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 アマーリエを静かな衝撃を襲った。
 この人がリリス。年若い女性でしかない彼女こそ女神と呼ばれる存在なのだ。
 無意識に膝をついたけれど、それを止めたのはリリスその人だった。
「いい、いいから。立って」
「でも」
「ううん。神様なんて言われてるけど、私は不思議な力を持っているわけじゃないし、神様らしいことなんて何もしてあげられていないんだから、跪く必要なんてまったくない。私はすごく長く生きて、この世界の変化を見てきた、ただそれだけの存在なんだ」
 深い色の瞳は、計り知れない寂しさを秘めていて、それを癒したくてアマーリエは彼女の言うことに従った。まるで褒めるようににこりと笑われたとき、ちぐはぐに感じていた理由がわかった。見た目や言動とは正反対の、気高さと冷厳さがふと滲むからだ。
 それを軽やかに隠して、彼女は笑う。
「アマーリエっていうのは旧暦西洋風の名前だね。ヒト族はいまではそういう名前が一般的なのかな? 私のエリコって名前は、曽祖母が自分の祖母の名前をつけたっていう古いものなんだけど、こういう響きの名前のヒト族は少ないんだろうか」
「そう、ですね。血を守っている旧東洋の血筋の人たちもいますが、ほとんどは血が混じって、どちらかというと旧西洋由来の名前をつける人が多いみたいです。綴りは、今風に変える人が多いです。私みたいに」
「どんな風に書くの?」
 差し出された手のひらの上に指で名前を書く。都市のヒト族は発音はそのままにしながら、似た発音の文字に変更して表記する名前が多い。アマーリエ・エリカというのも、それぞれ元になった綴りを変化させた表記になっている。
「アマーリエ・エリカ。エリカか。いい名前だね」
「リリスには、エリカという名前の花が咲くんだと聞きました」
「『グラィエーシア』だね」
 アマーリエがきょとんとすると、彼女は慌てたように額を押さえて顔をしかめた。
「ああ、ごめん、もしかして伝わらなかったかな? 時々いまは使われていない言葉を使っちゃって、よく困惑されるんだよね」
「いえ、こちらこそ、申し訳ありません。どういう意味だったんですか?」
「うーんと、それらしく言うと……『灰色世界の花なるもの』、ってところかな。苦境に咲くものとか、厳しい環境下に出現した楽土とか、そういう意味の言葉なんだけど……伝わった?」
「はい」
 なんとなくだけれど、リリスがエリカという花を大事に思って表現したことはわかった。そうしてほっとしたように微笑む彼女は、アマーリエの想像する神様の気難しさの欠片も見当たらない、普通の女性で、つい頬が緩んだ。
「だめだなあ、感覚が古くならないように気をつけてるつもりなんだけど。さすがに五百年近く引きこもってるとなあ」
「五……」
 思わず絶句した。桁が違いすぎる。
「長生きでしょ? 私もこんなに長く生きるつもりはなかったんだけど。五十年で寿命だったしね。いまはもうちょっと長いのかな?」
「……リリス族が、五十年?」
「ううん、ヒト族の平均年齢が五十歳だった。リリス族はもっと長かったよ。血が混じってだいぶと短くなったようだっていうのは、ここに来る人たちから聞いてる。百五十前後だっけ?」
 リリス族が、いまよりも長い寿命を持っていた? ヒト族の寿命が五十歳前後だったなんてどれくらい過去の話なのだろう。彼女が会ったばかりの人間に嘘を語るとは思えないから、リリス族はアマーリエの知る以上に長命な種族だったようだ。
「……ヒト族の平均寿命は、七十歳です」
 そう答えるのが精一杯だった。長くなったねえというのが女神の感想だったが、目眩を覚えてしまった。なんだか噛み合わない会話をしている気がする。
「おっと、いけないいけない。嬉しくなっちゃってつい世間話しちゃった」
 にこにこと、まるで遠くから訪ねてきた親類を歓迎するかのように彼女は小首を傾げた。
「アマーリエは、どうしてここに来たの? 命山に来るなんて、滅多なことじゃないと思うんだけど」
 はっとした。
 この人は、知っているはず。秘密のすべてで作り上げられたかのような彼女は、求める答えを持っている、そのはずだった。
「キヨツグ・シェン様が何者なのかを確かめたくて、ここに来ました」
 意を決して、アマーリエは、自分が原因で秘密裏に行われた政略結婚が公に知られてしまったこと、その対応のためにキヨツグが都市へと出向き、同時に都市側がキヨツグの族長としての立場を危ぶんでいることを説明した。
 リリスはそれまでの無邪気さを潜めて、アマーリエの話す地上の出来事を静かに聞いていた。
「……状況はわかった」
 リリスは頷いた。
「それで、アマーリエは命山にどうして欲しいの?」
「直系でなくともキヨツグ様が族長であることは正しいことだと保証していただきたいんです。王宮には反族長派と呼ばれる人たちがいます。その人たちはリオン殿を族長として担ぎ出そうとしているようです。そうなれば、同盟も私たちの結婚も破綻してしまう。それは絶対に回避したいんです」
 リリスは淡い笑みを刷いた。
「あの子はセツエイとライカの息子のはずだけれど」
「……命山に実のご両親がいるんですよね?」
「そこまで知ってるのか」
 苦笑を浮かべたリリスは腕を組んだ。
「本人はなんて言ってるのかな? そのことについては話してない?」
 これには思わず突かれたように言葉を飲んでしまったのは、諭されるとわかっていたからだが、答えないわけにはいかない。
「…………戻ってきたら、話したいことがあると言われました」
「だったら本人に任せればいい。彼にはそれだけの能力がある。彼の良いようにするだろう」
「それじゃだめなんです!!」
 衝動的に叫んで、青ざめた。
「も、申し訳――」
「謝らなくていい」
 女神と崇められている人に向かって声を荒げるなんて、無礼なことをしてしまった。謝罪を口にすると、リリスはさっと手を振ってそれを止めさせる。
「あなたのその感情は大事なものだ。抑え込んではいけない。だから聞かせてほしいんだ。何故、キヨツグに任せてはいけないの?」
 胸元を強く握りしめていたのを、鈍い痛みで自覚する。
 視線が落ちた。
 キヨツグに任せれば、きっとアマーリエにとって最良の選択がなされるだろう。尋ねれば教えてくれる。子どもの頃のことも、両親のことも、出生についてだって。
 でもそれは躊躇われた。彼の約束に背を向けるような真似をして、命山に来ることには恐れを抱かなかったというのに。アマーリエは首を振る。小さく、何度も。
「何故、出来ないの?」
「それは……」
 アマーリエが黙り込むと、リリスは優しくなだめる調子になった。
「キヨツグの約束を、あなたは待つことができなかった。都市が疑っていることを知って慌てたのかな。なんとかしたくて急いでいたんだろうか。それとも、あなたも疑ってしまったんだろうか――キヨツグのことを」
 手を取られる。
 その細く節くれだった指は、聖地で崇められて暮らす女性らしくない、男っぽいものだった。その手が柔らかに、けれど有無を言わせない力でアマーリエを捕らえる。本当の黒の中から生まれたような漆黒の瞳が、薄く淡いアマーリエの目を覗き込むようにして絡め取っていく。
 ――止めて。
「いい? よく考えてみて」
 震えた。だめだそれ以上は、と痺れるような警鐘が聞こえる。
 ――暴かれてしまう。
「キヨツグがあなたに約束したとき、あなたはどう思ったんだろう」
 間が空いた。考えるための間だ。
 思考を停止されてただ恐れのままに首を振るアマーリエに、リリスは微笑みながら、恐れていたものを口にした。
「私ならきっとこう思う――『どうしていま話してくれないの?』って」
 心を明かすまでに時間を要した私に、あの人を詰る資格はないと、そう思った。そのように自分を納得させたのだ。思いを飲み込んで、物分かりのいいふりをした。でも、本当は。
 アマーリエは膝から崩れ落ちて、震える息を吐いた。目から熱いものが溢れ出してくる。唇を噛み締めたのは、否定しようと、耳を塞ごうと足掻いた証だった。
 でももうだめだった。
 遠大な時間を生きてきたこの人には、アマーリエのちっぽけな思いは愚かに過ぎることだろう。けれどリリスの言う通りだった。キヨツグが戻ってきたらと告げたとき、アマーリエは失望したのだ。
 いまじゃだめなのか。私はまだそこまで信用されていないということか。
 私はあなたに心をあげたいのに、あなたはそうではないというの?
「……わかっているんです。ちゃんと、わかっていたつもりなんです」
 言い訳じみた泣き声で告げていた。
 彼女の漆黒が、彼に似ていたから。
「話すためには勇気が必要な事柄がある。完璧に見えたあの人にも恐れるものがあるんだろうって、想像できたはずだった。なのに思ってしまった。私が思うほど、あの人は私のことを思っていてくれていないんじゃないかって」
 秘密を抱いたあの人と、その秘密が許せなかった。彼を丸ごと自分のものにしたい衝動が抑えきれなくて、たくさんの無様な振る舞いをした。彼の秘密を暴き立てるような強欲な真似をして、結果、女神と呼ばれる人に卑小な願いを見透かされた。
「それが怖くて、だって、私たちは」
 それは隠していた醜い欲望、あるいは恐怖。
「私たちは……私は――いつか、隔てられてしまう」
 ヒト族とリリス族。その寿命の違いは、明らかすぎるくらい明らかだった。最初からわかっていたはずだった。自分とは違う種族と結婚するのだと日々理解するようになったはずだ。
 キヨツグは三十代で二十代の外見。アマーリエはもうすぐ二十歳になる。十年も経てば、アマーリエは確実に彼よりも年上の見た目になっていることだろう。確実に歳を取っていく。
 怖い。置いていくことも、老いていくことも。
 だから求めたのだ。大きくなった気持ちであの人を覆って飲み込んでしまいたくなる。すべて自分のものにしたい。過去も現在も未来も、身体も心も。そうすればきっと安心できる。彼が絶対に離れていくことはなければ安らかでいられる。
 それがすべての動機だった。
 そういうところを、キヨツグには知られたくなかったのだ。アマーリエを清らかでいとけないもののように見つめる彼だけには、彼の信じるものでありたかった。
 初めて口にした不安は重く、苦しく、切ない。涙が、溢れて止まらない。いまさらに、どれほど遠いのかを思い知らされる。
 精一杯、呼吸を繰り返した。吐き出した思いを再び沈める。
 それをリリスは寄り添って見守っていてくれた。
「……すみません、泣いたりして」
 リリスは首を振った。立ち上がるのを手伝ってくれる。アマーリエのなけなしの勇気と虚勢を見抜きながら、受け止めようとしてくれる優しさが触れた手から伝わってきた。
「心を抱えていくことは、辛いよ」
 呟きは静かに落ちていく。
「だから半分ずつ持つように分け合うんだ。でもアマーリエはそれが怖いんだね。心を与え合った幸せの分だけ、未来のことが不安になってしまうんだね」
 また瞳を潤ませるアマーリエに、リリスは寂しそうに笑う。
 彼女も同じ痛みを覚えたことがあるのだと、涙を堪えながら思う。
「……ごめん。あなたの悲しみは、私の罪だ」
 どういう意味かと問おうとしたアマーリエの頬に、リリスの手が触れる。子どもを撫でさするように、額を合わせるようにして近付いたリリスは、目を伏せ、何かを祈っているようだった。
「……リリス……?」
 恐る恐る名を呼ぶと、瞼が少しずつ開き、漆黒の目がアマーリエを捉えた。何かを堪えるように眉をひそめながら、彼女は微笑みを浮かべてみせようとするけれど、これまでとは違ってどこかぎこちなかった。
「キヨツグが何者なのか知りたいって言ったね。私なら答えてあげられる」
 アマーリエがはっとし、唇を震わせて、頷いた。教えてほしいというささやかな意思表示を見た彼女は、笑みを深くし、一度息を吐いた。
「……あの子は最初の血統を継いだリリスだ。地上にいるどのリリスよりも濃い、始祖と呼ばれるものの直系。だからシェン家の直系ではなく彼が族長位に就いた。彼以上に純血のリリスはいないからだ」
「始祖の直系……じゃあここに」
 竜が、という信じがたい言葉を飲み込んだが、彼女は曖昧な微笑で首を振った。
「始祖はここにはいない。いまは私の代わりに地上を見てくれてる」
 ほっとしたような残念なような、複雑な気持ちで、アマーリエは視線を落とした。リリス族とも異なる超常的な存在である竜と顔を合わせるようなことがあれば、とても平静でいられなかったかもしれない。
 その始祖の直系であること、それがキヨツグの秘密。リリス族が公然の秘密として、あるいは伏せられているがゆえに怪しまれていた、彼の存在に隠されていた真実なのだった。
 けれどもしそのことが証明できれば、反族長派も都市も必ず納得させることができるだろう。反族長派が血統を重んじるならばキヨツグ以上の人物はいない。彼らが従えば、キヨツグの立場を脅かすものがいなくなる。
「何か、その証にできるようなものはあるんですか……?」
「証拠と言われると難しいけれど、なんとかしよう。少し時間をちょうだい。あなたが王宮に帰る頃には手を打っておくから」
 リリスは立ちすくむアマーリエの肩を叩く。
「私にできることをするよ。キヨツグを族長から下ろさせはしないし、二人を離婚させることもないからね。大丈夫、安心して」
 大丈夫。その一言がアマーリエを解放した。
 全身から力が抜けてへたり込みそうになるのを、リリスが笑って支えてくれる。
「本当に、よくここまで来たね。言いたくないことを言わせてしまってごめん」
「いいえ……いいえ……! ありがとう、ございます、ありがとうございます……!」
 今度は安堵からくる涙だった。身勝手な振る舞いをしておきながら、こうして救われようとしている。自責と自己嫌悪に苛まれながら、アマーリエはリリスにしがみついたが、彼女はそれをもすべて受け止めてくれた。
「……私たちはこの世の理の外にいる、度し難い化け物だけれど、いつだって悲しんでいる人には手を差し伸べたいし、困っているなら助けたい。困難な道を行く人の背中を押すものでありたいんだ」
 アマーリエは首を振る。何度も首を横にした。
 こうして手を差し伸べてくれる人たちのことをどうして化け物なんて思うことができるだろう。
「生きている限り、それは命です」
 リリスは、笑う。柔らかに、一欠片の悲しみとともに。
「ありがとう。キヨツグを愛してくれたのが、あなたでよかった」
 囁き声が告げて、アマーリエは動きを止めた。彼女の声の響きに感情が伴い、どこか潤んでいるように聞こえたからだ。
 身体を離して見つめたリリスは最も晴れやかで美しい笑顔になった。そのとき、様々なピースがはまっていく音が聞こえた気がした。
「私の息子だ」
 ああだから、彼女は。
 こうしてアマーリエを受け止めてくれたのだ。遠く離れているキヨツグのために、力を尽くそうとしてくれている。ただ思いに突き動かされて、命山にやってきたアマーリエに、それに報いるように動いてくれる。
 ひたすら、感謝しかなかった。アマーリエは深く頭を下げたのを、リリスはまた抱きしめてくれた。

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