―― 第 13 章
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 冬の褪せたような草原に、色彩を更に吸い取るような白雪が降ってきた。
 銀灰色の雲の下、シャドの黒い屋根の続く街並みはすっかり雪によって覆われている。雪解け水に濡れた道を、上着や毛皮の前を掻き合わせた人々や馬車が雪塊を蹴飛ばし行き交うのは、都市でもリリスの街でも変わらぬ光景のように思える。違うのは、雪かきを行うのがすべて人力であるということだ。
 夏の緑、秋の黄金は過ぎ去り、あっという間に冬の白へと至ったことを思いながら、アマーリエは窓に向かって息を吐き出した。
 診療所の待合室に人はいない。唯一の患者はいま診察室に入っている。看護師たちには人がいないいまのうちに休憩に行ってもらっているので、事務室にはアマーリエ一人だけだった。
 今日のように天候の悪い日には患者の足が遠のくから、受付に座って、借りた医学書を読んだり、真夫人として覚えなければならないことのおさらいをしたりしている。
 だが王宮とは違って、街に出ると女官はおらず護衛は最低限だからか、ふと、自分のいる場所のことや過ぎ行く日々のことを思い返してしまうのだ。
 筆記具の位置も、カルテの入っている戸棚のことも、医師たちに密かに出しているおやつの在り処もすっかり覚えて、新しく入った事務員や薬師にこの診療所について説明するようにもなった。それだけ時間が流れているということだ。
(リリスに来て、もう一年か……)
 年末年始の、記憶が飛ぶくらいの忙しなさを思い出したとき、廊下の向こうから扉が開く音がした。直後、激しい足音が近付いてくる。
 ばたん、と扉が開く大きな音とともに姿を現したのは、診察室に入っているはずの患者の少年だった。紅潮した頬に潤んだ目は、彼が高熱に苛まれていることを表している。
「お外!」
 こちらを見るなり叫んだ彼に、アマーリエは目を瞬かせた。
「お外で遊ぶからっ!」
 宣言するなり身を翻してしまうので、慌てて後ろから肩を押さえて捕まえる。大きな仕草で振り解かれ、腕が顔に当たったが、痛みをこらえてしゃがみこみ、彼をこちらに向き直らせた。
「どうしたの? まだお熱があるのに、外に行くの?」
「だって遊びたい!」
 そう言って駄々をこねて身体をくねらせ、アマーリエから逃れようとする。リリス族は子どもであっても強い力を持っていて、コントロールができない彼らは思いがけない怪力や跳躍力をみせて、医師や薬や大人から逃げるのだ。
 こういうとき、アマーリエは無理に押さえつけないようにしている。力ではなかなか勝てないし、ただ言うことを聞かせるだけではさらにストレスが溜まるのは自らの経験でわかっているからだ。
「そうだよね、遊びたいよね」
 診察室から出てきた彼の母親や、診察していたハナや看護師の姿を視界の端に捉えながら、涙目になる少年の頬を撫でる。
「でも、いま外で遊ぶと、風邪が治らなくなるのはわかるよね? 熱が上がっていまよりもっと苦しくなったら、どうするの?」
「遊びたいの!」
「私は、どうするのって聞いてるの」
 静かに繰り返すと、少年は黙った。苛立ったように眉を寄せているのは、きっと熱で頭が回らないせいもあるのだろう。上手い回答が絞り出せず、かといって駄々をこねるには矜持が許さないのか、どんどん涙目になり、ついには「うあああん」と泣き始めた。言い負かしてしまったのは大人気なかったなと反省しつつ、彼の肩を叩く。
「そう、お医者様に診てもらって、薬を飲んで、遊ばずにきちんと休まないと治らないよね。ちゃんとわかってるよね」
 大泣きした彼は母親に抱き上げられて再び診察室に連れ戻されていき、しばらくして待合室に戻ってきた。かなり泣き疲れたらしく、母親の腕の中でうつらうつらしている。
「こちら、お願いします」
「はい」
 ハナが持ってきたカルテを元に、看護師と手分けして調剤を行う。風邪薬の類は古くならないように管理しながら定期的に在庫を準備してあるので、間違いがないように指示された薬を揃える作業だ。
「申し訳ありません、泣かせてしまって」
 薬を取りに来た母親にアマーリエが謝罪すると、彼女は苦笑して首を振った。
「いいえ。癇癪を起こして興奮するばかりで、なかなか寝てくれなかったので助かりました。この雪ですから、お友達とも遊べないことで、余計に意固地になってしまったようです。元服も控えているので長引く風邪でなければいいんですが」
 腕の中の息子を愛おしげに見つめて、彼女は微笑む。
「元服ですか。いくつになりましたか?」
 ハナが看護師から受け取った薬の袋を手渡しながら言った。
「九つです。もう(そら)に連れていかれることもないと思って、元服を決めたのに」
 そうして彼女ははっとしたように口をつぐみ、曖昧な表情を浮かべた。アマーリエは気付かなかったふりをして、看護師とともに「お大事に」と親子を見送る。幸いにも雪はひとときのことだったようで、息子を背負った母親は危なげなく濡れた道をしっかりした足取りで帰っていった。
 距離が離れたのを見届けて、つい、ため息が出た。
(みんなも私も、気にしすぎなのはわかってるんだけど……)
 するとその道を逆に、こちらに向かってくる人影が二つ。
「あら、シキ。それにユメ御前も」
 アマーリエの背後からそれを認めたハナが声を上げる。
「お疲れ様です、母さん」
「お迎えにあがりました、真様」
 荷物を届けにきたというシキと、診療所の中で待機していた護衛と入れ替わりにやってきたユメを招き入れて、王宮に戻るための帰り支度を始める。荷物を持って待合室に出てくると、ちょうどシキと顔を合わせた。
「ご無沙汰だね、真様」
「うん、久しぶり、シキ。最後にお茶を飲みに行ったのって年が明ける前だよね」
 アマーリエが答えると、彼は微妙な顔になった。
「そう、極月の凄まじい忙しさが始まる前。無事に乗り越えられてよかったよ。慣れていても、年末年始は目が回るほど慌ただしいから」
 シキに言われて、アマーリエは乾いた笑いを漏らしてしまった。
 これまで都市で過ごした年末年始は家でのんびり、外出するときは初詣というものだったが、リリス族に嫁いで初めて過ごすそれは、神事や祭祀、公務といった行事が分刻みで行われる過密な一ヶ月となったのだった。
 まず十二月半ばから祝賀行事の準備が始まり、王宮は慌ただしくなった。アマーリエには初めてのことだったので、儀式の手順やら、顔を合わせなければならない人の名前やらを詰め込む毎日だった。それだけでなく、祭祀の際に身につけなければならない衣装や、参賀においての晴れ着を用意する必要もあったし、作法のおさらいをする必要もあった。
 そうしている間に大晦日。大祓の儀を皮切りに、年末年始の行事は次々に執り行われていく。
 夜半すぎまで続く儀式の後、夜が明ける頃に天地拝、そして歳旦祭だ。
 天地拝は、天の者であるリリスの始祖と地の者に五穀豊穣と国の安寧を祈願する祭祀だ。歳旦祭は、始祖の他にリリスの歴代の祖霊にも加護を祈念する。族長としてリリスを託されているキヨツグはもちろん、その伴侶であるアマーリエも真夫人として儀式に臨んだ。
 くたくたになって眠りについた翌日も行事は続く。二日にはリリス中から集った氏族の代表者たちの参賀があるのだ。これは夜遅くまで続き、三日になると男女に分かれて交流会めいた挨拶の会が催される。アマーリエはひたすら、挨拶を受けて微笑みながら決まった言葉を返すだけの会だった。
 これらを終えてようやく、リリスでの一年が始まる。
 しかし、あまりの忙しさに記憶の大部分が飛んでしまっている。
 ただの一大学生だったアマーリエが、異種族へ嫁ぎ、初めて過ごす年末年始だったが、気付いたときには侍従長や女官長から「無事に終えられて何よりでした」「ご立派でございました」とお褒めの言葉をちょうだいしていた。苦情も叱責もなかったので、記憶はないながらも、きっと何事もなく切り抜けられたのだろう、と思いたい。
 そのようにして王宮はしばらく死屍累々といった感じだったが、一月も半ばを過ぎてようやく人心地ついたようだ。アマーリエもこうして診療所の手伝いができるくらいには、以前と変わらない日々が戻ってきた。
「おかげさまで、なんとかやり遂げることができたよ。これが毎年のことかと思うとぞっとするけど」
 アマーリエが肩を落とすと、シキはくすくすと笑い声を漏らした。
「一年なんてあっという間だからね。君も……」
 シキは穏やかな微笑みを浮かべて、アマーリエに視線を注ぐ。
「……君も、一年でとても綺麗になったよ」
 惜しみない褒め言葉に、頬が熱くなってちりちりとした。
「そう? 真夫人らしくなったかな。お世辞でも嬉しい」
 照れていると、シキは深く笑った。
 本当のことだよ、と言われている気がした。彼が言うのだから、きっとアマーリエの変化は見た目にも明らかなのだろう。食生活の改善や十分な運動で健康体になった実感はあるし、見た目を重視する女官たちによって髪や肌を毎日磨かれて、少女と呼ばれていた頃から少しずつ大人に近付いているような気がしている。
 ただ、その変化は別の意味も含んでいる。
 綺麗になったと言われた、それがもし本当だとすれば。
「シキ、ごめんなさい。これも持って行ってくれる?」
 診察室の扉を開けてハナが現れ、手にした本をシキに手渡す。彼はこれからおつかいで街を巡ると言うので、過ぎる思いを振り払ったアマーリエも診療所を後にすることにした。
「そろそろお暇します。また後日、よろしくお願いします。シキ、お先に」
「ありがとうございました、真様。次は授業の日にお会いしましょう」
「うん、気を付けて戻ってね」
 落花の手綱を握って待ってくれていたユメと合流したアマーリエは、診療所を出て王宮を目指したが、少し考えて振り返った。
「ちょっとだけ、寄り道していいかな」
 診療所からの帰り道でユメと二人になると、アマーリエはこの台詞を口にする。
 心得ているユメは「はい」とだけ答えて黙ってついてきてくれる。
 そうして街を出てしばらく走る。
 シャドからあまり離れていない場所に、その祠はある。
 人の形を模したような瓢箪型の石が、小さな屋根の下に安置されている。周りには供え物の菓子や飲み物や花が置かれ、参拝者の手作りなのか紫色の布で飾りを作ってあった。
 その前に膝を折って、アマーリエは手を合わせた。王宮にある祖霊の廟には安穏の祈りを、こうして大地につながる場所には願いをするのが習慣となりつつあった。
 ヒト族の多くは明確な神様を持たない。偲ばれる故人は近親者が多く、祖父母より遠い親族の冥福を祈ることを習慣にする者は少ない。そのせいかアマーリエも、祈るというよりは自らの秘めた思いを唱えるだけになっている。
 けれどこうしてあちこちに祈りの対象があると、心が凪ぐことをリリスに来て初めて知った。
 リリスの各地にある社や祠は、始祖と同じ、古い者を祀ったものであることをキヨツグに教えてもらった。これらは女神の眷属で、守り神のようなものらしい。命山に女神がいるのだから、きっと守り神もこの大地を見守っているのだろう。
(あの子の風邪が快くなりますように)
 そう祈ったのは、母親は落ち着いていたが、内心は不安でたまらないに違いないと思ったからだ。
 リリスは頑健で長寿の種族だが、それは大人の話だ。子どもは六歳くらいまでは風邪でも油断できず、各地の薬師や医師が治療に当たるものの、力及ばず亡くなることも珍しくない。
 ハナはそうした現実をアマーリエに見せるために、診療所で仕事をすることに頷いてくれたのだろう。それを了承してくれたキヨツグもだ。王宮で守られて暮らしているだけだと、どうしても希薄になるものがある。薬を出すだけでなく、事故によって運び込まれてくる人々のトリアージや、重篤な症状で担ぎ込まれる患者を治療するサポートなど、命に接する仕事は、アマーリエにとって現実を感じる強い薬だった。ときには毒とも思えるほどに。
(役目を、果たさなければ)
 漫然と生きるのではなく、ここにいる意味を、その役目をまっとうしなければならない。リリスの民草に担がれ仰がれる、真夫人という立場を持つ自分にはその責任がある。
 多分――とアマーリエは何度も思考したそれを思う。
 リリス族ではない自分が族長の花嫁として容認されたのは、ヒト族としての受胎能力を期待されたのだろう。リリス族にヒト族の血を取り入れることで、跡継ぎを確実に儲けようと考えた人々がいたはずだった。
 いくらキヨツグが、アマーリエがリリスに来た頃のように巧みに悪意を遠ざけたとしても、アマーリエ自身がその問題に気付いているのだから意味がない。気付こうと思えば、いくらでもその気配が感じ取れる。
 キヨツグが命山の主と血の繋がりがあることが広く知られたいま、跡継ぎを望む声は日に日に大きくなっている。女神がお認めになった花嫁はきっと良い御子を産むことだろうと、期待されている。
 結婚して一年が経ち、そろそろではないかという待望の声も、授かりものだからと落胆混じりの声も、すでにアマーリエの耳に届いていた。いや、そもそもそれらの声はアマーリエ自身から生まれたものでもある。
 ちくり、と刺す下腹部の痛みに、アマーリエは眉を寄せた。
 気持ちが後ろ向きになり、身体のだるさや腹部の鈍痛に苛立ちを覚えてしまうのは月のものが理由だ。厄介なのはこれが不規則であることで、妊娠を期待してはがっかりすることをこの半年繰り返している。
 健康に問題がないことは結婚する前の検査で証明されていたから、これはアマーリエの体質だ。環境の変化や心理的な影響を強く受ける身体なのだろう。
 思い詰めるのはよくないと理解しつつも、どこか女性として欠陥があるように感じられてしまう。まるで人間として正しく生きられていないような。
「真様」
 長い間そこに座り込んでいたアマーリエを見かねて、ユメが呼んだ。
「そろそろ参りましょう。皆が心配いたしますゆえ」
「……うん」
 立ち上がって裾を払い、落花に騎乗して馬首を返す。
 冬の冷たい風とまた降ってきた白い花を身体に受けつつ、春はいつ来るのだろうと思いを馳せた。あの暖かくて優しい、花の咲く季節は、どのくらい待てばアマーリエの元にやってきてくれるのか。
 それは時間が流れるという残酷な現実でもある。
 まだ、という言い方もできるが、もう、一年。
 綺麗になったよと言われた。それはアマーリエが時を進めているということだ。リリス族よりも、数倍の速さで。

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