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「お帰りなさいませ、真様」
「ただいま」
 出迎えの女官たちに戻ったことを告げ、衣装を改めてもらった後はみんなでお茶をする。手が空いている者は相伴に預かろうと姿を見せるので、アマーリエは積極的にお茶菓子を振る舞った。
 話し下手のままではいけないと思うのだけれど、女官たちが話してくれる王宮の噂話は面白い。裏方ならではの視点で、ちょっとした秘密を覗き見ているような気になる。
「この間のリナ家のお嬢様の額飾り、ご覧になりまして? もうすんごいんですのよ! 金の塊が後光のようで。あれほど奇抜なものは初めて見ましたわ」
「真様に張り合おうとしておられるんでしょうけれど、だいぶ間違っていらっしゃいますわよねえ。どんな奇抜な格好で美姫を気取っても、天様の目は真様以外に向けられることはありませんわ」
「そうですそうです、真様だけにご寵愛を注がれているんですもの。天様の御子をお産みになるのは真様だけです」
 どきりと心臓が跳ねた音が聞こえたかのように、女官たちが一斉に口をつぐむ。すると、別の女官が新しい話題を滑り込ませてきた。
「リナ家と言えば! あそこと縁続きのカラン家の方、また若い女官にちょっかいを出そうとしたんですのよ! あの失礼な助平親父、早くお手打ちにした方がいいですわ!」
 アマーリエは詰めていた息を気付かれないように吐き出した。
(みんなに気を使わせて、私は……)
 好き勝手に話す彼女たちは、アマーリエに不安を覚えさせないようにいつも話題を拾い集めてくれている。その気遣いは嬉しく、少しだけ居心地が悪い。もっとしっかりしなければと思う。
「都市の報道機関は、すっかり姿を見せなくなりましたわね」
 お茶を注いだアイが言って、アマーリエは思わず窓の外に目をやりながら、頷いた。
 キヨツグの都市訪問によって、ヒト族とリリス族の間で行われた結婚は政略ありきではなかったと結論づけられたが、もちろん完全にその疑いを払拭することはできなかった。キヨツグが帰還した後も、取材を行おうとした記者が境界に張り込んだり粘ったり、ときにはそれを突破して騒ぎになったりしたが、いずれもすぐに取り押さえられて問題は大きくならなかった。
 そして都市もリリスも沈黙を貫いたことでやがて熱は冷めていき、半年経つ頃にはその姿は影も形もなくなった。都市の情報の移り変わりは早い。ニュースは流行なのだ。山場を超えれば萎んでいくし、見向きもされない報道に労力を割いても商売にはならない。それでも一部の記者魂めいたものに突き動かされて、正規のルートで取材を申し込んできた記者もいたようだが、こちらは丁寧に、公式の立場から断ったそうだ。
 温かいお茶を一口飲み、ほっと息を吐く。
 ここを誰にも侵されたくない。誰にも知られないよう隠しておきたいくらいに綺麗なところだから、ようやく静かになって安堵している。リリスは、すでにアマーリエの国になりつつあった。愛する人、安息の場所、優しい人々に囲まれ、自らを役立てる機会にも恵まれている。
 幸せだ。満ち足りた日々をそう言い表すのなら、間違いなく。
 けれど。
「失礼いたします。真様、先触れが参りました。天様がお戻りになられます」
 女官の知らせに、にわかに他の者が色めき立つ。
「わかりました、ありがとう」
 出迎えるために表に出ると、広場を突っ切ってやってきたキヨツグが本殿の階段を上がってくるところだった。冬になったのでリリスでも有力な氏族がこちらに移動してきており、今日はその長に会いに行っていたキヨツグは、いつもの東洋風のゆったりしたものではなく、緻密な刺繍やビーズで飾られた民俗調の衣装に袖を通していた。金と銀の糸で飾った漆黒のそれは、彼に似合いすぎるほどよく似合っている。
 思わず頬に昇った熱を隠して、アマーリエは微笑んだ。
「おかえりなさいま、わっ!?」
 言い終わる前に抱きしめられ、驚きの声が漏れる。
「いま戻った」
 冬の草原の香りがする胸の中で、キヨツグが言うのを聞いた。
 周囲が微笑ましそうにこちらを見ているのを感じて鼓動を早めながら、少しだけアマーリエも彼の背中に腕を回した。
 こうしてキヨツグがいて、抱きしめてくれて、愛していると教えてくれる。アマーリエもまた、自らができることで彼を愛している。それを幸せと呼ばずになんと言うのか。
 けれど、背中に回した手は、この場所にあるものを何一つ掴めていないように思えた。
「……どうかしたのか?」
 静かに問われ、アマーリエははっとして首を振った。
「いえ、冷えてきたな、と思って……」
 太陽はすでに傾き、雲に覆われた空にはすでに夜の気配が忍び寄っており、薄暗くなった周囲の気温は明らかに下がってきていた。じきに王宮も帳が下され、火が灯されるはずだ。
 するとキヨツグは顔を上げ、控えていた侍従に何事か目配せをした。
「……そうだな、顔色がよくない」
 それは貧血気味だからだ。これだけ近くにいれば、アマーリエがいつも以上に血の気が失せているのが目に見えるのだろう。
「……早く部屋に戻った方が良い。土産を運ばせておく」
「お土産ですか? 嬉しいです。でもすみません、気を使っていただいて……」
「……喜ぶ顔が見たかっただけだ」
 キヨツグはそういうことをさらりと口にするが、アマーリエは照れてしまって、ふやふやと笑うことしかできないのだ。
 残っている仕事を片付けるため、執務室に向かうキヨツグを見送り、アマーリエは部屋に戻った。すでにキヨツグの土産である甘味を前に女官たちが沸いており、夕食にどれを食べるか吟味することになった。
 夕食を終えて身綺麗にし、夜が更けて寝殿に向かうと一日が終わる。キヨツグは仕事の都合で夜半過ぎにならないと姿を見せないことがあるが、この日はすぐにやってきた。夜着に着替えているので、今日はもう休むつもりらしい。
 熱いお茶を出して、土産にもらった金平糖を出す。白い粒は星のようでもあり、氷の塊のようにも見えた。
「……今日は何をしていた?」
「朝からいただいたお手紙の整理とそのお返事を書いて、その後は診療所へ。まだまだ風邪が流行っているそうなので、しっかり手を洗って気をつけた方がいいですね」
 新年の参賀で知り合った名家の奥方やご令嬢、視察で訪れた場所の人々、それからすでに顔見知りであるユイコのような人たちから手紙を受け取っており、その返事を書くのが最近の主な仕事だった。
(そういえば、ユイコ様が手紙で気になることを書いてたな……マサキは元気か聞いたら、その返事が『お役目を得たそうでお忙しい様子です』って。構ってくれないって茶化してあったけど、お役目ってことはつまり、キヨツグ様が何か言ったのかな)
 聞いてみたいが、ユイコのマサキに対する思いに触れる部分でもあるので控えておくべきだろう。もし何かあるならキヨツグが教えてくれるはずだ。
 北部戦線にいるリオンからも、手紙が来ていた。
 ユイコの繊細でたおやかな筆跡とは異なり、雄々しくも流麗な文字で、そろそろ戻れそうだと書いてあった。
 ヒト族とリリス族の同盟が成立し、モルグ族と休戦状態になってから、大きな争いは起こっていないと聞いている。正式に停戦となるよう話し合いを呼びかけているが、なかなか進展しないらしい。それでも根気強く働きかけているようだから、リオンの言う通り近々動きがあるのかもしれない。
「キヨツグ様はいかがでしたか? 身分のある方とお会いしたんですよね」
 キヨツグは頷いた。
「……私は幼少期、草原を移動する一族の元に預けられていたことがあるのだが、そのときに世話になった御仁だ。世話になった家族の親類で、いまは大きな氏族を率いている」
 その大氏族の長は、この一年で起こった争いごとや話し合いの調停役として立ち回っていたそうだ。草原において南寄りにある王宮の、族長の目の行き届かないところは、そうした有力者が裁きを行うのだそうだ。最終的にそれを取りまとめるのが族長の役目だが、キヨツグはその報告を聞きに出向いたらしい。そうでもしなければなかなか会えない人物なのだそうだ。
「そうなんですか。どんな方なんだろう……お会いしてみたかったです」
 思いを馳せたアマーリエがそう言うと、キヨツグはふっと、何か言葉を飲むようにして目を伏せた後、静かにお茶をすすった。
 こういうときの勘は、よく当たる。
(ああ……キヨツグ様も言われたんだな。子どものこと)
 大氏族というのだから家族が大勢寄り集まっているのだろう。性別も年齢もばらばらな彼らが、キヨツグに対して、子どもはまだなのか、と追求するところが容易に想像できた。知人であるその長は、もう少しこちらを気遣った言い方をしたかもしれないけれど、話題にしない方が不自然だ。
「……心配していた。不必要に責任を負っていないかと、お前のことを」
「私、ですか?」
「……私が己の子を族長にするつもりはないことを告げると、それは重圧を和らげることにはならない、と言われた。わかっていると言うと、わかっていないと詰られた」
 事実だけを淡々と説明され、アマーリエは苦笑した。そうしてキヨツグと話し合ったことを思い出す。

 正式な夫婦となってしばらく経った頃、キヨツグはアマーリエに知ってほしいことがあると、いずれ生まれてくるであろう子どもの話を始めた。
 それは、彼が自身の子どもを跡継ぎにするつもりはないという、驚きの意思表示だった。
 アマーリエには最初、意味がわからなかった。新しい家族を設けることを彼が拒絶しているのか、という身の竦むような考えが一瞬よぎったが、すぐさま違うと気付いた。もしそう考えているなら、キヨツグはこのように直接的な物言いをしないだろう。
「理由を教えてください」
 政略結婚の義務には跡継ぎを産むことも含まれている。アマーリエには、当然その理由を尋ねる権利があった。
「……リリスにおいて、私がどのように持ち上げられているか、知っていよう」
 アマーリエは頷いた。命山の宣言により、キヨツグを支持する声は大きくなった。族長としてこれほどふさわしい人物はいないとまで言われている。血、というものの強さはこれほどのものかと、自らの行いが引き起こしたことであっても空恐ろしくなったほどだ。
「……命山の主の血族ではあるが、私は前族長の養子に過ぎぬ。私の子であるからといって、次代の族長に任じるのは誤りだ。慣例通り、候補たる公子を選出し、その中から族長となるに値する人物を選ぶべきだろう」
 リリス族の長は世襲制ではない。次に族長を選ぶときに、血筋や能力から複数の候補者が選出される。
「……私は、次の族長はリオンか、子がいればその者がふさわしいと思っている。無論、他にふさわしき者がいればその者に」
「リオン様は、前族長の実子でいらっしゃるからですね」
 そうだ、とキヨツグは頷いた。
「……族長位は、正しき者に返したい。私の子孫はシェン家から離れるべきだ」
 前族長の養子として迎え入れられたキヨツグと実子のリオン。リリス族という血の濃さでいうならキヨツグは圧倒的だが、族長位を奪い取ったとも言える。キヨツグはそれを返したいのだ、とアマーリエは納得した。
「けれど、リオン様は族長になりたいと思っていらっしゃらないようでしたが……」
「……ならば次にふさわしい者が据えられるだけだ」
 なるようになる、ということらしい。その通りだとアマーリエも思うのは、リリス族の勢力図をよく知らないだけではあるまい。
「……ただ、もし生まれた子が族長になりたいと言うのならば、そのときは一考せねばならぬだろうな」
「そうですね。私たちにそのつもりがなくても、何を目指すかは本人にしかわかりませんから……」
 そうしてアマーリエは頷いた。
「わかりました。キヨツグ様が考えていること、心に留めておきます。それで……あの……」
 アマーリエが言い淀むと、キヨツグはしばし緩やかに瞬き、口を開いた。
「……子が欲しくないわけではない。家族が増えることは、喜ばしい」
「は、はい」
 思わず返答が喉に絡んだが、安堵のため息が漏れた。子どもを作る気がないと言われたら、どうすればいいかわからなかっただろう。アマーリエが思い描いてきた夫婦の生活とはかなり違うけれど、二人の関係だけでいまは満ち足りているから、いますぐに子どもが欲しいというわけではない。それでもいつかは、と心のどこかで思っていたのだ。
 それにしても、いくら耳目をはばかる話題で二人きりで話し合う必要があるとはいえ、キヨツグから直接的に新しい家族について聞かされると気恥ずかしくてならない。アマーリエは熱くなった頬に早く冷めるよう言い聞かせた。
「……頑張ります……」
 か細い決意の言葉を聞いたキヨツグは、表情にこそ出さなかったが少し嬉しそうだった。

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