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 そういうことがあってから、数ヶ月。子どもを授かることができないまま、冬が来た。まだ一年、夫婦関係が成立してから一年にも満たないが、それでもアマーリエの感覚では『もう』一年だ。正直、周囲に子どもを望まれることがこれほどのプレッシャーだとは想像もしていなかった。
 だからキヨツグの知人というその長の指摘は、あながち間違いでもない。
「……負担をかけてすまぬ」
 キヨツグもそれをわかっているから、そう言うのだ。アマーリエは頭を振り、何か言おうとして、それらの言葉が空虚なものになることに気付いて口を閉ざした。
 そのとき、低い振動音がした。
(しまった、電源!)
 ぶぶぶぶ、と鳴るそれが引き出しに隠した携帯端末であることに気付いたアマーリエが顔を上げると、キヨツグは頷いた。目で断って席を立ち、端末を確認する。
 着信と、メールの受信。どちらもミリアからだった。
 メールの内容は、後期試験の勉強についての弱音と、この時期に行われるとある行事について尋ねるものだった。電話をかけてきたのは直接返事が欲しかったのだろう。すっかり忘れ去っていたそれに思わず呟きが漏れた。
「……そっか、もうそんな時期なんだ」
 キヨツグがこちらに顔を向けたので、アマーリエは携帯端末の電源を落とすと、席に戻って答えた。
「友人が、もうすぐ成人式だと知らせてくれたんです。そういえばもうそんな季節なんだなと思って」
 キヨツグは疑問符を浮かべた。
「……ヒト族の成人の儀は、二十歳で行うものなのか?」
「はい。リリスでは元服なんかでやるお祝いを、ヒト族は満二十歳でするっていう感じです。一月の祝日に、満二十歳になった男女を集めて都市が成人式をするんです。格式張った式ではなくて、広い会場で目上の方に祝辞をいただいて、後は友人たちと宴会をするという流れです」
 子どもが無事に育ったお祝いに催される元服や裳着があるリリス族でも、法律では、成人は二十歳と定められている。だがそのとき特に祝うことはないそうなので、ヒト族の成人式はめずらしいもののように感じられるのかもしれない。
「……ではお前は、成人式をする必要があるのではないか?」
「現代では式に出席しないという人も多いですよ。家族と祝ったり、仲のいい友人たちと後日集まったりっていう人もいますし、一人で過ごすのも珍しくありません」
 キヨツグが口を覆って何か考えているのを、首を傾げて見つめる。
 彼はふっと息を吐き、こちらをまっすぐに見つめ、告げた。
「……エリカ。都市へ行き、成人式に出席しろ」
 何を言われたのかわからず、アマーリエはきょとんと彼を見つめ返す。
 木々の音、風の音、静かな夜の音がさらさらと流れるようにして聞こえてきた。
「……えぇ?」
 アマーリエの口からこぼれ落ちたのは、呆然としたまったく気遣いのない疑問の声だった。
 あまりのことに行き場を失った手を無意味に上下させ、言葉を探す。そんなアマーリエを、キヨツグは宝珠のような目で見守っていた。冷静さを欠いている自分に気付かされたアマーリエは、額に手を当て、込み上げてくる混乱をなんとか鎮めようとした。
「ちょ、ちょっと待ってください、あの……成人式は、リリス族の裳着とは違って絶対に通過しなければならない儀式というわけではなくて……」
 不意に命を落とす可能性が低くなった年齢まで成長したことを寿ぐのとは違い、都市で行われる成人式は晴れ着やスーツで集まる同窓会を兼ねた集まりだ。冠を授けられるわけではない。
 なんと説明したらいいのだろう。とにかく、必須ではないことをわかってもらわねば。
「出席する義務はないんです。もしお祝いをしてもらえるなら、私はここでおめでとうと言ってもらうだけで十分です」
「……都市に行けば、お前が負う荷をひとときでも忘れることができる」
 アマーリエは言葉を飲み込んだ。
「……時間が空くと、廟や祠に訪れていることは知っている」
 ばれていた、と俯く。だが、知らないわけがないだろうということもわかっていたから、なんとか言葉を絞り出した。
「それは、私がそうしたいからです」
「……そうだとしても、その荷を負わせているのは私だ。ゆえに、その重圧を和らげる責任がある」
「だからって都市に行く必要があるとは思えません」
「……苦しむお前を見たくない」
 苦しむ。彼にはそう見えるのか。
「すまぬ」
 ぎくりとした瞬間、キヨツグは言った。
 その言葉はきっと、双方の心を深く抉った。
「謝らないでください! 仕方のないことだとしても、私の役目なんです……」
 どちらも鋭く息を飲んだが、アマーリエが叫ぶ方が早かった。
 子どもができない。それはきっと誰の責任でもない。
 祠や社や廟を参詣するのは『私のせいでも彼のせいでもない』ことを確認して自分を慰めているだけだ。そして、どうか、と願いをかけていればいつか叶うかもしれないと縋っているだけ。
 けれど時折恐怖が忍び寄る。――このまま真夫人としての役目を果たせなかったら。高まる期待に、未来がどんどん曇らされていくようで、不安が消えない。
 そんなアマーリエの状態を把握しているからこそ、キヨツグは都市へ行けなどと突飛なことを言い出したに違いない。環境を変えることは、心を慰める手段の一つだ。リリスから離れることが第一だと考えたのだろう。
 都市には、アマーリエの状況を変えるものも確かに存在する。たとえば、不妊治療研究だ。だが一般の人が当たり前のように治療を受けられるほどではないし、その選択をするには少々早すぎるとも思う。
 だから、都市に行こうとは考えられなかった。
(行きたくない)
 その思いの根底にあるものが何か見定めようとしたとき、ひやりとするもの感じてアマーリエは踏み込むのをためらってしまい、キヨツグの言葉を聞くこととなった。
「……しばらく都市の空気を吸ってくるといい。イリア殿に連絡を取れば、大仰なことにならずに訪問することが可能になるはずだ。友人たちと会うこともできるだろう」
 都市。
 戻れないと思っていた場所。胸には、風のように駆け抜けるいくつかの景色があった。人の群れ。高層建築が並ぶ街。空気。音が重なり合った雑音のようなざわめき。それらを思ったとき、アマーリエは暗闇の中で携帯端末の光を見つけたような緊張と安堵を同時に覚えた。
 そうして気付く。私はまだ、都市を思っている。
「……離れるのは、嫌です」
 けれど、行きたくないのも本音だった。
「もし都市へ行くなら、一緒に」
「……私の同行は難しい」
「聞き分けがないことを言っているのは、わかっています。でも……もし帰れなくなったらと思うと」
 意味のわからないことを言っている、と自分でも思った。
 懐かしい故郷に一時的に戻ることができる、それも二度と踏むことはないと思っていたそこへ。なのに、アマーリエの胸の中で渦巻くのは不安と恐れだった。あれほど帰りたい、戻れないと思っていたのに、いまはあの場所が暗い底なし穴のように感じられて、何故なのだろう、キヨツグから離れたくない。
(私は……怖い。疑っている……何を?)
 都市はアマーリエの未来を否応なく奪い、勝手に定めた。もし再び何か起こるとしたら、そのときもまた、アマーリエの世界を無慈悲に取り替えてしまうに違いない。アマーリエとキヨツグを無理矢理結びつけたあの場所が、今度は自分たちを引き裂こうとしない保証はないのだ。
 ただそんな曖昧な不安を、為政者たる夫に口にできるわけがなかった。
 すると、キヨツグは席を立ち、アマーリエの側に跪いて、そっと頭を引き寄せて髪に顔を埋めた。
 温もりが伝わる。大きな手のひらから安らぎが染み渡っていくようだ。
 キヨツグは静かに告げた。
「……わかった。善処する」
 ああ、わがままを通してしまった。行くとは言わない。けれど、きっと彼はそれが実現するように手を尽くすことだろう。半年前の都市訪問は異例中の異例だったが、次も例外だろう。
 キヨツグはリリス族の長、そして女神と呼ばれる者の子孫だ。その人を振り回していることに、情けなくて涙がこみ上げそうになったが、アマーリエは黙って彼に向き合い、その肩に額を押し付けた。
(キヨツグ様の言う通りだ。私、心が弱ってる。リリスのこと、子どものこと、少し考えないようにする時間が必要なんだ)
 どうやら、別の土地の空気を吸う必要があることを認めざるを得ないようだった。
「……もう眠れ。明日から準備で忙しくなる」
「……はい」
 寝室に入ったアマーリエは先に横になった。キヨツグが明かりを吹き消し、一瞬の暗闇が訪れる。目が慣れ始めた頃、キヨツグが寝台の隣に滑り込んできた。
 二人分の体温で温まっていく寝具にくるまりながら、アマーリエはキヨツグを見つめ、おずおずと彼に向かって手を伸ばした。キヨツグはその気配を察知してこちらに向き直ると、ごく自然な動作でアマーリエを引き寄せた。
 アマーリエは眠るまでずっと、小さな子どもが縋るようにして、キヨツグの胸元を握っていた。

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