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行き先は決めてあるのですかと尋ねられ、東の方へ行くつもりだったと答えると、ユメは東部の街の名を挙げ、地図を広げて道を示した。使い込まれた地図には多数の書き込みがあり、カリヤの知らない彼女の旅路を想像させると同時に、何にしても良い資料になるなと思った。こういうところが嫌われるのだと知りながら、何が悪い、とカリヤはすでに開き直っている。
ユーアンもそうしたカリヤの性格を受け止めていて、ユメとは違って個人の感情に関わらないところが、婚約を許容していた理由だった。ユーアンは良き妻良き母になるだろう、愛情の有無は別として、家庭内外の役割を上手く果たせると思った。
ユメのことは考えないようにしていた。
この幼馴染みは、扱いやすく思えて最も思い通りにならない難敵だった。子どもの頃からずっと、敵わない、と思っていた。
ユメには敵わない。本気でやり合えば必ず負かされる。
――嫌いだと言われたら、絶対に覆せない。
彼女の周りにはいつも「気持ちのいい」「誠実な」男たちがいた。勤勉で心優しい性格のユメを妻に迎えたい、と素直に告げられるような者たちだ。それらとは真逆を行くカリヤに、何故ユメが親しく接するのか。お前のようなやつがどうして、と詰られた過去は、ユメには一生秘密だ。その男どもに対する報復も含めて。
報復しないという選択肢がなかったことからも、カリヤには昔から自覚があった――ユメのことを好きなのだ、という。
武術の稽古のときも、書庫に籠っていても、いつの間にか近くにいて寄り添っている、けれど馴れ合わず、互いの心地よい距離で相手を感じる。そんな存在に出会うことは稀有だと知っていた。自分が気難しい性格だと知るのと同じく。
「……何を考えているんですか?」
その日は遊牧の氏族が集まる集落に宿を求め、旅人を歓迎した彼らにもてなしを受けていた。シャドでは高値で取引される自家製の乾酪や酒を味わい、その礼として、胡弓の二重奏を披露した。合奏なんて、気が向いたときくらいにしかしない。不得手ではないが、宴席でもあの手この手で逃げていた。その宴席が終わり、カリヤは部屋には戻らず、なんとなく門前に座ってぼうっとしていた。
そこに現れたユメは、酒のせいで顔を赤くしている。出された蒸留酒は相当きつかったので、酔いがまだ残っているのだろう。
柔らかな果実のような頬から目を背け、答えた。
「シャドの状況がどう変わったか、と。フェオ家とイン家はそろそろ謝罪行脚を始める頃でしょうかね。ユーアンとの婚約が正式に破棄になるのはもう少しかかるか」
ユメは黙ってカリヤの隣に寄り添った。
「駆け落ちなどせずとも……あなたならもう少し穏便な方法を取れたと思うのですが」
「そういつもいつも考えていられません。それにこういうものは、考えなしの方が上手く収まるものですよ」
「投げやりに聞こえるのは気のせいではありませんよね?」
そう言いながらもユメは笑った。くすくすという声はカリヤの耳を妙にくすぐって、つい襟足を擦ってしまう。
どうもやりにくい。手応えがなさすぎて、次の手を考えるのが遅れる。
でもそれが妙に心地いい。思考を巡らせず、誰が敵味方なのか判じる必要がない時間に、癒されていると感じている。その最たるのは合奏のときだった。ユメと合わせるのは子どものとき以来だというのに、最初からそうであるかのようにぴったりと音が合わさって、心の底から安堵したのだ。
「……合奏、楽しかったですね」
呟いたユメが、カリヤの視線を受けて微笑む。
「管弦の宴に出るには力量不足に過ぎますがね」
辛口をユメが笑ったその隙をついて。
掠めるように唇を合わせたカリヤは「続きはどうしますか」と尋ね、不意打ちに顔をしかめつつもユメが呟いた答えを聞き取って、会心の笑みを浮かべたのだった。
カリヤと二人旅をすることになるとは、人生何が起こるかわからないものだ。
軍属時代の演習で慣れているからなのか、それとも生来のものなのか、カリヤはユメが思っていた以上に旅慣れていた。というより、知識としてあって、ユメがすることを見て覚えて、それをすぐに実行できるのだろう。野宿での火の始末、見張り、旅人との物資のやりとり、街での買い出しなど、すべきことがわかっていて確実にやってくれるのは、一人旅が長かったのでずいぶん楽だと感じた。
旅は楽しかった。どこかへ冒険に出るような高揚感と、逃亡という後ろめたさが合わさって、柄にもなくはしゃいでいたように思う。カリヤはいつものように取り澄ました顔だったが、嫌味を言うことはなかったので、彼もまたそうであったのだろう。
東へ。東へ、東へ。草原を行き、集落や街を通り、遊牧の氏族とすれ違い、進む。
ずっと昔、二人で笹舟を作り、水路に流してその行く先を追っていったその続きを、いま辿っているような気がした。
(いつまでも子どもではいられない。けれど、すぐに大人になる必要もない)
信じていたいことを信じていればいい。いつしか現実を知り、幼い夢が瓦解するときが来たなら、それを受け入れればいいのだ。きっとそのとき、壊れたものの向こうに、重ねた時間が作り出した新たな夢が生まれているはずだから。
少なくとも、いまは隣にカリヤがいる。
遥かな丘の上から、ユメとカリヤは暗色の東の海を眺めていた。危険区域に指定されているゆえに、ここが東の果てだった。
「帰りましょうか」
「そうですね」
そうして来た道を引き返した。
風が吹いて髪を巻き上げる。戻ったら今度こそ、髪を切ろうと思った。
シャドを出て、ちょうどふた月経っていた。
・
「シン家のユーアンと、ルー家のファン。フェオ家のカリヤと、イン家のユメ」
確認するように告げるキヨツグの声は、春の日であっても冬のように冷ややかだ。
「この組み合わせで婚姻が成立したか。そしてそれも、カリヤがイン家に婿入りする」
冬は過ぎ、雪は溶け、春にその名残が消えていく頃、ユメとカリヤはシャドに戻ってきた。それからの日々は慌ただしく過ぎた。各方面への謝罪、仕事を放棄したがゆえの処罰を受け、両親の嘆きを聞いて、二人がようやく顔を合わせたのはカリヤが正式に求婚にやってきた日だった。
結納が終えるのを待っていたかのように、ユメはキヨツグに呼び出された。先だっての非礼や周囲を騒がせたことを詫び、カリヤと婚約したことを報告したのが、つい先刻のこと。
キヨツグは、確かにカリヤの人となりを知っているのだろう。結婚に際した彼の選択を、非常に興味深く感じているようだった。
それでもユメは、ただひたすらに陳謝した。
「皆様をお騒がせしたこと、誠に申し訳ございませんでした」
その台詞を最も聞かされたのはユーアンだろう。詫びに参上したユメに「今度はお早いお帰りでしたのね」と微笑んだ彼女を思い出す。
「夫婦として上手くやっていけると思えるなら、誰と結婚してもいいと思っていたんです。最も身近な相手がカリヤ様だっただけ。そういう結婚をするものだと思って、ここまで生きてきたからです。ユメ様のようには、決してなれません」
たおやかな指。細い腰。華奢な肩に紗をまとう姿は、それこそユメには決して手に入れられない姿だ。
年齢に応じた理解と妥協と諦めを、彼女は誰よりも早く知っていたのだと思う。ユメが自分を見つけられずにもがいていた頃には、すでに。
「なんだかこうなるような気がしていましたから、それ以上の謝罪は必要ありません。それよりも、わたくし、先日婚約いたしましたの。祝福してくださらないかしら?」
すでにファン・ルーから贈られた指輪を身につけていたユーアンに、ユメは深く頭を下げて「おめでとうございます」と述べることしかできなかった。
謝罪の言葉を一通り聞いた後は、どうやって詫びるか行動で見せてほしい、と思うのは自然なことだろう。ユーアンや、そしてキヨツグだけではない。大勢の人間がユメとカリヤのこれからの言動に注目している。気を引き締めなければならない。
深く項垂れるユメを、キヨツグは特に気にした様子もない。景色の一部として見ているかのようだ。
「敵に回らねばそれで良い」
それがキヨツグの答えだった。
「だが、意外ではあった。お前たちには、手に手を取り合うほどの思いがあったのか」
そうなのだろうか、と当事者にも関わらずユメは考え込んだ。だが、端から見ればそう感じられるのかもしれない。深く考えないままの衝動的な行動を取るに足る感情はあったのだろう。少なくとも、この形に収まって嬉しかったし、幸せだと思っている。カリヤもきっとそうだろう、絶対に顔にも口にも出さないけれど。
「カリヤは鎮まるか」
核心をつくようにキヨツグが言い、ユメは目を伏せた。
「いいえ」
キヨツグに促され、口を開く。
「此度の件に収拾をつけることはするでしょう。ですが彼自身の考えは変わりませぬ。そしてわたくしはそれを変えようとは思っておりません。彼もまた、そのように考えているかと存じます。夫婦となっても、同じ道を行かぬ、これはわたくしたちの形でございますゆえ」
イン家とフェオ家は中立。結婚したユメとカリヤは互いに支持派と不支持派に属し、どちらにも傾かない、という宣言だ。
キヨツグはかすかに目を細めた。
「お前たちの関係は少々風変わりに思える。が、それもよかろう」
認める、と言外に告げられ、ユメはやっと肩の力を抜いた。
少なくともユメがいることで、カリヤは完全にキヨツグの敵には回らない。それを示すためにカリヤはイン家に婿に入る。こうすることで、カリヤが反対勢力として過剰な攻撃を受けずに済むだろう。その分、逆の立場にいるユメは苦しいが、これは今後の情勢次第で不支持派を助ける、あるいは追撃するための駒として動くことができる。そのようにして、キヨツグはユメやカリヤ、その他結婚を斡旋したという者たちに役割を見ているはずだった。
ふと、思い出した。
罪を犯した恋人を、周囲の反感を買うほど厳格に処罰したキヨツグ。
この人の望む夫婦の関係とは、いったいどんなものなのだろう。果たしてそれに適う女性は現れるのだろうか。
「あなた様にも」
つい口をついたそれを、いまさら引くこともできず、キヨツグの眼差しを受けながら、ユメは粛々と頭を下げた。
「……相応しき方がきっと現れまする。いつか、必ず」
キヨツグは表情のないまま一度瞬きをして、その願いが成就するなどとは一欠片も考えていないようだった。
*
それからキヨツグは順当に族長に就任して、リリスは一時的に穏やかさを取り戻した。
ユメとカリヤは結婚し、数年後、娘を設けた。ナナミと名付けたその子は、両親のどちらにも似ず、好奇心旺盛で活発な性格のようだったが、カリヤが熱心に可愛がるので父親っ子になりつつある。
緩やかに時は流れ、やがてキヨツグも伴侶を迎えたが、まさかそれがヒト族の女性になるとは思いもしなかったし、彼が願いすらかけなかった「相応しい」女性であったことも予想外だった。
そして、カリヤの予測は、ほとんど的を射ていた。キヨツグは確かに、アマーリエのためならばリリスを諸共滅ぼしてしまえると、ユメはここに至って確信を得た。だが、思いがけずカリヤはそれについて何も言わなかった。
そのことをずっと不思議に思っていたが、リリスにアマーリエが戻ってしばらくしたある夜、就寝前の団欒の際、率直に尋ねてみた。
「あなたはいまも天様は族長にふさわしくないと考えているのですか?」
「もちろんです」
カリヤはふんと息を吐いた。
「――けれどまあ、私も大人になったので、馬鹿は馬鹿で使い方があると知っていますから」
「またそんな不敬なことを……聞きましたよ、天様付きの秘書官になる話が出ていること」
「ええ、側付きだったオウギ・タカサが消えたので私にお鉢が回ってきました。迷惑なことです」
オウギの名を聞いても、ユメの心はもう騒がない。カリヤと旅に出たときに、彼を目指すという夢はすっかり遠いものになっていた。いまユメは真夫人付きの護衛官だ。ただの護衛とは違い、女性ならではの細々した事柄に気を配るのは、自分にしかできないことだという実感があって、面白い仕事をしていると思う。
「では、いましばらくは、お互いにゆっくりできそうもありませんね」
「それでも休暇は死守します。家族と過ごすと決めているので」
ふふ、とユメが声をこぼすと、カリヤはじろりとこちらを睨め付け、つんと顔を背けた。
家族と――ナナミとユメと過ごす、と固く心に決めている、その可愛げが愛おしい。
「できれば夫婦の時間も作りたいものですね?」
顔を覗き込むと、カリヤは苛立ったように眉を寄せ「じゃあ努力してください」と言って、またユメを笑わせた。
きっとカリヤは秘書官の話を受けるだろう。
彼は彼なりに、リリスという国を愛しているからだ。キヨツグが族長にふさわしくないと言うのも、不支持派に回ることも、すべてそこに起因していると、いまはユメも知っている。
子どもの頃、笹舟を流した。追いかけた舟は、どこかに引っかかるか、転覆するか、見失うかで、海どころか川にたどり着くこともできなかった。
いま自分たちは大きな流れに、それぞれの舟に乗って進んでいる。どこまで行けるか、その向こうに何があるのか、まったくわからない。けれど願わくは、光溢れる場所であることを祈る。必要であればこの手で切り開こう。我が子や、これから生まれてくる者たちのために。
並び立ち進み、二人で見定めよう。
私たちの、この国の、行くさきを。
初出:101214
改訂版:200920
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