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「騒がしいぞ! 何事だ!」
 響き渡った大声の主に向かって、その場にいた人々が頭を下げた。いちいち砂を蹴るような荒々しい歩みで現れたその人は、白髪の厳つい壮年の男性だ。アマーリエを見るなり不愉快そうに眉をひそめるが、無骨ながらも男らしく整った顔立ちだ。リリス族は歳を取った男性も、年齢に応じた美しさを有しているのだ。
「……誰だ、お前は」
 これに答えたのはリオンだ。
「お久しゅうございます、コウエイ様。セツエイの娘、リオンにございます」
「セツエイ? あのほわわんとした我が息子か? ふん、あの早死にした親不孝者の娘のことなど知らんわ」
「裳着の折にはお祝いの品をありがとうございました。お礼が遅くなって申し訳ございません。命山に昇られてからのご厚誼、誠に痛み入ります。私の歳を覚えていただけて嬉しゅうございました」
 途端、もごっとコウエイは口ごもった。
 裳着といえばリリス族の女性の成人の儀式のことで、だいたい十二歳から十四歳の間に行われる。リオンの言い方だと、コウエイは過去に孫の年齢をきちんと把握した上で祝いをしたようだ。
 態度と口の悪さに怯みかけていたが、本当は優しい人なのかもしれない。そう思っていると、今度はころころと笑い声が響いた。
「コウエイ様の負けでございますわ。あの衣装はあなた様がお見立てになったと、わたくしあのときの書簡に書いてしまいましたもの」
 女性を引き連れたその人は、白い髪をふっくらと結った老女だった。上品な丸い頬におおらかな微笑みを浮かべると、目尻に深い皺ができる。この人がそのようにして日々微笑んでいる証拠だった。
「お久しゅうございます、サオ様」
「まあ、他人行儀ね。おばあさまと呼んでちょうだいな、リオン。久しぶりね。元気なようで何よりだわ」
 アマーリエが親しげに抱き合っている二人を見ていると「おい」と言われた。すぐ隣にコウエイが立っていて、思わずびくつく。そんなことはお構いなしにじろじろと見回された。
「お前は誰だ? リリスではないな」
「あ、アマーリエ・エリカと申します。あの、キヨツグ様と結婚して、真夫人になりました」
 怯えるあまり、まったく礼儀も言葉遣いもなっていない自己紹介をしてしまったが、それよりもコウエイはアマーリエがリリスでないことの方に不審を抱いたようだった。
「真夫人だと? ヒト族がそのような格好をして。似合っておらんぞ!」
「まあ、あなたがそうなのね! 聞いていますよ。都市との同盟のためにいらしたんだったわね。わたくしたちの時代では、リリスはヒト族の国とは隔てられていたものだけれど、時は流れるものだこと」
 コウエイを無視したサオがアマーリエに近付き、手を取った。しっとりとした柔らかい手は、懐かしさがこみ上げる優しいものだった。
「初めまして。わたくしはサオ・シェン。この方はわたくしの夫、コウエイ様。命山までよく来てくれましたね、アマーリエ」
「こちらこそ……お会いできて、嬉しいです」
 大切に握り返すと、意外にもサオが強い力で返してくれた。驚いているとにこっと笑いかけられて、アマーリエも頬を緩めた。
 そうしてサオは不思議そうにリオンとアマーリエを見比べる。
「来たのはあなたたちだけなの? キヨツグはどうしたの」
「来るわけなかろう。来たとしても会えぬことがわかっているからな」
 コウエイが吐き捨て、アマーリエは内心で首を傾げた。
 キヨツグが来たとしても、誰に会えないというのか。コウエイとサオのことだろうか。だが直後、サオが強い声で否定した。
「違うのよ。わたくしもコウエイ様も、キヨツグのことは我が孫のように思っているのよ。ただ、あの子に会わないと決めている方がいて……けれどキヨツグは一度会いたいと思っているはずだから、哀れで」
 アマーリエははっとした。
(キヨツグ様の実のご両親、やっぱりここにいるんだ)
「ふん、あの男がそんな可愛らしいことを思っているはずなかろう」
「あまり意地悪なことばかり言うと、あの方に叱られてしまいますよ」
 悪態が不自然なくらいぴたりと止んだ。
 サオがくすりと笑いをこぼし、アマーリエたちを促した。
「さあ、部屋の準備ができたでしょうから、そちらで少し休憩なさいな。その後で、はるばる命山まで来た理由を教えてちょうだい」

 通された部屋はまるで空に浮かんでいるかのような場所だった。なにせ窓の外が切り立った崖なのだ。
 旧東洋風でまとめられた室内は狭いながらも、人を優しく迎え入れる空気が感じられた。リリスの最高機関と言われているはずなのに、磨き上げられた机や棚などがどこか庶民的で安心する雰囲気なのだった。一輪挿しに飾られた花の枝が上品で可愛らしい。
 けれど、こんな不便なところに住むことの理由がよくわからないのは、アマーリエがまだリリスらしい考え方を持てないからだろう。
 先々代の族長夫妻であるコウエイとサオは、生き神として崇められているということを忘れてしまうくらいには、見た目も会話の様子もごく普通の老年の夫婦だった。気になるのは、この場所にいる二人以外の人々のこと。
(……少し、歩いてきてみてもいいかな)
 もしかしたらもう二度と立ち入ることができないかもしれない場所だ。できる限りこの目で確かめておきたかった。幸いにも付き添いは誰もいないし、人がやってくる気配もない。王宮でいるときのように、常に誰かに見守られているわけではないし、一人で出歩くのはよろしくないと言われることもないのだ。
 念のため書き置きをしておこうと筆記具を手に取る。筆は一点ものらしい雰囲気を醸し出していて、慣れていないよれた自分の字が情けなくなってしまった。命山の人々に笑われないといいのだが。
 部屋を出て、気になる方向に足を向けてみる。
 建物を見ると、いくつかの建物を廊下で繋ぐ造りは王宮と同じだったが、全体的に古い印象だった。それでも丁寧に手入れをしているのがわかるくらい、どこもかしこも清潔だ。塵一つ落ちていない。
 庭に降りて見上げた空は、どこよりも高いところで見ているせいか、とても綺麗な透き通った青だった。なのにここが雲の上だと思えないほど、息がしやすい。それほど長く山を登っていたはずがなく、首を捻る。何か不思議な力が働いているのかもしれないと想像力が逞しくなってしまう。
 それにしても、まったく人とすれ違わない。
 呼べばすぐに誰かしら現れるのだろうけれど、空気や影に溶けている感じがした。こちらを見てはいるけれど、それを感じさせないさりげなさだ。
 ふと、道が開けた。
 庭の緑がふっつりと消えてなくなり、建物も見えなくなった。ぽかんと突き抜けた真っ白な場所は、細かな砂利が作っている。透明な空の下、太陽の光でそれらの石が発光していた。陽炎のように光が沸き立ち、その向こうに、細く黒い影がくっきりと浮かんでいる。
(……影?)
 目を凝らしたときには影は消えていた。
 それを少しも悩まずに追いかけた。
 しゃくしゃくと、まるで氷を砕くような音が立つ。砂埃は立たない。そうだろうという確信があった。そうして進んでいくと、白い世界だけが広がっているように見えたのは、そこが緩やかな下り坂になっているからだと知った。影が見えなくなったのもそのせいだ。
 そうしてアマーリエは歩調を緩めた。道の先に、何かある。
 ただ白く広いその場所に横たわっていたものは、どうやら、剣、のようだった。
 剣は柄を握りやすくするよう布が巻かれたもので、刃は薄く曇り、陽光を反射していた。撮影の小道具めいているけれど、底知れない何かを秘めているような気がして、触れることはためらわれた。長く使われた道具に宿るものがあると聞いたことがあるが、これはきっとそれなのだろう。
「……あれ?」
 すぐ近くで澄んだ声がした。
 振り向くと女性が立っていた。黒い髪を流し、裾も袖も引きずる、シンプルな色合いだけれど神々しい織りのリリスの装束を着ている。
 その瞳は黒。漆黒の、本当の黒だ。
 竦んでしまったアマーリエに、彼女は微笑みを浮かべて、さりさりと音を鳴らしながら近付いてくる。背は少し高めで、手足が長いのだろう、動きがきびきびと鋭い。
 近付いてきたその人が、アマーリエの顔を覗き込む。
「やあ、ご機嫌よう、ヒト族のお嬢さん。こんなところで何をしているの?」
 楽しげに笑う顔は、アマーリエより少し年上に見える。しかしアマーリエはその目に釘付けになっていた。
 この人は、リリス族じゃない。瞳の形が違う。ヒト族と同じ丸い目だ。
 リリスの国にヒト族がいるなんて聞いたことがない。しかもここは聖地である命山。リリスの最高機関にいるヒト族なんて、どういうことなのだろう。何故? 疑問が止まない。ぽかんと口を開けてその人を凝視し続ける。
 そのアマーリエの髪が、つんっと引っ張られた。
「痛っ」
「あっ、ごめんごめん。痛かったよね。何にも言わないから幻なのかと思っちゃったんだ。実体でよかったよ。たまにいるんだよね、気付かず迷い込んでくる人」
 掴んでいた髪の先をぱっと離し、また「ごめんね」と言いながらアマーリエの頭を撫でる。突然の距離感に驚いて身を竦めながら、アマーリエは一歩退いた。
「す、すみません。こんにちは、あっ、ご機嫌よう……!」
「こんにちは、でいいよ」
 彼女はくすくす笑った。
 この、奇妙なやり取りはなんだろう。まさかこんなところで、同級生にするように髪を引っ張られるなんて。聖地に来たはずなのにちぐはぐな感じがする。アマーリエもこの人も、突然ここに飛ばされてきて邂逅したような、偶然が重なって出会ったような、そんな雰囲気だ。
「そうか、あなただね、族長と結婚した女の子。ねえ、名前を教えてくれる?」
「アマーリエと申します。あの、あなたは……?」
 途端に彼女は目を見開き、噴き出すようにして笑った。
「久しぶりに名前を聞かれた!」
「……はい?」
 アマーリエがぽかんとしていると、彼女はくつくつ笑いの合間に教えてくれた。
「ここの顔ぶれはあんまり変わらないし、わざわざ私に名前を尋ねる人もいないから、すごく新鮮だったんだ。うん、そうだね。私も名乗らなくちゃいけないよね」
 だが腕を組んで唸ってしまった。
「うーん、そうは言っても、私には名前がいっぱいあるんだよ。どれが一番わかりやすいかな? やっぱり命山にいる存在らしいものの方が通りがいいかな」
 彼女はふっと視線を空にやった。風が吹いたのだ。遠いところに耳を澄ますように目を閉じて、緩やかに流れる空気の音を聞いている。その呼び声に答えるようにして、髪を押さえながら、彼女は笑みとともに名を告げた。それまでとは一変した、豊かに響く厳かな声で。
「――私は、リリス。ヒト族でありリリス族の最初の女、エリコ・リリス・キサラギ。初めましてアマーリエ。ヒト族の真夫人」

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