にはなるべく伏せて、その要求に応じることにし、アマーリエを連れて、護衛兼御者役の一人以外は連れず、お忍びで馬車に乗り込んだのだった。
「…………」
 ぽかーん、としてしまったのは、セノオ当主の布石もさることながら、キヨツグがいつになく饒舌だったからだ。いや、ちゃんと説明しようとしてくれたのはわかる。しかし、口数が多いのは、セノオ当主に特別な感情を抱いているからだとも思えてしまったのだ。
「そんな回りくどいことをしなくても、普通にご招待くだされば……」
「……あの男は、昔からそうやって私と戯けたやり取りをする。それにお前を巻き込んでもいいと思っているなら、あれの傲慢が過ぎるゆえ、断るつもりだった。だが、考えが変わった」
 胸のざわめきが、また大きくなった。
 巻き込まれたのは、別にいい。嫌だとは思わないし、キヨツグが問題ないと考えたなら、誰かが不利益を被ることはないだろう。けれど彼がそこまで融通してもいいと思えるセノオの当主とは、いったいどんな人物なのか。
 セノオ一族の当主夫妻の顔を、アマーリエは知らない。全氏族の長、あるいは代表者と顔を合わせる機会は、主に年明けの参賀になるが、アマーリエが初めて、そして現在では唯一臨んだそれに、彼らの姿はなかった。当時夫人が身重だったこともあり、代理人が挨拶に来たからだ。
 その後しばらくして、仕事のためにキヨツグと当主が顔を合わせているが、翌年の同じ行事は流行病のために簡略化されており、アマーリエも不在だったので、ここに至ってもキヨツグの義理の家族の顔を知らないままでいる。
 キヨツグは、再びアマーリエをしっかりと毛布に包ませた。
「考えが変わったのは、どうしてですか?」
 彼が触れた場所の温もりを手繰るように、毛布の合わせを握りしめる。
 以前なら、こんな風に尋ねることはできなかった。何を考えたのか、その答えなんて、聞いて嬉しくなることばかりではない。立ち入った質問だと、相手の気分を害することもある。
 けれど、問いを投げかける相手、そして自分との間に確かな信頼関係があれば、恐れは少し薄れる。
 キヨツグは、知りたい、と思うアマーリエを決して邪険にはしない。確かにそう思える人だ。
 彼は、口を開いた。
「……嫌がらせ」
 なのに、予想もしない答えに、せっかくの決意は疑問符だらけになってしまった。
「……嫌、がらせ……?」
 誰に? 何のために? 私が悪いのだろうか?
 ぐるぐる考えていると、視界の端でこちらを捉えていたキヨツグが、身体の向きを変え、大きな手のひらで肩を掴みながら不意にアマーリエの唇を奪った。
「んぅっ」
 思わず声を漏らした唇を撫でるように、もう一度優しくそれを重ね合わせて、視線を奪ったキヨツグは、言った。「……お前はいつも通りでいい」と、アマーリエを巻き込む宣言を。

 しばらくもしないうちに、外の気配が賑やかになってきた。
 馬車が停まり、降りて、納得する。地上を埋め尽くす、もこもこの群れ、群れ、群れ。かろんかろんという鈴の音とともに羊たちが鳴く。遊牧を生業とする氏族の幕営地だ。
 すると、牧羊犬らしき大型の白黒の獣が来訪者を気にしてか、群れから離れ、近付いてきてふんふんと匂いを嗅ぎに来た。
 アマーリエはそっとしゃがみ込んでしばらく好きにさせていたが、やがて犬は綺麗に足を揃えてふさふさの尻尾を左右に大きく振った。どうやら、敵ではないと判断されたようだ。可愛らしい顔で見つめてくるので、笑って頭から背中にかけてよしよしと撫でた。
「天様、真様」
 呼び掛けてきたのは、見慣れない厚着をした若い男性だった。途端に犬は腰を上げ、彼の足元に身を伏せる。人懐こさよりも、主従関係が色濃い仕草だったので、彼がこの場所の主人だと判断し、アマーリエは立ち上がって姿勢を正した。
「ようこそ我が一族の幕営地にお越しくださいました。わたくしはヤンと申します。お二方をお迎えできて大変光栄に存じます」
 合わせた手を掲げ、にかっと笑う彼は、日に焼けていて歯が白い。長く遊牧の民として暮らしているのだろう、街に暮らしていると目にすることがない、色鮮やかな刺繍と毛皮を組み合わせた冬服は、まるで彼の一部のようによく似合っている。
 ヤンの案内で、キヨツグとアマーリエは大きな天幕に案内された。その周りでは、同じく独特の衣服を着た子どもたちがたくさんの馬に一生懸命水を飲ませていた。無垢な目が「あれは誰だろう?」と好奇心と疑問を露わにしていたが、目が合うとはにかむだけで、声はかけてこない。きっと、アマーリエたちを大事なお客様だと思って行儀よくしていたのだ。
(可愛い。コウセツも、じきにあんな風になるんだろうな)
 天幕に入ると、温められた空気と、炭、煙草の匂いを感じた。その中心の円座に座っていた旅装の人物のうちの一人が、こちらを見て立ち上がる。
 短く刈り込んだ黒い髪、黒い瞳。どことなくスポーツマンめいた雰囲気の、爽やかな顔立ちの男性だ。左の耳に房のついた耳飾りをつけていて、まるで編み込んだ髪のようになっている。
「天様」
 そう言って、恭しく跪く。円座にいた他の人々も、同じように膝をついた。

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