―― 花 の 戦 と 千 歳 の 朝
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 雪の降る日が一日、また一日と快晴が続く日に変わるのが春の訪れの合図だ。草原の白雪が緩み、泥濘の合間から緑の息吹が広がっていく。北方の山々の雪解け水が大河に注ぎ、草原の民は春支度を終え、家畜の出産に追われて、街の民は衣替えに外出にと忙しい。
 その上今年は、例年以上にリリスの民が心待ちにした春だった。
 ――当代族長の御子の披露目の会。
 リリスに大いなる変革と後世にまで語られるであろう伝説を残したキヨツグと、初めての異種族の花嫁アマーリエ。その御子は奇跡的に愛らしい利発な若君だということはすでの皆の知るところだ。
 幼くして儚くなることも多い幼子がお披露目されるのは、つまり成長の第一段階をひとまず終えたということになる。どうぞこれからもお健やかにお育ちになりますように、と多くのリリスたちが祈り、お披露目の日を楽しみにしていた。
 ごく一部、自らの欲を抱く者たちを除いて。

 王宮にて行われるお披露目会は通例と変わらず三日間の予定だった。
 一日目は御子の誕生を改めて祖先に報告し、健やかな成長を願う賜福の儀と、多数の氏族が集う祝宴を含めた前夜祭。二日目は改めて各氏族から挨拶と祝福を受け、門まで出て民にも御子をお披露目する。三日目は身内だけを招いて、御子の今後をくれぐれも頼むという、なかなかに過密な行事だ。
 各氏族の代表が招かれるよく似た行事に新年祝賀の儀があるが、それと同時にお披露目の会が行われなかったのは、当時性質の悪い風邪が流行っていたからだ。普段参賀するはずの氏族の長や奥方のどちらかが不在だったり、代理人がやってきたりと少し寂しいものだった。
 それだけにお披露目会には体調を万全にした氏族の代表が誰一人として欠けることなく集まることとなっており、本番は二日目とはいえ、一日目から王宮は一足先に春爛漫の華やかさだった。
 もちろん、もてなす側は、もちろんそれを楽しむ余裕はない。
「手配していた花が枯れていた」「滞在していただく庵の窓が開かなくなっている」「担当者の一人が体調不良」「飲み物が一箱見当たらない」など、お披露目会に伴った接待に携わるアマーリエにもたらされる知らせは頭の痛い内容ばかりだった。幸いなことにこうした事態に慣れている宮中の人々は「だからこのように代わりのものを」と言ってくれて心底助かっている。
「コクぅ。こっくん!」
 みぃ、みい、と幼子の呼ぶ声に子猫が答える。
(今日もご機嫌でいてくれてありがたい……)
 もう一つ助かるのは、主役であるコウセツがいつもとは異なる王宮の雰囲気に飲まれることなく、愛猫として迎えた子猫のコクと機嫌よく過ごしていることだ。
 不思議な力を持つ子なので何か感じ取って癇癪を起こしてしまうのではないかと危ぶんでいたが、怖がるというよりはいつもよりテンションが高く、走り回り、大きな声で話し、笑い、周りの人間に捲し立てるように話しかけている。
「お披露目のときにはお休みになってしまっていそうですわね」
 乳母の一人であるリーファが笑う。気付けば電池が切れるように寝入っているコウセツのことを思い出していたアマーリエも、笑って頷いた。
「それはそれでいいんだけれど。あの様子だと着替えに手こずりそうだから……」
 幼くして聞き分けがよすぎるほど賢いコウセツでも、ああもはしゃいでいるとお披露目の正装の着付けのときに動き回るなどして大変なことになりそうな予感がする。大人でも正装するのは大掛かりで時間がかかるものなのだから、幼児が長時間耐えるのは難しいはずだ。
「真様。そろそろお支度の時間ではございませんか?」
 そういうアマーリエも衣装を改めなければならない。いつもより凝った髪型にじゃらじゃらと重い髪飾りや服装を思うと億劫だが、いつまでも我が子と子猫が戯れる癒しの光景を眺めているわけにはいかなかった。
「コウセツ様、お母上に、いってらっしゃいませと言って差し上げてくださいませ」
「たーた! いってあっしゃー!」
 にぱっ、と笑顔になってぶんぶんと手を振る。何なら一緒に足もばたばたしている。
(ああもう可愛い、可愛いよお……!)
 胸を撃ち抜かれて倒れそうになりながら、つやつやと黒髪が輝く頭を撫でた。
「いってきます。終わったら戻ってくるからいい子にしていてね」
 そうして乳母たちにコウセツを任せ、アマーリエは心持ち小走りで支度部屋に向かった。
 会の主役はコウセツなので、アマーリエたちは礼装でも比較的大人しいデザインのものを着ることになっている。
 春を思わせる淡い色合いの花々が咲き誇る打ち掛け。遠目には地味な、同じ色合いの花ばかりのように見えて、浮き彫りのように施された金色の刺繍と、薄絹に縫い付けられた立体の小さな花々という一風変わったものになっていて、身に纏うアマーリエに慎ましさと控えめな華を与えてくれる。
 ゆったりと結った髪の、耳元に大輪の牡丹を模した白い髪飾りを着ける。耳飾りは最も高価な真珠の一粒。左手薬指にはキヨツグからもらった指輪が輝く。化粧を施し、淡い色の紅を唇に乗せて、白足袋に打ち掛けと揃いの草履で、完成だ。
(こうやって綺麗にしてもらうと、多少は『それっぽい』から不思議だなあ……)
 見た目はさほど変わっていないはずなので貫禄が出たということか。ここに来たばかりの頃のように高価すぎる衣装に着られているという雰囲気ではなくなったと思う。
「お美しゅうございますわ、真様」
 支度を手伝ってくれた者たちから笑顔で「真様」と呼ばれるにふさわしい自分になりつつあるのだと信じることにして「ありがとう」と微笑んだ。
 会の開始時刻に向けて順調に準備が進んでいると報告を受けながらコウセツの元へ向かう。
 着替えを行う控え室でもコウセツは変わらず興奮気味で、愛猫の代わりに馬の木彫り人形を握りしめながら「あんね、そんでね」と乳母以外の女官や侍従に一生懸命に話しかけている。そうでございますか、と答える大人たちの顔はいまにもとろけてしまいそうに緩んで、すっかりコウセツに誑し込まれてしまったようだ。
「コウセツ。そろそろお着替えしましょうか」
「たーた! きえいねー!」
 おっと、と思いながら駆けつけてくる我が子を受け止める。
 襟を掴まれて着崩れてしまうとやり直しだから、コウセツの動きに目を配りながら慎重に手を引いた。
「ありがとう。母上も、コウセツが綺麗なところを見てみたいな。頑張ってくれるかな?」
「あい!」
 わかっているのかいないのか、立派な返事に笑い出しそうになりながら、アマーリエは周囲に合図を出した。
 乳母、女官と侍従の精鋭たちによる、コウセツの着替えの始まりだった。
 このときのために乳母は総動員。女官と侍従には子どもあしらいが上手いと評判の者や、子どもに好かれやすい者、あるいはどんなに泣かれて暴れても冷徹であれる者を配置した。ぐずったときのために玩具や飲食物を準備し、時間がかかることを前提に時間を多めに取ってある。
 そうしてしばらく――アマーリエは深くため息をついた。
「この子は、どうしてこうもいい子なんだろう……?」
 私の子なのに、とうっかり漏らしてしまうくらいに、あっという間に終了した着替えだった。
 いつもとまったく違う格好をしながら、普段と変わらず読み聞かせを所望して乳母が語る物語をじっと聞いているコウセツに。急遽集められた女官たちも苦笑いだ。
 何せ「手を挙げて」と言えば挙げるし、「じっとしていてくださいね」と頼めば「ん!」と返事をしてちゃんと動かないでいる。帯を締められて「苦しくないですか?」と聞かれてもよくわからなさそうな顔をしているが、足を上げて「これ、やーなの」と言って成長した足に足袋が小さくて合っていないことを主張する、という、幼児とは思えないほど協力的だったのだ。
 着替え後も、激しく遊ぶのではなく物語を聞くことを選んだので、この子は人生何回目なんだろう……」と思わせる。物心つかない年齢からこうだと、大人になったときどうなってしまうのか、心配で仕方がない。
 そのとき座っていたはずのコウセツが「んしょっ」と重そうにお尻を上げ、ばたばたばたーっと部屋の入り口に向かって走っていった。同時に侍従が姿を現し、幼子の突進に「わっ!?」と声を上げる。だがコウセツは構わずその後ろにいる大きな人影に手を伸ばしながら力いっぱい叫んだ。
「とっと! とっと!」
 大きな手が小さな身体をさらうように抱き上げた。
「……ご機嫌だな。支度はもう終わったのか」
「キヨツグ様」
 きゃあっとはしゃぐコウセツを軽々と片手で抱くキヨツグに、アマーリエ以外の者たちが口を噤んで一斉に叩頭する。
 キヨツグの装いは白地の着物に紺桔梗色の羽織り物を合わせたものだ。同色の糸と銀糸で描き出されているのは雪輪模様と流水。雪解けの春にふさわしい涼やかさがありつつ威厳を損なわない仕立てだ。長い黒髪は横髪を後ろに束ねる、いわゆるハーフアップにしてあり、銀色の髪紐を使っている。
 右の耳には、古い金属の耳飾り。一粒石を嵌め込んだ板を連ねる風変わりなそれは、預かり物であり、リリス族の至宝ともいうべきものであることを知っているのはキヨツグとアマーリエだけだ。
 そのようにいつもと違う格好をすると、凛とした輪郭があらわになっただけでなく、我が子に向ける眼差しもはっきり見えて、アマーリエ以外の者たちからもほうっとため息が漏れる。
「とっと、きえい。きえい!」
 無邪気に「綺麗」とはしゃげるコウセツが、ちょっと、羨ましい。
 詰めていた息を吐き出した途端に頬に熱が上がって胸がどきどきするが、真夫人の威厳を心がけて、努めて穏やかにアマーリエは微笑んだ。
「コウセツ、どんな格好になったのか父上に見せてあげて?」
「あーいっ」
 コウセツが元気よく手を上げる。飛び降りる前にキヨツグが速やかに下ろすと、コウセツは父親に向かって両手を広げて「ん!」と胸を反らした。
 すべて絹で仕立てた白の袴だ。羽織りは同じく白で、光の具合で様々な瑞雲が輝いて見えるようになっている。雲の模様は宙(そら)を尊ぶリリス族らしい。伸びた黒髪はキヨツグと揃えたらしいハーフアップで、小さな結い髪が愛らしかった。
 そう思ったのはアマーリエだけではなかったようだ。キヨツグも口の端に笑みを浮かべている。
「……ああ。よく似合っている」
 アマーリエは「よくできました」とコウセツを抱きしめた。
「いまからたくさんの人がいるところにいるけれど、素敵なコウセツをみんなに見せてあげてね」
「あーい?」
 返事ができるのと理解しているのとは別の話だとわかっていても、コウセツの一挙一動が可愛すぎる。アマーリエは頬を緩ませながら「ちゃんとお返事ができて、いい子」とふわふわした頬を撫でた。そんな母子の光景に、キヨツグが優しい視線を注ぎ、そんな母子と族長の姿を他の者たちがほっこりと見守っているとは気付いていない。
「天様、真様、御子様」
 そのとき儀式を司る神祇官が姿を現した。
「皆様お揃いでございます。どうぞ儀式の間にお越しくださいませ」
 和やかな空気が引き締まる。キヨツグはコウセツを抱き上げ、アマーリエに言った。
「……行くか」
「はい」
 支度を手伝った者たちが仕事を終え、深く頭を下げて族長夫妻とその子を見送る。彼らにありがとうと伝えて、アマーリエはキヨツグの後を追った。

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