<<  |    |  >>

 キヨツグのために行動したいという思いはあるものの、族長不在の王宮は少々慌ただしく、アマーリエも大小の仕事や稽古事に追われて、なかなか動き出せずにいた。そんな日々が、二日、三日と続き、四日目になった。アマーリエが朝食をそろそろ終えようかというとき、ヨウ将軍が先触れもなく飛び込んできた。
「申し上げます!」
 さっと緊張したアマーリエは背筋を正した。
「天様の妹御、リオン将軍が北部境界より帰還されました。広場にて皆様がお待ちです。真様もお早くお越しください」
「……妹?」
 キヨツグに妹がいたのか、そういえばプロフィールで少しだけ読んだ気がする、とつい曖昧な記憶を探ってしまったが、ヨウがアマーリエの言葉を待っていることに気付いて、急いで頷き、立ち上がった。
「お迎えします。準備をお願い」
 簡単に着替えて、正殿から表の広場に出ると、長老たちがすでに待ち受けていた。やがて門が開き、旗を掲げた一隊が現れる。
 先頭を切って駆けてくるのは白駒。降り立ったリリス族は、長身と麗しい美声の持ち主だった。
「……あなたが、真夫人となったヒト族か?」
 結い上げてなお長い髪が風に揺れる。太刀を佩き、防具を身にまとった勇ましい氏の出で立ちだ。切れ長の瞳は刃のようにきらめき、全身に活力をみなぎらせている。細いがしっかりとした腰に手を当てる姿は、どこか艶めかしく、美しい。
 率直に、似ていない、と思った。
 それでも微笑みを浮かべ、頭をさげる。
「お初にお目にかかります。アマーリエ・エリカと申します」
 彼女は緩く笑みを見せた。
「こちらこそ。我が名はリオン。シェン家の末子で、あなたの夫の妹だ」
 女性もまた高身長の持ち主が多いリリス族で、リオンはひときわ背の高い部類に入りそうだった。近付いてきてこちらを眺め回されると、キヨツグより低いとはいえ、少し威圧感がある。
「ふむ……よく兄上もこのように小さな方と結婚なされたものだが、あなたも物好きなことだな。異種族で、しかもあのキヨツグと、とは!」
 おや、と思ったのは一瞬だった。リオンが素早く囁いたからだ。
「逃げられるならお手伝いするが、いかがかな?」
 思わず彼女の顔を見た。そして、にっと笑われ、彼女はアマーリエの醜聞をすでに耳に入れている状況でそう言っているのだ、とわかった。
「ええと……そういうわけには参りません。なんのための結婚か、意味を失ってしまいますから」
 一度逃げた身でよくも言えるわよね、と思いつつ、笑ってみせる。
 返ってきたのは底意地の悪い笑顔だった。
「なるほど? よくご理解の上でここにいらっしゃるようだ」
 ぽん、と頭に手を置かれた。
 ぐりぐりと頭を揺らされながら考える。からかわれて、いるのだろうか。試されたのかもしれない。でもこの扱いはどういうことだろう?
「旨い酒が飲みたいなあ。あちらでは、酒は傷口が飲んでしまうものでなあ」
「はあ……」
「いまのは冗談だ。いくら北部戦線でも、消毒に酒を使うのは物資不足の場合に限られる」
 呵呵と豪快に笑って歩き出すリオンを、女官たちが先導する。長老たちもやれやれと肩を竦めてその後を追って奥へと消えた。広場に待機していた武士たちも荷解きを始め、一気に騒がしくなる。どうやらこれで最初の対面は終わったようだった。
「真様。女官長と侍従長が打ち合わせをしたいと参っております」
「打ち合わせ……?」
 首を傾げつつ、部屋までやってきた二名から話を聞いてみる。王宮内の人事や仕事を監督する侍従長と女官長は、いまのところアマーリエと直接関わっていない。彼らの意向は、アマーリエ付きの筆頭女官であるアイを通じてもたされることが多いからだ。
「リオンをもてなすための酒宴を開かなければなりません。真様には、その御手配をお願いしたいのです」
 開口一番に侍従長に告げられ、リリス族の宴の内容をほとんど知らない、その仕事の想像もつかないアマーリエは狼狽えた。
「ど、どのようにすればいいんでしょう? お料理とか、ええと、音楽を決める、とか……?」
「おおよそご理解いただけているようで何よりです。ご裁量いただく事項はこちらにまとめておりますので、いまから話し合いましょう」
 アマーリエが不慣れなことを知って、すでにまとめてくれていたらしい。これも経験と、二人に主導されながら宴の内容を決めた。
 みんなが懸命に動いてくれたおかげで、夜になって宴が始まった。目的は慰労だ。
 話し合いの最中に教えてもらったところによると、リオンと彼女の武士たちは北部境界に駐留する軍隊なのだそうだ。軍のすべてが帰還したわけではないらしいが、指揮官であるリオンが王宮に戻ってきたのは何かあったのではないかと、武部は騒然となったらしい。
 ヨウ将軍は直接リオンに尋ねたそうだが、「軍備の入れ替えのために立ち寄っただけだ」と答え、その後は「少し見ないうちに腹回りが弛んだ」だの「そろそろ妻に飽きられたんじゃないか?」だの、彼をからかっていたらしい。さすがに心の広さで知らされているヨウ将軍が苦言を呈すると、悪びれない様子で「後ほど話す」と言ったという。
 つまりは、彼女が何の目的でやってきたのか、誰も探ることができなかった、ということだ。
 リオンの笑声が響いている。女性ものの衣服は好まないらしく、男装で胡座をかいて座っていた。酒豪らしくどんどん杯を重ねて、健康的な肌は果実めいた色合いに染まっている。だが出席者のほとんどが似たり寄ったりの状況で、ただ一人アマーリエはジュースを舐めていた。前後不覚になって醜態をさらしてはならないので仕方がない。
 声をかけられたのはそんなときだった。
「真殿。真殿には何か特技がありますか?」
 リオンだった。近付かれた途端に酒の匂いが強くなる。裾から長い素足が覗いていて目を奪われそうになったけれど、気付いていないふりをしてそっと視線を外した。
「特技、ですか? お見せできるようなものは何も……」
「楽器はどうです?」
「ええと、ピアノとヴァイオリンなら……」
 幼い頃に教養として習わされたものがその二つだが、いまも巧みに奏でられるかというと難しい。リリス族の楽器は古東洋のものが基本になっているせいもあって、未だ練習中だ。とても披露できるものではない。
「ぴあの、と、ばいおりん、ねえ。その様子だと舞なども期待できませんな? 真夫人ともあろう方が、余興一つもできぬなど、怠慢では?」
 むっとしたが相手は酔っ払いだ。
「……申し訳ないです。精進します」
 微笑でかわしつつも、今度は楽器と舞を本格的に習得しようと決める。
「しかし、このままではせっかくの宴が寂しいままだ。なんとかするしかあるまいなあ」
 リオンが気配を変えた。
 立ち上がった瞬間、すっと研ぎ澄まされた何かを帯びた彼女が、広間の中央まで空気を割いていく。静寂となったそれはリオンへの注目となり、いつの間にか周囲は静まり返っていた。
 帯に挿していた扇をぱっと鮮やかに咲かせると、リオンは床を蹴った。
 その舞は、鳥の飛翔のようだった。その長身や手足がもたらす挙動の一つ一つは、迫力があるのにとても繊細なもの。体重を感じさせない、というのだろうか。人間が表現できるものの頂点にあるような、この世ならざる美しさだ。
 目の動き、指先に、何か見えない糸が繋がっているように思える。リオンはただの男装の軍人ではない。雄々しく圧倒的な気配はそのまま男性を表現しているのに、優美さを感じさせる動きは誰よりも女性らしい。
 アマーリエは、父親や祖母の影響で、超一流とされるパフォーマンスに接した経験はある。しかし、こんな恐ろしいほどの気配を感じたことがない。
 高みからの眼差しにあるそれは、否定。
 息をするのも邪魔であるかのような舞台に、やがて笛や鼓の音が現れる。どこからか楽器を手にした者たちが、馴染みなのだろう曲を奏で始めた。
 それに合わせてリオンも舞を変えた。今度は華やかで楽しげな、少々ひょうきんなもので、酒客たちも笑い声をあげ、言葉をかけたり手を打ち鳴らしたりし始める。
 一体となった場で、舞が終わる。拍手が鳴り響いた。喝采だった。
 晴れ晴れと汗を拭ったリオンは、アマーリエを見た。アマーリエは息を詰めた。その、自信に満ちた表情。嘲笑だ。
 静かに固まっているアマーリエに向かって、彼女はさらに右手をひらめかせてみせた。その指先に光っているものに、見覚えがある。
「え……あっ!?」
 アマーリエは慌てて左手を見た。ない。
 結婚指環はいつの間にかリオンの手の中にあり、その懐に仕舞われた。そうして彼女はこちらに戻ってくることはなく、酔った声をにこやかにかわしながら広間を出て行った。
 追ってくるなら追っておいで、と誘うしなやかな背中を、アマーリエは見送ることしかできなかった。
(そういうことなの)
 からかい。嘲り。気ままで人を食ったような言動。大事なものを奪っていったそれは「あなたを認めてはない」という意思表示に間違いなかった。


       *


 衣装の着付けにはだいぶと慣れたものの、着替えは毎朝女官の手を借りている。だからアマーリエに起きた異変に彼女たちが気付かないはずがないのだ。
「真様? 指環をどうなさったのですか?」
 ぎくり、と裾を合わせていた手が止まる。
 アイたちはアマーリエの着替えを見守りながら、細かいところを整えたり、髪型や飾りを選んだりするために近くにいる。左手薬指に指環がないことにはすぐ気付いていたのだろうが、アマーリエが何も言わないので焦れてしまったようだ。
「もしや、どこかに置き忘れて……?」
「探して参りましょうか?」
「いいえ皆様お待ちになって。他の形で着けていらっしゃるのではありませんの?」
 せっかく合わせた衣をがばりとはだけられ、「わあ!?」と素っ頓狂な声を上げてしまった。下着までめくられそうな勢いに、急いで部屋の隅に逃げる。じり、と迫る女官たちは、みんな整った顔に真剣味を浮かべていて、圧倒されてしまう。指環のことなんて一言も話していないのに、誰から贈られたものか知っているのだ。
「やっぱり、気付いてたんだ……? 指環のこと」
「当然ですわ。装飾品の管理もわたくしどもの仕事。見知らぬものを身に着けていらっしゃれば、自ずと天様が直接贈られたものだ、ということくらい察せられます」
 うふふ、と彼女たちは笑う。さざめく温い夜風のような妖しさだ。
「お、恐れ入りました……」
「それで? どうなさったんですか」
 頭を下げたものやっぱり逃がしてくれなかった。しかしアマーリエは頑なに口を閉ざし、首を振った。
「……ごめんなさい。いまは言わない」
 ここでリオンのことを言えば、アマーリエの味方をしてくれる彼女たちは一斉にリオンを非難することだろう。それは告げ口じみていると思ったから、誰にも言わないでおきたかった。
「……また引っ叩きましょうか?」
 にこやかに言われて、アマーリエは竦み上がった。
「そ、それは止めて」
「ならばお話しください。わたくしたちは、天様より真様をお守りするよう命じられております。あなた様をお助けするために、ここにいるのですわ」
 アマーリエは合わせた手にぎゅっと力を込める。あの指環は、ようやくキヨツグと想いを通わせた大事な証だ。証はなくとも繋がりは残っている、けれどあれがなければ、すべてが夢として消えてしまいそうな気がするのだ。こんなに弱気になるのはきっと彼がいないから。不安が解消されないままだからだろう。
 けれど、大事なものを取り上げられて黙っていられるほど、弱い人間ではないつもりだった。
「…………」
「真様」
 アイたちがアマーリエを守るのは仕事だが、それは少し、心地いいとは思えない。誰かを守れるものでありたい、と思う。守ってもらって当然だとは思いたくなかったし、いままでもそう考えて、手を借りたら相応のものを返そうとしてきたつもりだ。
 望むのはきっと、互いに思い合って、そうしたいと感じて行動すること。そのためには心を開いて絆を結ぶ必要がある。だから躊躇う意味はないのだけれど。
「失礼致しまする。真様、少しお尋ね申し上げたいことがあるのですが……」
 それでも一歩を踏み出せずにいたアマーリエに呼びかけたのは、今日も凛と美しいユメだった。アマーリエが女官に囲まれている状況を目の当たりにして、柳眉をひそめる。
「如何いたしましたか? この状況は……」
「なんでもないの。どうしたの?」
 アマーリエが先んじて否定すると、ユメは矛先を収めた。
「ならばいいのですが、まさかリオン姫がお持ちの指環のことではありますまいな?」
 ぴしり。アマーリエは石化した。ぎぎぎと音を立てて振り返ると、女官たちはみんな「んまあ」と口を開けている。
「確かですか、ユメ御前!?」
「ええ。真様がお持ちの指環と同じものをリオン姫がお持ちだったので、声をかけたのです。姫のお答えは、真様から預かったとのことでしたが、少々気になったので確認を」
「ゆ、ユメ御前……」
 がっくりと肩を落とす。黙っていた意味がなくなってしまった。
 ユメは不思議そうな顔をしていたが、これはもうみんなに話すしかないと覚悟を決めた。その場にいた全員に、仕方なく一連の出来事を打ち明けると、誰も彼も困惑し、あるいは戸惑った様子で眉をひそめていた。
「妙ですわね」
「ええ。リオン様はそのような意地悪をなさる方ではありませんから」
「そうなの……?」
 聞き返す声がつい恨みがましくなってしまうが、アイたちは頷いた。
「悪戯はなさいますが、意地悪な方ではございませんもの。さっぱりしたご気性ですし、嫌いな相手にはそもそも関わりません。ちなみに、シズカ様と犬猿の仲でいらっしゃいます」
「ああ……」
 思わず納得の声が漏れた。十年くらい前には、リオンが仕掛けた悪戯に引っかかったシズカが青筋を立てて怒り狂う、という漫画のような光景が繰り広げられていただろうとすぐに想像できた。
 だからそんなリオンが指環を取り上げたことが解せないらしい。みんな首をひねっているが、アマーリエだけは答えを知っていた。
 リオンはアマーリエを真夫人として認めていない。これに尽きるのだ。
「…………」
 リオンは栗色の髪に、焦げ茶の瞳の持ち主。中性的だが男性っぽい顔立ちをしていて、目の辺りがライカに似ており、彼女を男っぽく艶かしい顔立ちにした印象だった。すらりとした長身もその美貌も、リリス族の特徴に当てはまる。剣を帯びて軍を指揮するのだから強いのだろう。
 キヨツグとは、似ていない。
「真様。ハナ・リュウ殿がいらっしゃいました」
 いけない、とアマーリエは思考を振り払う。これから授業だ。また上の空になって、せっかく教えに来てくれているハナに失礼をするわけにはいかない。
「みんな、リオン殿は私がなんとかするから、もう何も言わないで」
 他にも調べたいことがある。協力者に心当たりがあるから、後で訪ねるつもりだった。
 そうして早く授業の準備をしようと告げれば、不満顔の女官たちは否応にも動かざるを得ないのだった。

<<  |    |  >>



|  HOME  |