―― 第 10 章
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 草原に生きるリリス族であるキヨツグは、都市の空気の淀みをこの地に住まうヒト族よりも強く感じてしまう。
 大地を石で舗装し、高い塔を乱立させ、汚れた空気を吐き出す乗り物を多数行き交わせていれば、視界がうっすらと灰色に煙る街になるのも納得がいく。このような場所で息苦しいとは思わぬのだろうか、などと余計なことを思う。
「あちらが第二都市の中心地、市庁舎でございます。この街で最も高い建築物です」
 すでに何度も足を運んでいるので、この街の風景は知っているのだが、初めて訪れるような反応を偽りつつ、共に入国したリリスたちと「珍しい」だの「面白い」だのと言葉を交わした。そうせずとも、都市の発展ぶりを誇るヒト族の官僚たちは少しでもキヨツグが興味を持った素振りを見せると、懇切丁寧に説明してくれた。
「モーガンさん、そのくらい、リリス族長はきっと存じておられますよ。だってお国から見えますもの」
 そう言ったのはイリア・イクセンだ。明るい色の髪と目の印象そのままに、迎えのときからきびきびと立ち働いていた。いまも隣席に座る、どちらかというと頼りないモーガンを支えている。
「あ、ああ、そ、そうですか?」
「丁寧な解説、痛み入る」
 焦っているのか、汗をしきりに拭っている彼に声をかけ、イリアに問いかける。
「到着はいつ頃になるだろうか」
「あと十分ほどかかるかと思います。都市をぐるりとご覧になっていただいてから、市庁舎に向かいます。他種族の方に都市を見せつける機会など滅多にないことなので、申し訳ないのですがお付き合いください」
 モーガンはぎょっとしたようだが、キヨツグはかすかに微笑んで見せた。率直なイリアに好感を持った。事前にアマーリエから聞いていたように、彼女は少々変わった人物らしい。
「正直は美徳だ」
「ありがとうございます」
 異種族の長に対する態度とは思えない気安さで、イリアは笑った。その笑顔は血縁者であるアマーリエに少しだけ似ているように思えた。
 都市訪問の予定では、初日は様子見、二日目は市庁舎で市長たちと会談を行う予定が組まれていた。食事会や宴の予定もあり、気を休めることができない。イリアを観察してしまうのも、アマーリエを恋しく思い、その面影を探しているからなのだろう。
 この灰色の街でアマーリエは生まれ、成長してきたのだと思うと、不思議な気分だった。出会うことがなければ、彼女は小さな種のまま、目覚めることなく一生を終えていたのかもしれない。それくらい、ここには土も光も水も足りなさすぎる。
 息苦しい街を周遊し、市庁舎に到着するなり、報道の人間に撮影の光を浴びせかけられた。肖像を取り込むことができるカメラの光だ。
 その後、上階へ向かうと、そこには甘い男ぶりの市長が待っていた。
「初めまして。第二都市市長、ジョージ・フィル・コレットです」
「キヨツグ・シェンです。お初にお目にかかる」
 深みのある声とともに差し出された手を、キヨツグは握った。
 握り返してきた手は容姿に反して力強かった。彼が義父なのだと思うと不思議な感慨がある。
 だが彼が娘の夫となったキヨツグをどう思っているのか、握手しただけでは読み取れなかった。それだけコレット市長は自身の感情を隠すのに長けている人物なのだろう。そしてキヨツグもまた、何を考えているか読み取れないように微笑みを貼り付けていたために、彼もこちらがどう思っているのかを知ることはできていないはずだった。
 あらかじめ配置されていた席に座ると、広報だという人物が手にしていたカメラから閃光が走った。
 姿を写し取ることができますが、魂が抜かれるなんてことはありませんよ、とその広報は笑って説明していたが、さすがにリリスでもヒト族に馴染みのない地方の人間でない限り、そのような迷信を信じ込むことはない。
 市長から、都市の説明、機構、重要施設、日常的に使用されている機械についての説明を受けた後は、市庁舎内の広間に移動し、リリス族長来訪を歓迎する子どもたちの合唱や花束を受け取った。
 そこでは最後に、選抜されたという青少年たちとの質疑応答の時間が設けられていた。
「王様はどうして王様になったんですか」「何歳ですか」などのあどけない質問もあったが、「どうして機械を受け入れないんですか」など鋭い問いもあった。迂闊な返答はできないので、機械の感想を述べて、あれば便利だと感じる、という程度の答えに留めておいた。
 だが最後の質問によって、その場にいた者たちに緊張が走った。
「政略結婚について、奥様はなんと申されているのですか?」
 第二都市大学の学生と名乗る彼を、リリスたちは覆面の下から鋭い目で見た。市職員たちは慌てたようにキヨツグやリリスたちを見て、状況がわからない子どもたちは目を瞬かせている。
 大学生というのならば、本人は自身の発した問いが危ういものであると理解していることだろう。なにせこの場にいるのは、政略結婚した当人であるキヨツグ、娘を送り出した父親である市長なのだ。
 またキヨツグがその質問に答えることは、場合によってはコレット市長個人、また都市そのものを非難することになりかねない。
 だが強い眼差しに、彼が問いに込めた何らかの思いを感じた。
 それに答えなければならない、と思い、口を開く。
「妻は、政略結婚という仕組みについて何か言ったことはない」
「あなたと結婚したことについてはどうですか? 悲しんでいたのではありませんか」
 キヨツグは注意深く青年を観察した。
 険しい顔をしているのも、怒りを堪えたような低い声を発しているのも似合わないと感じるような、整った顔立ちをしている。着ているものはスーツだが、身体に沿う形のそれは恐らく特注品だろう。富裕層の若者だと思われた。
 政略結婚について何か思うところがあるのか。それとも別の。
 素早くそこまで考えて、答えを口にする。
「慣れぬ異郷での生活で心労が絶えず、私の知らぬところでそのように感じることもあったかもしれぬ」
「奥様はあなたに気を使っているんですね? そうしなければならないという義務感に突き動かされて、無理をしているのではないでしょうか?」
 まるでアマーリエを知っているような口ぶりだ。
 立ち入った質問が重なり、市職員が制止しようとする気配を見せた。ここで誰何してもよかったが、キヨツグは微笑んだ。
「そうなる前に私を頼るようにと言ってある。そして近頃はそのようにして頼ってくれるようになった」
 刹那、青年は傷付いた顔をした。
「そろそろ時間となりました。リリス族長、ありがとうございました」
 進行役が告げ、キヨツグはその場の全員に笑みを向けた。
「ヒト族の人々と話ができて、良い経験になった。ありがとう」
 幼い子どもたちは「ありがとう」「さようなら」と頬を上気させながら見送りの言葉をくれたが、ただ一人、あの大学生だけは燃えるような目をしていた。
 明らかな敵意だった。それを向けられることに特別深い感慨はないが、やはり彼の素性が気になった。背後に視線をやると、追従していた者のうち一人が頷いた。しばらくすれば都市側に抗議と、あの青年の情報を渡すよう申し入れる手はずを整っているはずだ。
 その後は様々な報道の人間が待ち構えていた会見場に移動する。無数の閃光を浴びせかけられ、わずかに不快になりながらも、努めて冷静に返答をした。
 途中、何故かどよめきが起き、ざわざわとした中でカメラの光がさらに増してキヨツグを刺したが、リリスの面々はどこか苦笑を浮かべていたので、誤った応対をしたわけではなかろうと深く考えぬことにした。
 宿に戻ってきてから、キヨツグは、付き人として同行していた長老の一人に厳重注意を受けた。軽率であるとの言い分は、キヨツグもよくわかっていた。
「天様は、真様のことになると我を忘れておしまいになるのですね」
「そんなことはない」
 多分な、と心の中で付け加えると、別れ際のアマーリエの姿が脳裏に浮かんだ。
 淡い色の瞳は微笑んでいたが、底に寂しさを押し隠していた。その思いを告げればよかろうものを、彼女は最後まで微笑んで、真夫人としてキヨツグを見送った。
 寂しいならば言ってくれ、と、告げればよかった。
 そう思うのはあの若者の厳しい問いがあったからだろう。夕刻になってから市職員から謝罪を受けた。都市側が大学に代表者を選出するよう通達し、大学が選んだ数名の学生のうちの一人が彼だったらしい。アマーリエとの関わりについて知りたいところだったが、個人の交友関係までは把握していないとの回答だった。
 ただアマーリエと同じ大学に通っていたのは確認済みだ。詳細を調べさせてもよかったが、急ぎではないと判断し、保留にしてある。二度と会うことはなかろうが、もしアマーリエと関わりがあったのならば頭の隅に置いておく必要があった。
(今頃、何をしているだろう。辛い思いをしていなければ良いが……)
 明日からは都市施設の視察の予定が組まれていた。まだまだ、彼女と再会できる日は遠い。


        *


 アマーリエは動きを止めた。帯の中に隠した携帯端末がまた震えたからだ。
 都市にいた頃もそうだった。端末が鳴ると一瞬びくっとしてしまう。電話の着信音なんかは特に苦手だった。自分から誰かにコンタクトすることは滅多になかったから、着信すると、一瞬、悪いことではないかと思ってしまうのかもしれない。
 けれどさすがにもう慣れてきたのは、この数日間、メールを大量受診しているからだった。どの内容もすべて、アマーリエの夫であるキヨツグについて書かれている。
 無事に都市に到着したリリス族長一行は、その日の夕方のニュースに出たらしい。これから会談に臨むという瞬間を撮影したもので、恐らくそうなるだろうと予測していたアマーリエは、深夜のニュース番組の時間帯に予定を合わせ、その様子を端末のテレビ放送視聴機能で確認した。
 リリス訪問団の中でただひとり、その美貌をさらけ出していたキヨツグは、市長や市職員たちに囲まれ、緊張した様子もなく堂々としていた。いつもと違うのは、彼の顔にはいつもはうっすらとしかない表情が存在していて、穏やかな微笑みを浮かべていることだった。
 携帯端末を握りしめながらアマーリエはあわわと声を漏らしてしまった。
(と、とんでもない美形だ……!?)
 どこか人外めいた美貌の持ち主だったキヨツグは、常に近寄りがたい空気をまとっていたが、笑顔の破壊力は凄まじかった。わざと表情を作っているはずだが、それを感じさせない。男らしくも凛と美しい、穏やかな気性の人に見える。
 改めて自分の夫となった人の美しさに見惚れていたが、深夜帯の番組だったので、夜のニュースにはなかった、会談後の記者会見の映像が流れ始めた。画面の右側には記者質問が表示されている。

 ――一部報道について。
『求めたのはヒト族の融和であり、リリスの新たな一歩である。私の婚姻は同盟調印のためである見方も出来ようが、私個人の考えも強く反映されている』
 ――個人の考えとは?
『私は愛しい女性を妻に迎えただけだと思っている』

 その瞬間、キヨツグの表情が変化した。とろけたチョコレートのように濃密で甘い微笑みを浮かべたのだ。
 無数のフラッシュと『以前に奥様と出会われていたということですか!?』『奥様との馴れ初めを』『結婚までの経緯の詳細を教えてください!』など怒号のように飛び交う質問が頭に入ってこなくなるほどだった。先ほどの微笑は撫でただけ、この笑みは、映像を見た多くの人間の横面をダイヤモンドで殴った、ぐらいの衝撃があった。アマーリエも悲鳴をあげて端末を放り投げてしまったくらいだった。
 翌日の早朝からこの映像が流れ、あらゆるメディアがキヨツグとアマーリエの関係を取り沙汰したようだ。いつしか『世紀の身分違いの恋』という単語が躍り、いつしか嘘を本当らしく彩った馴れ初めが、都市の人々の知るところになった。
 キヨツグは同盟について話し合うために都市にやってきた折、市長の娘であったアマーリエと出会い、恋に落ちた。そして同盟調印をきっかけに、二種族の架け橋となることを夢見て結婚した――詳細は報道によって様々で、勝手に付け加えられたものもあるが、概ねこのような内容だった。
 その頃には、アマーリエの携帯端末のメールボックスは容量上限まで受信してパンク状態だった。
『あの人旦那様なの!? かっこよすぎ!』
『どこで出会ったの?』
 純粋な好奇心から送信されたメールは、次第に『こっそり境界に行ったときに会ったって本当なの?』『怪我して倒れてるところを助けたんだって!?』などという詳細を尋ねつつもだいぶと誇張の入ったものになり、ついには通話着信を始めたので、端末の着信設定をすべて拒否にしてしまった。メールだけ残しているのは、アマーリエが事前に頼んでいた通り、イリアが状況を知らせてくれるからだ。
「真様?」
 はっとすれば、足元に子どもの顔があった。
 ここは街にある診療所。ハナによって今日ここに連れてこられたアマーリエは、彼女や常駐の医師たちの助手をしていた。彼はいつも腰を診てもらっているという祖父の付き添いでやってきた子だ。祖父が診察室に入ったので、この事務室まで潜り込んできたらしい。
 あまり話を広めないように、というキヨツグや実際にそこで働くハナの通達はあったが、真夫人であるアマーリエが診療所を訪れることは事前に伝えられていた。真夫人がやってくると聞いて興味津々だった患者たちは、実際には見習いの地味な格好をしているアマーリエを目の当たりにして、どうやら眉唾物だったらしいと思っているようだ。「真様」と呼んで敬意を払ってくれるものの、王宮でのようにかしこまられることはほとんどない。
「ため息ついてると幸せが逃げちゃうんだよ」
「ごめんなさい、ぼうっとしちゃってたね」
 手を引いて待合室に戻ると、呼び出されるのを待っている人々が会釈してくれた。先ほどまで受付の仕事をしていたので、みんな真夫人であるアマーリエの顔を知っている。笑みを浮かべて礼を返しながら、椅子に少年を座らせる。
「おじいさんはいま診察室にいるから、もう少し待っていようね」
 彼はじっとアマーリエを見つめている。
「うん? どうかした?」
 優しく尋ねると彼はびっくりするようなことを口にした。
「天様と喧嘩したの?」
「……はい?」
 不意を突かれてぽかんとした。
「母様ね、父様と喧嘩すると、口利かなくなるんだ。でも一人でため息ついてるの。真様もそう?」
 どうやら心配してくれたらしい。アマーリエは笑った。
「大丈夫。喧嘩なんてしてないから」
「本当? じゃあどこか痛いの?」
 そう言われると、少しだけ。
「胸が痛いわよねえ。離れていると、胸が寂しくて」
 まるで見透かしたように言ったのは、待合に座っていた老女だ。にこにこと笑っているのを見たアマーリエの顔はみるみる赤くなった。キヨツグが遠いところにいるのを見透かされるなんて思ってもみなかった。
「胸が痛いの? お医者さんに診てもらおう?」
「う、ううん大丈夫! これはその、病気じゃないから……」
 本気にとってしまった彼に言い訳めいたことを告げて項垂れていると、診察室の扉が開いた。
「次の方、診察室にお入りください。……真様、どうかされましたか?」
 部屋にいたハナが現れ、真っ赤な顔で座り込んでいるアマーリエに驚いている。慌ててアマーリエは顔を隠しながら、ハナから処方箋を受け取り、調剤室に入って指示されている薬を掻き集めた。
 腰に貼るための湿布。軽い痛み止め。血流をよくする薬。三種類を詰め合わせて、診療所の看護師に確認してもらい、問題ないと言ってもらえたので、会計をしていた老爺に手渡した。
「これはこれは。恐れ入ります」
「いいえ。どうぞお大事に」
「真様もオダイジニね!」
 祖父の隣に並んだ少年に言われて、アマーリエは苦笑しつつ手を振った。
 空が橙色に染まり始め、そろそろ戻る時間となった。診療所内で待機していたユメたち護衛官に声をかけ、ハナたちに挨拶に行く。
「今日はお世話になりました。またよろしくお願いいたします」
「お手伝いくださり、誠にありがとうございました。どうぞお気をつけてお戻りください」
 待合室にいる患者に会釈をして診療所を出た。
 この診療所は、重篤な患者を診ることはほとんどないが、初期症状の現れた患者を大きな病院に紹介する町医者的な役目を担っていた。といってもリリス族はみんな丈夫で、病にかかることは少ない。診療所にやってくる患者は外見が変わるほど歳を重ねたお年寄りや、年齢と見た目にほとんど違いが現れない年齢の子どもが多い。
 そんなところで見習いとして働かせてもらえるのは、医者を目指していたアマーリエにとって、とてもありがたいことだった。できることなら、そこで技術を習得して、医師見習いと名乗れるほどにはなりたいと思う。
 王宮に到着したアマーリエは、装いを改め、自学自習の時間を取った後、夕食を取り、しばらくまた本を読み、明日の予定を確認したりなどし、風呂に入って身綺麗にした後、ベッドに横になった。
 そこには自分の温もりだけ、暗闇の中で手をなぞっても敷布の感触しかない。
 喧嘩を、しているならまだしも。
(遠い、なあ……)
 戻ってきたら話す、と言ってくれたけれど、キヨツグの本当の出自のことや、都市が彼の立場を危ぶんでいる状況はまだ解決されていない。不安を煽られてアマーリエは小さく身を縮めた。
 もし、突然引き離されてしまったらどうしよう。
 あの人は、アマーリエの居場所はここだと言った。しかしアマーリエが見出したのはキヨツグそのものだった。彼と引き離されたら、一体どうすればいいのだろう。
 夜が更けて孤独を実感すると、それらの不安がますます大きく膨らむので、アマーリエは痛いくらいにきつく目を閉じて思考を遠ざけ、ようやく眠った。

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