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 完成を待つだけとなった花嫁衣装を始め、婚礼の準備がひと段落したのは半月後。暫定北方領主となるリオンは、北方の有力者との顔合わせのため、数名の部下を連れて王宮から北に移動した。
 晩夏の草原は、北へ行けば行くほど、秋の色に染まっていた。こちらではすでに初秋と言い表してもいいような、茜色、黄金色の木の葉や植物を見ることができる。じきにこちらでは狩猟が本格化する。そして同じ獲物を狙う危険生物の動きも活発化する。
(家畜を連れて移動する氏族には、挨拶がてら、一応警告しておくか)
 毎年のことなので承知の上だろうが、暫定領主として仕事をしている、と示しておくのは重要だ。
 リオンの住まいとなる離宮は、まだ特に手を入れていない。結婚する前に新しい家具を入れる予定だが、式が当分先のことなだけに、急ぐ必要がないのだ。
 事前に風を通し、清掃を行ったそこで、リオンは無事顔合わせを果たした。
 リィ家は、古くからリリス族至上主義的なところがある氏族だった。だが先代当主、つまりマサキの父親はどちらかというと穏健派で、自分たちに不利益がなければ取り立てて攻撃したり追い出す必要はない、という考えの持ち主だったらしい。ずいぶん年上であった彼に、前族長セツエイに命じられて嫁いだシズカだが、どうにも意見が合わず、夫婦仲は冷え切ったものだったという。それが顕著になったのは次期当主となる男児、マサキが生まれてからだ。
 先代がなくなり、マサキが当主の座を継いだが、物事はシズカの思う通りに進まなかった。幼少期より実母を疎んじ、異種族の、特にヒト族の文明に興味を持つようになっていたマサキは、リィ家の古老や有力者たちを無視するように先代当主の思想を受け継いだ。そして、キヨツグを族長として仰ぎ、異邦から嫁いできた花嫁の味方になった。その後に起こった諸々の事件は、リオンの耳にも入っている。
 ゆえに、北方は現在、派閥が割れている。マサキに従う穏健派、シズカに与する保守派、王宮の世情を読んで異種族と交流を持つべきだと考える新主張派の三つだ。そしてそのどれもが、暫定領主となったリオンの動向を伺っていた。
 三つの派閥、そして数にもならないような独自路線を取る者たちが勢揃いした、離宮の広間で、リオンは開口一番言い放った。
「初めに言っておく。族長の勅命により、北方の暫定領主を拝命した私は、族長の目であり、耳であり、手足であり、剣である。ゆえに、私がお前たちに振るう力は、すべて族長の意思と思え」
 お前たちに何を言われようとも無視する。唆しや企み、戦端を開くような言動はすべて報告する。
 傀儡であるという宣言に、その場にいる者たちは一度言葉を飲み込むしかなかったようだ。そのうち変更した懐柔策でもって近付いてくるだろうが、そのときに捌けばいい。動き出す気配があれば叩き潰す、それだけの戦力と権力をリオンは持っている。
 顔合わせの後は、お決まりのようにもてなしの宴だ。
 美酒も美食も好きだが、どうせだったら腹の黒い狸ではなく、美しい舞姫や楽師を前に楽しみたかった。
(もしくは気の合う連中とかな)
 と思って浮かんだのが、キヨツグ、シキ、カリヤと飲んだあの夜のことで、リオンは顔をしかめてしまった。
 珍しい顔ぶれで、酒の力もあって本音を口にした席だったが、楽しいのとはまた違う。いや、あんな状況でなければ面白い酒席になったのかもしれないが。
「リオン様? 何か心配事でも? 難しい顔をしておられますが」
「いや。これからは少し酒量を控えなければと思っていた。暫定とはいえ、領主になるからには失態を見せられないからな」
 場が、どっと沸いた。リオンの酒豪ぶりは多くの者に知られていて、控えるというそれが言葉通りでないとわかったからだ。
 そのようにして、酒宴は夜明け近くまで続いた。周囲の酔いが深くなるにつれて、水やら白湯やらを飲んでいたリオンは、宴が終わる頃にはほとんど酔いを冷ましていた。
 宴が終わった後は自室に戻った。朝寝してもよかったが、なんだか腐った気分だったので、着替えをして遠駆けに出た。
「落馬しないでくださいよ」と部下に注意されたが、どんなに酔っていようと馬に関しては決して失敗を見せないと言われるのがリリス族だ。その実態は、意識朦朧とした乗り手を落とさぬよう、馬の方が細心の注意を払ってくれているのだということも、笑い話として語られる。
 ともかく、リオンはリリス族では巧みな方の乗り手だし、愛馬も長い付き合いで、非常に賢い。滅多なことでは落ちないだろう。そう信じているからこそ、部下は外出を止めなかった。
 朝靄の空気を心地よく感じながら、しばらく愛馬の好きに走らせる。ここが長く暮らした北方だとわかっているらしく、のびのびと、楽しげな駆け足だ。揺られるリオンも蹄の音を子守唄のようにして聞き、しばらくぼうっと身を委ねる。
 いくつもの出来事がとりとめもなく浮かぶ――「相手がいるなら承諾せずとも良い」と言ったキヨツグ、心配そうに瞳を揺らしながら「私にできることはありますか?」と言ってキヨツグと戦うことも辞さないと告げたアマーリエ。モルグ族に嫁ぐことを憐れんだ女官、ひどい仕打ちだと怒った武官、上手くやれるのかと不安がった部下たち。相手の名を聞いて「それはもしかして」と絶句した側近。酒が回って礼儀を忘れ「モルグ族の夫を持つなど、正気ではない」などと暴言を吐いた北の者たち……。
(誰も彼も、好き勝手に言いおって)
 鼻を鳴らし、手綱を握った。
「走るぞ、紅漣(ぐれん)!」
 一声かけて、速度を上げる。
 速く、速く。風になるように。大気を裂く自刃のように鋭く。わずらわしい声も影も振り捨て、純粋無垢な風になる。肺に溜まっていた酒気を朝の空気に入れ換え、巡る血を朝日で熱く燃やし、全身を作り替えるがごとく、大地を踏みしめ、空を称えるために髪をなびかせる。政略結婚も、前提領主も、族長の妹でもない。いまこのとき、リオンはどこまでも自由だった。
 息が切れるまで走り、リオンは紅漣を解放した。彼に水を飲ませ、しばらく好きにさせる。
 リオンは草原に寝そべって、朝寝とまではいかないが、休息のつもりで微睡んだ。雪がなく、乾いた気候でなければ、この地でこのようにうたた寝をすることはできないゆえ、非常に貴重な機会だ。少し寒いくらいだが、毛皮の外套にくるまっていれば、リオンにはちょうどいい。
 一睡もしていない状態なので、あっという間にうとうとし始める。
 さあ……、と、ひそやかに風が渡る音が聞こえる。目蓋の裏の明るい闇に、飛ぶ鳥の影がよぎった。気ままな虫の羽音を聞きながら、ゆったりと呼吸を繰り返し。
 ――遠く、かすかに。血臭と殺気を感じて、飛び起きた。
「――――」
 剣に手をかけ、周囲を見る。
 それらしい影はない、朝の風景だが、リオンは自らの感覚に従って疾走した。
 果たして、いた。大きな黒い影が七つ。それらが攻撃しているのは、リオンの友である紅漣だった。
 リオンを見つけて悲鳴のように嘶く紅漣を狙った影を、鞘払った剣で横薙ぎにする。ぎゃっ、と鋭い悲鳴をあげて転がったそれから、血と、獣の臭いが強く漂った。
(狼、その亜種の群れか!)
 動物としての狼だが、何かの血と混じっている個体は亜種に分類される。一瞥して、耳の横に角を持つもの、尾が鱗に覆われているものを見つけた。そうやって認識している間にも狼どもが攻撃を仕掛けてくるが、冷静なリオンの剣は近付くことを許さない。
 新手が手強いと悟った獣たちは、探るように距離を取るが、うろつきながら隙を窺っている。
 その間にリオンは紅漣の様子を確認した。己を奮い立たせるように荒い息を吐いているが、後ろ足から血を流しており、騎乗して振り切るという策は不可能なようだ。このまま紅漣を守りながら、相手が諦めるまで立ち回るしかない。
(不利だな)
 あちらは亜種ゆえに知能も能力も高く、狼という特性から群れで巧みに狩りをする。対してリオンは酒宴の後、ろくに休まないまま遠駆けに来ており、体力が残り少ない。長丁場になれば圧倒される。
 だが、だからといってむざむざ餌になる気もない。
 リオンの気迫が改まったのを感じ取って、獣たちが動いた。勝てる、と踏んだのだろう。おぞましい吠声を轟かせて、紅漣を追い立てようとする。守っている対象が恐怖で逃げ出せば、しめたもの。リオンを足止めしている間に紅漣に襲いかかるつもりだ。
 それがわかっているから、紅漣は必死に恐れと戦い、その場に留まろうとする。彼を守りながら、リオンは獣どもの牙を退けた。
 だが、思っていた以上に、相手が硬い。
 生物として強化されているようで、狩りをするように仕留めることができなかった。しかも先程の吠声は仲間を呼び寄せるものでもあったらしく、次々に新手が来た。
 ――ヴォオォオォ!!
 これまでとは異なる凶暴な雄叫びが轟き渡る。
 びりびりと皮膚に突き刺さる殺気が、凄まじい勢いで迫る。迎え撃とうとして、相手の正体を知った。
 その狼は、熊ほどの巨躯で、骨をも容易く砕く牙を持っていた。まず間違いなく、剣一本で立ち向かう相手ではない。
(落とせるか?)
 下手に傷付けると、逆上させて却って危険だ。できれば首と落としたい。だがこの刃では細すぎる、せめて鉈か斧ほど厚く頑丈であれば。
 迷う時間は一欠片もない。落とす、と決めて、刃を振るった。
 めり、と、肉を断ち、腱を切る感触があった。だが、そこまでだ。ぎりぎり、ぎちぎちと骨に食い込むのを感じるが、それ以上進まない。さらなる攻撃は無理だと判断して、剣を弾こうとしたが、それよりも相手が腕を振るう方が速かった。
(速い!)
 視界の端に、硬い毛に覆われた岩のよう左脚を捉えた。見えるものが一瞬一瞬、細切れになる。矢よりも速いそれが、一秒にも満たない刹那に己の身体を弾き飛ばすだろうと、リオンは冷静に予想する。
 衝突すれば、確実に肋を持っていかれる。当たりどころが悪ければ、手足の一本の機能を永遠に失う大怪我だ。そしてこの攻撃は不可避だ。狩りをする獣の野生は、人間の持つどんな磨かれた技よりも強烈だった。
 戦が終わり、剣を鈍らせたつもりはなかったが、このざまだ。
 さて――不随の花嫁を、果たしてあの男(・・・)は迎え入れるだろうか?
「――――」
 銀光。
 それは、まるで時が止まったその瞬間に現れたかのようだった。
 目が眩むほど白く輝く剣。それを操る男の髪もまた、陽を受けた雪のごとく、鮮烈に美しい。斬り捨てる相手を見据える、水晶の透明な眼差し。
 その男の使う剣を、リオンは知っている。
 短い呼吸とともに、分厚い刃が獣の骨を断つ。リオンのつけた傷をなぞる一閃が与えた激痛は、迸った絶叫からも明らかだった。
 どう、と巨躯が倒れると、狼たちは途端に逃げ出した。巨体の持ち主は、恐らく群を統率していたのだろう。それが倒されたのだから、自動的に新しい主が決まり、その主は退却を命じた。懸命な判断だ。
「…………っ」
 ようやく息を継いだリオンが、突き立てた剣に寄りかかっているうちに、男は指笛を吹いて、どこからともなく鳥を招き寄せた。
「伝言を頼む。『始末した』と」
 ひゅーい、と一声鳴いた鳥は、北の方角に向かって飛んでいく。
 呼吸を整えながらその翼の行方を目で追っていると、肩に濡れたものが押し付けられた。紅漣が何度も鼻先を押し付け、自らを落ち着かせようとしている。リオンは苦笑しながらその頭を撫で、もう大丈夫だ、よく耐えた、と労った。そうして平静になるよう己に言い聞かせているのは、リオンもまた、同じだった。
 紅漣を撫でるのは心地いいが、いつまでもこうしているわけにはいかない。
 先ほどから一瞬たりとて外れない男の視線に、対峙する。
 銀色の瞳は、よく見れば複雑な色合いで、いまはわずかに金色味を帯びている。幅広で厚みのある剣に目を惹かれるのは、それがリリス族では作られていない型だからだ。少しでも身軽になるように、胸当てや長靴は革製、身体に沿う形の衣服は木々と土に紛れる色合いで、男の鍛えられた手足を浮かび上がらせ、胸板の厚みを見せつけるようだった。小型武器を装備する幅広の帯には赤や緑で鮮やかな刺繍が施され、そこに吊り下げられた玉飾りと耳飾りがちりちりと鳴り、両手首に巻きつけた玉や金属の腕輪がさやかな光を反射する。
 異郷の出で立ち。すると、リオンの視界に突然、記憶の中の冬が顕れ、その場が冬景色に変わる。
(これは幻だ)
 何故なら、リオンは雪原でこの男と相見えたことがない。ただ、もっと早くに出会っていたらあの場所だった、と思うからこそ、立ち現れた幻影だ。獣のものだが、血臭がするせいで、現実味が余計に増しているのだ。
 落ち着いて呼吸をし、瞬きをすると、ゆっくりと幻は薄れていく。
「…………」
 その名を呼ぼうとして。
 次の瞬間、リオンの意識は途切れた。――限界が来てしまったのだった。
 地面にそのまま倒れこむ衝撃は、感じなかった。寸でのところで彼に抱き留められた、そうなるだろうと思った。
 だから言った。
「……私の力がこの程度だと思うなよ……」
 本当に最後の言葉として、相手の反応を確かめる気力もなく、今度こそ気を失った。

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