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 伸ばされた腕がするりと奥の椅子を引き寄せ、反射的に身を引いたアマーリエの隣に、長身の男性が滑り込む。束ねられた長い黒髪が目を惹いた、その直後、爽やかでいて官能的な草木の香りが漂う。一目見ただけで、身にまとっているスーツが知る人ぞ知る高級なオーダーメイドだとわかった。
「キ……っ! ……ヨツグ様……」
 叫びかけた声を落とし、アマーリエは身を縮こまらせた。
 それまでの気配のなさと、いまそこにいる存在感に、オリガは言葉を失った。アマーリエのことがあってから、しばらく必死にメディアを追っていたために見覚えがあって当然だが、本物はこれほどの迫力なのか。
 美貌のその人は確かに、異種族リリスの族長だった。
 アマーリエを追い詰め、宙に浮く手を絡めた彼は、こちらに視線を転じてオリガたちを順に縛った。ヒト族ではない変わった形の瞳は、しかし、思っていたより温かい。
「初めまして」
「はっ、……じめまして……」
 話しかけられるなんて、声も裏返ろうものだ。リリス族を初めて目にしたのもあるし、何より彼はとんでもなく美しい顔形の持ち主だった。服装こそフォーマルなスーツだが、隠しきれない威圧感と堂々とした立ち居振る舞いが、彼をただ人と思わせない。先ほどから、フロアのテーブル席の客がこちらをちらちらと伺っているのが視界の端に見える。視線を逸らす、そんなささいな抵抗を、低く魅力的な声が引き戻す。
「妻から話は伺っています。彼女と友人でいてくれて、ありがとう」
 淡い微笑みを向けられた瞬間、勝手に心臓が跳ね、かーっと頬に熱が昇った。横目で見たキャロルやリュナも熱くなった頬を隠すように、手を添えたり、扇いだりしている。
 しかしただ一人、ぎゅうっと顔をしかめたミリアが、がたんと音高く席を立った。
 粗雑な仕草でアマーリエの正面の席に腰を下ろし、テーブルの上でぶるぶると拳を震わせる。どうしたの、と声をかけようとした瞬間。
「アマーリエにべたべた触らないでっ!」
(……はい?)
 ぽかんとした沈黙が漂った。
 オリガは隣席の二人を見る。べたべたも何も、彼女たちは夫婦なので、目を三角にしたミリアに怒られる謂れはない。
 いやその前に、異種族の権力者に喧嘩を売る度胸がすごい。
「あ、あのね、ミリア……、っ!?」
 なんとか取り成そうとアマーリエが口を開いた途端、絡んでいた手が不意にテーブルに載せられ、離れた。
 かと思ったら、大きく骨ばった手が、アマーリエの手首からなぞるように指までを辿り、遊ぶように指先を弄ると、焦らすみたいに絡まった。思わず赤面したのはオリガだけではない。睦言よりも官能的なそれを、真昼間のカフェの一角で見せられて、平静でいられるわけがない。
 アマーリエは、可哀想に、何も言えなくなっている。
 ミリアは当然、破裂直前の爆弾のように頬を膨らませ、小刻みに震えた後、甲高く吠えた。
「は、は、は、破廉恥な真似、しないでよ!」
 ここはミリアが偉かった。ちゃんと言葉を選んだ。オリガはぶっちゃけ「えっろ……」と思ったのに。
 対する族長様は、表情が変わらない。ただ一人平然としている。それがさらにミリアの怒りに火をつけた。
「隣にいて当たり前みたいな顔して! 大事なときにアマーリエを一人ぼっちにしてたくせに。あなたのことを思って、毎日心の中で泣いていて、あたしがどんなに頑張っても、前みたいに笑ってくれなくて……っ」
 詰るミリアの目に、みるみる涙の雫が浮かんでくる。
「今度こそちゃんとお別れを言って、ごめんなさいとありがとうと、大好きだよって伝えようと思ってたのに、また何にも言わずに行っちゃって」
「ミリア……」
 感情が高ぶったミリアは、ついに決壊し、人目もはばからず大粒の涙を零す。マスカラが取れ、ファンデーションを塗った頬に白い跡が残る。けれどアマーリエはそれを、とても尊いもののように見つめている。
 幼稚すぎる泣き顔を晒していたミリアは、伸ばされたアマーリエの手に頭を撫でられ、わあん、と泣き声を上げた。
「ごめんねえ、ごめんね、アマーリエ……あた、あたし、助けようとしたのに、助けられなかった……!」
「いいんだよ。助けようしてくれただけでいいの。だからそんなに泣かないで」
 ぐすっと鼻をすする音が聞こえて、見れば、リュナが赤くなった鼻を手で隠すようにしていた。キャロルは取り出したハンカチで目元を拭っている。それを見て、急にオリガは鼻の奥がつんとするのを感じた。オリガたちが言えなかったこと、出せなかった感情を、恥じらいもなく表に出す。これだからミリアには敵わない。
「辛い思いをさせて、ごめんなさい。助けようとしてくれて、本当に嬉しかった。それを最初に伝えるべきだった」
 アマーリエはオリガたちを見回し、自らも泣きそうな顔をする。
「私と友達でいてくれて、本当にありがとう」
 オリガは首を振った。キャロルは目を赤くして微笑んだ。
「こちらこそ、まだ友達だと思ってくれて嬉しいわ。ありがとう、アマーリエ」
「本当、何してるのかしらね私たち。これじゃあ本当に、大学帰りの寄り道みたいだわ」
 ちょっとすれ違って、感情を高ぶらせて、涙目になって、友情に感謝して。安い青春映画のようで、笑えてしまう。
 お互いに照れくさくて、くすくすと笑い合う娘たちを、族長が温かな言葉でまとめた。
「……良い友人たちだ」
「はい」と生真面目に、しかし幸せそうに頷いたアマーリエの姿は、きっとこの夫婦の普段の姿だったのだと思う。
「……名残惜しかろうが、そろそろ時間だ」
「はい。予定が押していましたものね。すみません、思いの外、検査に時間がかかってしまって」
「……謝る必要はない。ところで、その食べ物をもらっても良いか」
 どうぞ、とアマーリエは自然にケーキの皿を持つ、そこまではいいのだけれど、さらにフォークで小さく切ったものを彼の口元に差し出したので、オリガは絶句した。対する族長も、まるでこれが普段の姿であるかのように、ケーキを食べている。
「……軽いな。雲を食べているようだ」
「保存の効かないお菓子ならではかもしれませんね」
 甘い、と呟く彼だが、それなりに口には合ったようだ。カフェの料理人たちに代わって胸を撫で下ろしたオリガたちだった。
 食べ物と飲み物をきちんと食べて終えて、それじゃあ、とアマーリエたちが席を立つ。
「じゃあね」
「ばいばい、アマーリエ」
「ばいばーい」
「またね!」
 アマーリエはいい顔で笑った。
「うん。またね」
 先を行く彼の手を取って、アマーリエは去って行く。
 背筋を伸ばし、何かに選ばれたように光の中に出て行く二人は、溶け込むには風変わりすぎて、けれど寄り添う姿はありふれた恋人たちのようだった。彼らの降る苦難と戦いの数々をすべて知ってはいないけれど、これだけは言える。
 あの夫婦(ふたり)はいまとても幸福なのだ、ということ。
 私たちが感じ、求める幸せと同じものを望んでいるということ。
 まっさらな夢のようなケーキを口に運び、にっこり笑ったリュナが幸せな感想を述べた。
「なんか……いい夫婦って感じだね」
「バカップルの間違いじゃないの?」
 間髪入れずに言うと、キャロルが「しー」と指を立てる。ミリアは化粧の崩れた、道化じみた顔で、楽しそうにけらけらと笑った。
 どこか夢見心地のまま、食事を終えて会計に向かうと、レジに立っていた店員が笑って首を振る。
「会計は隣席の方からいただいております。ありがとうございました、またのお越しをお待ちしております」
 顔を見合わせたオリガたちの笑い声が弾けたのは、言うまでもない。



101122 いい夫婦の日
101128 加筆修正
200921 改訂版

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