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 ぱあん、とクラクションの音が弾ける。
 この街は音だらけだ。風と草の音に囲まれて育ったせいで大きな音がする度に驚いたものだが、いまでは視線すら向けない。道の端に寄って携帯端末を操作しながら、なかなか連絡がつかない相手に焦れてついに通話を開始する。だが返ってくるのは無情な音声アナウンスで「ああもう、あの方は!」と苛立った呟きがつい口をついた。
(リリスと違って絶対繋がる環境なのに、応答してくれないなら意味がないではないの!)
 ヒト族の領域に敷かれた通信技術は、よほどでなければ不具合を起こすことはない。リリスの一部にも電波が届くくらいだ。以前はごく一部の携帯端末だけだったが、新しい機種が出る度に改善され、いまでは大抵の携帯端末がリリスでも同じ様に使用できる。
 ユイコが都市に来る前に初めて持った携帯端末もそうだった。
 当時は知識がなかったのでわからなかった。だがアマーリエは違った。あのとき携帯端末を操作したのは、端末がネットワーク説族や通話が行える状態なのかを確認するためだったのではないか、とマサキが言った。彼がユイコに連絡するに違いないと見越していた彼女に「叶わねーなあホント」とも呟いていた。
 わかり合っているような雰囲気にそのときは多少なりとも嫉妬で焦れたけれど、いまは。
(とにかく、マサキ様と合流しないと)
 新しく建った高層のショッピングセンターを視察する予定が、互いの予定が押して押して、どちらも待ち合わせ時間を大幅に過ぎてしまったのだ。携帯端末を用いればすぐに状況を知らせることができるとはいえ、都市での生活は何もかもが忙しなく、わずかでも遅れると移動手段を失うという環境なので、時間を無駄にするのが惜しいという感覚が染みついてしまった。
 待ち合わせ場所に向かって歩き出す。
 リリスの装束とはまったく異なる、軽い素材のトップス 。膝丈のスカート。これに合わせるなら踵の高い靴だが、ヒト族に比べて男女ともに身長が高く骨格に恵まれたリリス族なので、悪目立ちするとマサキに言われ、背丈を強調しない靴を合わせている。縦長の虹彩に気付かれないように視力矯正とは関係のない眼鏡をかけた格好で、この街では要人でも令嬢でもないユイコは付き添いもなく自由に闊歩する。
 この街では誰もが早足だ。周囲に関心がないように見えて、実は視界の端に捉えている。一方で面倒ごとには関わり合いになりたくないと、無関心を決め込んでいる。それに慣れつつあるユイコも、ヒト族の女性たちの、男性と見まごう服装や、露出の激しい衣服、制服といった姿のうちの一人になって颯爽と行く。
 長すぎる髪は都市に来る前に切り、この街に馴染むためにその後美容師のいる店で切ってもらった。ユメ御前ほどではないが短くなった髪の、首筋のこそばゆい感触にはすっかり慣れた。そのうち髪を染めてみようと思っている。
 待ち合わせ場所の近くまで来て、手櫛で髪を整える。スカートの皺を伸ばしていると信号が変わったので、流れに遅れないよう大きな歩幅で歩き出す。
「ねえねえ、あれ芸能人かなあ?」
「あっ、さっきマルシャンの前にいた人!? そうかも! めちゃくちゃかっこよかったよねーっ!」
 背ぇ高くて、髪も長くってぇ、と黄色い声を上げる女性たちが通り過ぎ、思わず横目で追った。腿の半分くらいしかないスカートの若い女性と、髪色が緑の派手な鞄を持った女性の二人組だった。
(…………まさか……)
 マルシャンというのは本日の目的であるショッピングセンターのビルの名前だ。待ち合わせ場所は、その入り口。彼女たちの会話に登場した何者かは、もしかしたらユイコがよく知っている人かも、なんて考えるのは穿ちすぎだろうか?
 無意識に早足になっていたことに気付いたのは、到着して足を止めた途端に呼吸が荒くなっていたときだった。待ち合わせ場所の定番となっているのか若者たちが集まっていて、何故か多くの視線が一箇所に集中している。
「…………やっぱり!」
 ユイコはきっと目を吊り上げた。
 長い黒髪を三つ編みにして垂らす、この街の男性にしては奇抜な髪型。それでも注目されているのは身長や体格に恵まれ、顔立ちの整った男性だからだ。黒いシャツ、白いパンツにじゃらじゃらと鎖の飾り物を下げ、先の尖った黒革の靴を履いている。黒いサングラスをかけてはいるのもまた、素顔を隠しているようで魅力的に映るのだろう。実際こそこそと交わされる周囲の女性たちの会話は「かっこいい……」「声かけてみる?」だったり「撮影?」「モデルか芸能人かなあ」だったりする。
 そのようにして見栄えがいいだけにしょっちゅう声をかけられるのだ。いまも。
「お一人なんですかあ? あたしたちとどっか行きませんかー?」
「お兄さんめちゃくちゃかっこいいから、ちょっとお話ししてみたくってぇ」
「約束があるならその人が来るまで! ね? ちょっとだけでいいから」
 彼はわずかにサングラスを下げてくすりと笑う。
「どうして俺? 他にも一人のヤツ、いっぱいいるデショ?」
「あなたに比べたら石ころだもん! ほんとガチでかっこいい!」
 言い切る大声が響き、その幼さに彼は苦笑を浮かべている。
「ねえほんと、お茶だけでいいから! あたしら奢るし! 連絡先教えてくれるだけでも、」
「――お待たせいたしました」
 途端に群がっていた少女たちがぎょっと振り返り、みるみる目を丸くして口を開けた。
「この方たちはどなたのですの? マサキ様」
 ユイコは彼女たちにもにっこり微笑みかける。彼は大仰に肩を竦めた。
「うーん、ナンパかな?」
「左様ですか。では本日の予定は変更になさいます? 新しい約束を優先していただいて結構ですわ」
 承知の上でやり取りしていたなら、はっきり遠ざけなかった時点で失格だ。冷たい微笑みを置き去りにし、ユイコはさっさとビルの視察へ向かう。
「ごめん、奥さん怒らせるとマズいから、バイバイ!」
「妻ではございません!」
 ひっきりなしに人が出入りする入り口でつい足を止めて叫ぶと、その隙にマサキは飛ぶ様に追いついてきて、馴れ馴れしく肩を抱いてきた。
「でも婚約中じゃん?」
「それはわたくしがここにいるための方便、この街での設定ではございませんか」
 ――長期任務に携わるユイコとミン家の将来を考え、マサキとの婚約を認める。
 リリスとしてごく一般的な価値観のミン家の両親が説得に頷いた理由を知ったとき、ユイコは頭を抱え、一時期それを提案したマサキと断行したキヨツグを心底恨んだものだった。
 結婚が遅れれば、跡継ぎを産むことが難しくなる。歳を重ねたユイコとの結婚を望む者もいなくなり、都市と関わったことを知って忌避されるかもしれない。それらを解消するために、マサキと婚約し、任務が終わり次第、夫婦となるように、というのがリリス族長からの命令だった。
 変わり者で、実母という難物を抱えていても、マサキはシェン家に連なる血の持ち主で、北部をまとめるリィ家の現当主だ。いまその力の大半が削がれていても、血統を尊ぶ価値観が根強いリリスで、その交換条件は両親にとって破格のものだっただろう。
 だが冷静になってみると、それが実現する可能性は低いとユイコは思っている。だいたいいつリリスに戻るというのだ。
(婚約は儚い嘘。だというのに、冗談で奥さんだの婚約だの言われる、わたくしの気持ち!)
 それでも心は浮き立つ。本当に夫婦になれたらどんなにいいだろう。
「方便ねえ……お前がそれでいいなら、別にいいケドさ」
 すれ違い様聞こえた呟きに「え?」と顔を上げる。先を行くマサキが笑っている。
「俺、これでも、お前のこと結構好きなんだよな」
 これでもね、と笑う顔は、幼い頃、悪童と呼ばれたときとまってく変わらなくて。
 すっかり反論する気を失って、ユイコは深く長いため息をついた。
「……ああもう、本当に、あなたという方は」
 呆れと懊悩、それらを覆い尽くして余りある愛おしさの溢れる微笑みが浮かぶ。
 恋を連れた、遥かなる旅。
 その道行きがいつか二人になる予感を胸に、彼の隣に立つべくユイコは軽やかな一歩を踏み出す。

 二人を見送った少女たちが「顔面偏差値高過ぎカップル……」と呟いていた。



初出:20091217
初出:20101028/加筆修正:20111217
初出:20110325

改訂版:20220907

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