<< |
■ |
>>
キヨツグの執務室に出向いたリオンは、勧められた椅子を断り、単刀直入に告げた。
「先日の話。受けましょう」
薄い雲が太陽を横切り、強い風がびゅうっと吹き抜ける。
都市の娘、真夫人アマーリエを巡る騒動が一応の決着を見たと同時に、リリス族は内外に様々な変化を抱えていた。現族長の御子の乳母役の選定という小さなものから、都市の外交官だったという人物の、族長とその妻の命を狙った罪の裁き、ハルイ・トン長老以下数名が都市との折衝役として出向し、都市と異種族を繋ぐ機関を作る計画という大掛かりなものまで。そして、叔母であるリィ家のシズカが起こした事件と、それを止めきれず、その罪を軽くするために現在キヨツグの命令でいずこか(・・・・)で任を果たしているマサキ、この両名の最終的な処分についても。
観察するようなキヨツグの視線に、リオンは堂々と笑ってみせる。
「北領に参りましょう。リィ家の次代が定まるまで、暫定領主を勤めます。モルグ族を牽制するには、確かに私が適任です」
シズカが巫女の長であるライカの命令で巡礼の旅に出ていて、マサキがキヨツグの仕事を果たしている状況で、リィ家の主人は不在だと言える。実母がどうにかなるまで、当主として表立つことを控えたい、というマサキの申し出もあり、かの家が治める北の地に、仮の統治者を置くことになった。
そこでリオンに白羽の矢が立った。
長期にわたって北部戦線にいたリオンは、雪深い土地のことも、そこに暮らす者たちのこともよく知っている。
三種族同盟が成りはしたものの、長く戦っていたモルグ族への印象は、未だ悪い。その点、リオンとのその配下はましな方だ。
適材適所。キヨツグの差配は、腹が立つことにおおむね正しい。それに救われたことのあるリオンは、今回もまあ妥当なところだ、と納得したのだった。
だというのに。
「本当にいいのか」
などと、言い出すものだから、鼻で笑ってしまった。
「何をいまさら。打診したのはあなたでしょうに」
いままでなら「そうか」の一言で次の段階に勧めたものを、何故そのように言うのか。理由は一つしかない。
(この男にも情が芽生えるとは。あなたは本当に偉大だよ、アマーリエ)
年下の義姉を内心で称えながら、彼女の夫に皮肉を言う。
「口にせねばわかりませんか。ならば言いましょう――北部の暫定領主、ならびにモルグ族の若長との結婚、お受けします」
むせかえるような緑の香りと強い日差しで、世界が鮮やかに彩られていた盛夏。このようにして現族長の義妹リオン・シェンの政略結婚が、決まった。
リリス族とヒト族に敵対していたモルグ族は、同盟に伴い、さらに強い繋がりを求めることにしたらしい。その相手にリリス族を選んだのは、以前のことがあるからだ。裏切る可能性が最も高いのがヒト族。手を組むならリリス族で、力を合わせてヒト族に対抗しようという腹積もりだろう。それに関しては同意する。ヒト族はどうも、まとまりが悪い。複数人が代表者であるのも理由だろうが、裏で何を考えているかわからない者が紛れ込んでいる印象だ。
ともかく、政略結婚の打診が来た。先方の要求は、族長家に連なる者と娶せたいというものだった。候補に上がったのは、花婿としてマサキ・リィ、花嫁としてリオンだ。
マサキは、現在の任務、ならびにシズカの異種族嫌悪がどのように作用するかわからない、という点で候補から除かれ、リオンが優勢となった。
しかし、北部戦線においてリオンはモルグ族と戦い、死傷者を出している、いわば仇でもある。モルグ族側の感情は如何程のものか、という懸念は、候補の打診後、解消された。「是非ともリオン・シェンを花嫁に」と、歓迎の言葉を伴った了承が返ってきたのだ。
実際のほどはわからないが、と思いながらも、リオンにはある予感があった。もしその予感が正しければ、モルグ族との政略結婚はそう悪いものではない、と思う。
リオンと相手側の意向で、結婚式は北領で行われる予定だ。成婚に際してその地にある離宮がリオンの住まいとして与えられる。結婚後は、離宮とモルグ族の領域にある結婚相手の住居を行き来することになるだろう。別居、かつ通い婚の要素もある関係だが、それでいいと言う先方はずいぶん変わっていると、自分を棚に上げて、リオンは思った。
輿入れは雪解けを待たなければならない。ずいぶん先の話なので、リオンはしばらく好きにしようと決めた。式に際しての希望は特にないし、側付きの者たちが目の色を変える婚礼衣装も、似合えばそれで良いと考えている。服飾に関しては普段から任せている者がいるので、その呼び出しに応じて着せ替え人形になるなど、最低限のことをしていれば問題ない。後は式の打ち合わせ、今後の生活についての話し合い、これから担う仕事の把握と北領に関する事項に目を通す。存外忙しいが、嫌ではない。
さて、そんなリオンの近頃の楽しみは、可愛い可愛い甥っ子を構うことである。
生後半年を過ぎたコウセツは、すっかり女官たちを魅了している。女児と見まごう愛らしい顔立ちに、愛嬌のある仕草、懸命に何かを伝えようとする喃語、そして何より、あらゆることが嬉しいかのような満面の笑み。赤子というものにも小さな生き物に特に興味がないリオンだが、コウセツは特別だ。一人の人間が完成されていく様を観察するのが、実に面白い。
次の日の昼、普段彼が過ごす子ども部屋に行くと、今日も乳母と女官たちに囲まれて、にこにこと笑顔を振り撒いていた。早々と這いずり移動が上達したので、放っておくとどこへでも突進するために目が離せない。運動能力が高いようで、掴まり立ちも始め、やがて立って歩くだろうと思われた。
「あおうっ」
女官の案内を受けたリオンが姿を見せると、コウセツは目をきらきらさせながら手足を使って突き進んできた。ひょいっと抱え上げて、リオンは笑った。
「日に日に重くなるなあ、コウセツ。いつまで抱かせてくれるのやら」
きゃっきゃと笑うコウセツを軽く振り回して(もちろん、赤子の身体に配慮して)遊び、座った後は玩具遊びをする。
今日のコウセツのお気に入りは、音の出る玩具らしい。木琴、持ち手のついた鈴、乾いた木の実が入った筒、袋を押すと空気音が鳴る喇叭。リオンが鈴を振ると、合わせるように木琴を叩く。無茶苦茶な音が、微笑ましい。
「失礼いたします。リオン様。真様のお越しでございます」
女官の言葉を受けて、しばらくすると、アマーリエが現れた。生成りの地に淡紫と翡翠色の牡丹の上衣、袴は藤色という夏の涼しげな色合いだ。普段は似合っているかどうか一目で判別する衣服を、今日に限って観察しているのは、花嫁衣装のことが頭にあったゆえだろう。
リオンには決して似合わない、可憐で少女めいた色を身にまとった義姉は、ふんわりと温かな微笑みで来訪を歓迎した。
「ご機嫌よう、リオン殿。コウセツに会いに来てくださったんですね」
「あぁばあー!」
歓声、としか言いようがない声を上げて、コウセツがアマーリエに走り寄る。やはり実母への愛着が強いようだ。わかってはいても、少々悔しい。
「……ぃしょっと。今日もご機嫌ねえ。いっぱい遊んでもらえてよかったねー?」
細腕ながら我が子を抱き上げ、軽く揺すると、コウセツはむにゃむにゃと言葉になっていない音で何かを話し始めた。アマーリエはそれに、うん、うん、と笑顔で頷いている。
「ばああー!」
「あっ、降りる? 降りるの? いま下ろすから待って、待って」
ひとしきり報告して満足したらしく、床に戻ろうとアマーリエの腕の中で仰け反る。軟体動物めいた予期せぬ動きに、慌てた声をかけながら、彼女は無事にコウセツを解放した。周りで手を出そうとしていた者たちも、ほっと一息つく。
「ええと、改めて。ご機嫌よう」
「ご機嫌よう。今日は顔色がいいな、アマーリエ」
リリスに戻ってきた当初の、病み衰えた姿を思い出しながら言うと、彼女は苦笑する。様々な相手に何度も言われてきたことだからだろう。その度に「おかげさまで」だとか「ご心配をおかけして」などと答えるのだろうが、このときは微苦笑にわずかな曇りを見せた。
「近々、リオン殿に会いに行くつもりだったんです。お時間はありますか? よければ少し、お聞きしたいことが」
以前ならば、すぐさま本題に入っていただろうが、いまはコウセツがいる。
彼のことは乳母や女官に任せ、リオンはアマーリエを濡れ縁に誘った。
濃い影が差し込み、風が通るそこは、夏の熱を和らげてくれる。気を利かせた女官が冷たい茶と一緒に団扇を置いていってくれたので、薄物のそれをひらひらとさせながら、真っ青な空を仰いだ。
「モルグ族との政略結婚の話、耳に入りましたか」
ぴくりと揺れる素直な反応を、リオンは笑った。
「そういうことになりました。多分こうなるだろうと思っていましたが、存外早かった」
閉じられていたリリス族も自由な気風に変わりつつあったが、族長家に生まれついた者として、政略結婚は実現する可能性の高い務めだ。キヨツグとアマーリエとて、思いを通じあわせていても、政治が絡んだ結果の婚姻であったことに変わりはない。いまは自由にさせられていても、リオンはいずれ、どこかに嫁ぐよう命じられただろう。
「……嫌ではないんですか?」
「うん、別に」
アマーリエは眉をひそめた。異種族の彼女に、長を排出する家に生まれた人間の心構えは、なかなか理解しづらいもののようだ。
「私にとってそれは初雪と同じだ。いつ降るかわからない、しかし時が流れ、季節が深まるにつれて、あの白い欠片が空を舞う。北の地では必ず」
北の地ではいま、短い夏が訪れているはずだ。大地を埋め尽くす草原に、青々とした山と、深い緑の森がある。一年のほとんどを白と黒と灰色で覆われた地の、刹那とも感じられる鮮やかな景色。
「いつか雪が降るのなら。それに応じた準備をすればいい。凍えぬように着るものを、身を温めるために火を、飢えぬよう食べ物を。リリス族の多くは、そのようにして幼い頃から結婚の準備をする。だから結婚しろと言われたところで、いまなのかという以外に思うことはないな」
何事か言葉を探し、視線を落としていたアマーリエは、結局それを小さなため息に変えた。
「……リオン殿がそう言うなら、信じます。私の言葉は、きっと多分に感傷が含まれてしまうでしょうから」
「そうだろうな。ただの政略結婚ではない、異種族であるモルグ族との結婚だ」
「お相手のことは聞いていらっしゃるんですか?」
リオンは口を歪め、「まあそれなりに」と答えた。
「どんな方なんですか?」
尋ねるアマーリエは、キヨツグに頼めば、まとまった資料に目を通すこともできるだろうに、どうしてもリオンの口から聞きたいようだ。いつも淡く笑っているような目に、ぐっと力が込められているのを見て、思わず噴き出してしまいそうになる。だが、可愛い義姉の頼みなので、リオンは知っていることを彼女に語った。
モルグ族は、その名が一つの種族を示すのではない。多数の異種族が集まり、北の森と山岳を領地とした者たちの総称をいう。リリス族は、始祖と女神とそれに類する者によって派生し、各氏族に分かれた。対してモルグ族は、何を祖とするのかも、どう血が混ざったのかもわからない。つまり、彼らの外見、能力等は多岐にわたり、あまりに数が多く、入れ替わりも激しく、係累によって派生したりなどするため、現在も完全に把握されていないのだ。
モルグ族にも統治者がいる。これを長と呼ぶが、その時々によって変化するらしい。王と呼ばれた者も、主と自称した者もいたと記録があるが、リリス族の公式記録では『長』で統一されている。
調べによると――といっても、少なくとも百年以上前だが、モルグ族は非常に多産な種族であるらしい。そして、非常に寿命が短い。およそ四十年。生活環境の厳しさが原因と思われるが、長寿の者もいるという話がある。恐らくどこかでリリス族の血が混じったのだろう。
モルグ族の現在の長は女性だ。名は明かしていないが、恐らく寿命に近い年齢だと思われる。数人の子どもがおり、一人はキヨツグ曰くアマーリエと関わったことのある者らしい。そして子どもらの一人が、この度リオンと結婚することになった若長だ。
「名前はアシュ・ラ・ホウ。アシュが名。ラが父親、ホウが母親の姓だそうです。年齢は二十七。適齢期をとうに過ぎているのは戦をしていたからです。私には似合いの相手でしょう」
「リオン殿」
アマーリエに無感情に呼ばれ、リオンはにっと笑った。しかし事実だ。
お互いに、人殺し。
リオンも、そして向こうも、それを悼む気持ちはあれど後悔はしないと決めていると思う。でなければ戦ったりなどしない。
「概要はわかりましたけれど、人となりはどうなんですか? 乱暴な方だったり、他に恋人がいたりはしないんですよね?」
「特に聞いていない。まあ直接会って確かめればいいでしょう。どうせ結婚するのだし」
じとっとアマーリエが睨んでくるが、リオンはキヨツグではないので別に心を動かされない。
「そう心配せずとも、落ち着くべきところに落ち着くので、あなたはあなたのやるべきことをするといい」
「だー!」
足音を聞いていたリオンがそう言い終えたとき、近付いてきていたコウセツがアマーリエの後背に頭突きをし、衣服を掴みながら立ち上がる。乳母たちよりも早く、リオンはその柔らかく小さな身体を抱き上げ、アマーリエの膝に乗せた。首に抱きつきながら、すぐに来たところに戻ろうとじたばたするコウセツを宥めつつ、アマーリエは「何かあったら相談してくださいね」と眉尻を下げた。そんな日は来ないだろうと思いつつ、何かしたいと思って声をかけてくる義姉を、リオンはとても好ましく、愛おしく感じた。
<< |
■ |
>>
|
HOME |