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まさか本当に来るとは思わなかった。
雪塊がそこここに残るシャド近くの草原に、カリヤは杖をついて、一人で現れた。文を使って呼び出したはずのユメは、何を考えているのだろう、と自らを棚に上げて思った。
(これが、ユーアン様の言うように、私の言うことを無視しないということなのだろうか……)
「馬鹿ですか」
ユメを前にした第一声は、渋面とともに放たれた。
有事には重装備だが、平時は軽装でいることの多いユメなので、多少の寒さにはびくともしない。だが文官となったカリヤは以前と比べて筋力を失っているので、冬の風はずいぶん堪えるようだ。ユメと相対すると着膨れして影が丸い。
「馬鹿はお互い様でしょう」
「ええそうですね。用件はなんですか? 手早く済ませてしまいましょう。誰かにこんなところを見られると困るでしょうからね」
「そういう言い方しかできない人だとは知っていましたが、改めて聞くと、あなたは相当に不器用ですね、カリヤ」
苦笑するユメにカリヤは目つきを険しくした。
「何を笑っているんです」
「私の立場を慮ってそう言うんでしょう。あなたと近しくすることで、私やイン家の立場が揺らぐことを懸念している。そうやってあなたは遠回しに私を守ろうとする」
風が立つ。雪の欠片がひらりと舞った。けれど、降り始めには至らず、二人の間に白いきらめきを残して、消える。
口火を切ったのはユメだ。
「キヨツグ公子の族長就任に反対するのはどうしてですか」
「知ってどうするんです」
「知りたいから聞いているのです。あなたの考えを聞きたい。でなければ私は、あなたから離れるかどうかすら決められない」
剣を手にしたときのように、カリヤを見据える。
「あなたの思う通りには動きません。動かしたいのなら、説得してごらんなさい」
「…………」
カリヤは、頭痛がする、という仕草をした。真っ向から勝負を挑んだユメを退かせるには相当な労力が必要で、搦め手を使えば使うほど、しつこく絡んで勝負が長引く、という過去を思い出しているのだ。
「私は、リリスが滅ぶ様を見たくない」
勝負を受けた、カリヤが答えた。
「キヨツグ公子は完璧すぎる。命山の守護、純血、如才ない言動。いま彼に足りないのは人間性、人を人たらしめる感情です。それを得たとき、あの方は持てるすべてを尽くして、感情を向けた対象を守ろうとするでしょう。族長になれば、彼はリリスを道連れにできる。私はそれを危ぶんでいる」
情に突き動かされて情に溺れる。
あの方がそんな、まさか、と笑おうとして、カリヤの真剣な表情に、言葉を飲み込んだ。
カリヤの懸念は、わかった。いつか起こるかもしれない暴走のために手綱をつけたい、と考えていることも。そしてできるなら、命山が抱える秘密を開示して、その影響力を弱め、キヨツグの力を削ぎたいと思っているのだ。リリスを守るために。
「カリヤ」と一歩踏み出すと、彼は手を前に押し出し、ユメを制した。
「知りたいというから話したまでです。あなたの助けは必要ありません。余計なことはしないでください」
これだから言いたくなかったとばかりにため息をつかれ、ユメはつい苛立ってしまった。
「余計なこととはなんです。カリヤ、あなたはいつも本当のことを話さなさすぎる。それでは味方もついてこられない。本来の望みを知る者がおらず、あなたは一人になる」
「望むところです。私の道行きについてこられるとは思えませんから」
「――ユーアン様は連れて行くくせに」
苛立ちが極まり、言わなくていいことが口をついた。互いにはっとし、ユメは失態に唇を噛んだが、カリヤの感情が乱れたのを見て取って、それを口撃に転じた。
「ユーアン様はついてこられると思ったんですね。そして私はそうではないと」
「邪推は止めなさい」
「シン家から結婚の話が出ていることは聞いています。公子様が許しを出したそうですね」
カリヤは「ちっ」と舌打ちした。「あの男の言動がここで祟るか」と憎々しげに呟いている。
「このまま順当に言えばユーアン様と結婚するのでしょう。おめでとうございます」
「心にもないことを」
怒りとともに吐き捨てたカリヤは、自らに言い聞かせるのように額を押さえ、息を吐いた。
「――結婚はしません。一生独り身でいます。私の道行きに誰かを巻き込むつもりはない。公子の許しはシン家が先走った結果です。私は断りの返事をしました。両親はどうにも諦めきれない様子で保留だと告げたようですがね」
目を閉じる。
離れるかどうか――話を聞いて決めようと思った。だがカリヤははっきりと、ユーアンも、ユメも、誰も必要ない、望まないと言い切った。揺るぎなく、強く気高い。そして、たまらなく寂しい人だ。
(カリヤは、リリスを滅ぼしたくない、守ろうと考えて、いまの立場を選んだ。立場が危うくなるのを承知で、たった一人、誰に何を言われてもその目的を達するべく、動いている)
「だからあなたのそれは邪推で、祝福の言葉が持つ皮肉は通用しませんよ。残念でしたね」
カリヤは嬉しそうに顔を歪めた。
ユメは、そっと息を吐いた。歪な笑みで互いを守ろうとするカリヤの心を、少しでも温めたいという願いを込めて。
「カリヤ」
『あなたは何をしたいんですか?』
投げかけられた問いには続きがある。
私はずっとオウギのようになりたかった。強靭で揺るぎなく強く気高い人間になりたかった。そう答えた後。
『なら、それを目指し続けなさい』
――誰かの言葉くらいで揺らぐような思いではありませんよね?
表と裏に意味を持つそれが、旅立つユメに贈られた激励の言葉だった。
(強くなりたかった)
何故なら、それは――そうすればカリヤの隣にいられると思ったからだった。
自らを守り、守られる必要がなければ彼の傍らにいられる。幼馴染みという関係がいつしか変化を迎えたとしても、しっかりと受け止めて前に進めるはずだと思って。
このことに気付いたのは、旅の最中、うっかり滑落して死にかけたときだ。足と肋骨を折って動けないでいる間、ずっと考えていたのはカリヤのことだった。カリヤのあの嫌味と、自分勝手な気ままさと頑固さを思い返し、ひどく腹を立てながら「帰ったら恨み言を言ってやらねば」と思っていた。
あなたのせいで私は死にかけたんです、あなたがけしかけるような真似をしなければ私はあなたの近くでこの思いに気付いたはずだったでしょうに!
シャドに戻ってきたとき、そう詰った後に思いを告げるつもりだった。
カリヤがユメをユーアンと間違うことさえなければ、ここまでこじれることはなかっただろう。それをいま後悔している。どちらにしてもカリヤはユメを突っぱねただろうが、少なくともこうして互いに寒々しい思いをしなくて済んだはずだ。
風が吹く。
凍える風に痛めつけられながらも、ユメの内側で生まれた熱が、みるみる温度を上げ、心を奮い立たせる。
(あなたが己が願いを目指し続けるというのなら)
熱い想いが言葉を形作る。
「カリヤ。――私と結婚してくれませんか?」
それまで厚く流れていた黒雲が、不意に千切れ、青空が覗き、真昼の黄金の光が降り注いだ。冬に褪せた草原と白い雪という単調の世界が、途端に眩く輝き出す。
だというのにカリヤの顔は、これ以上なく珍妙なものを目の前にして、奇想天外なもの味わったかのような、怒りと困惑と苦々しさと混乱と、とありとあらゆる負の感情をごた混ぜにした中に「理解できない」という覆いをかけた、凄まじいものになっていた。
「……馬鹿ですか?」
「馬鹿でしょうね。ここまで言われても、私はあなたのことが好きなようなので」
対して、ユメは晴れやかだった。清々しく言い切った。
「カリヤ・フェオ。私はあなたのことが好きです」
カリヤは顔を覆って、悪い夢でも見ているかのように呻いた。その耳は、はっきりと赤くなっている。搦め手を得意とするカリヤが最も苦手とするのは、ユメの真っ向からの攻撃なのだと、ここに至って正しく証明されたのだ。
「どうしてそう、恥ずかしげもなく……」
「本当のことなので仕方がありません。好きですよ、カリヤ」
「うるさい。少し口を閉じていなさい。そうすればいかに自分がおかしなことを口走っているかわかるでしょう」
カリヤの雑言をユメは明るく笑い飛ばした。
「観念してください、カリヤ。その道行きに、私を連れて行かなくてもいい。私は勝手にあなたの隣を歩んでいますから」
その言葉が決定打だった、と本人は決して言わないだろうが、ユメはずっとそう思っている。
何を言っても無駄だと悟ったカリヤが苦渋の果てに「保留にしてください」と言ってその日が終わろうとした、夜更け過ぎ。
ようやく旅の終わりを実感したユメが寝床に入ろうとすると、外にひそやかな気配を感じた。不審者か、だが主人から使用人まで手練れで揃えているイン家に忍び込んでくるとは相当な恐れ知らずか愚か者か、などとと訝しく思いながら、羽織ものを肩にかけ、愛剣を手に外に出る。
凍るような星空の下、聞き覚えのあるため息がした。
「無用心にもほどがある」
「カリヤ……?」
日中やりあった彼が立っている。なるほど、門番や警備はカリヤと知って見逃したのだろう。でなければこんなところにまで外部の者が入ってこられるはずがない。
だがそれにしてもその格好はどうしたことか。外套を着込み、帯剣しているなんて、まるでどこかに旅に出るかのようだ。
「聞きたいことがあります。ユメ、あなたは私を憎んでいますか?」
状況にそぐわぬ殺伐とした問いだが、ユメは怯むことなくくすりとこぼした。
「昔は、多少なりとも。いまはまったく」
カリヤから目に見えて力が抜けていった。
それがそんなに大事なのかと思ったのだが、そうだったのだろう。ふと、気付いた。
「……もしかして、好かれている自信がなかったのですか?」
「私みたいなのを好く方がおかしいでしょう。家柄や能力はともかく、個人としては」
そう答えてから「うるさい人ですね」とユメを睨んでくる。ユメは笑った。雪よりも軽い、花びらのような笑い声になった。
「ちょっと静かにしてくれませんか。頼みごともできやしない」
「ああ、すみません。頼みごとですか、私に?」
珍しいなと思っていると、突然、腕を掴んで引き寄せられた。直感的に抵抗して踏みとどまると、苛立った顔をしたカリヤが、自ら近付いてきて、ユメの身体に腕を回す。
抱き締められている。
「お願いがあります。ユメ。三ヶ月、いえ、ひと月でいい。逃げてください、私と一緒に」
当時リリス王宮における最大の珍事とされた駆け落ち事件がこうして幕を開けたのだった。
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