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 感染症と人間の勝負が始まると、時間は怒涛にさらわれて消えていった。
 まず、出していた物見が先んじて、モルグ族が降伏し、ヒト族に支援を求めたことを知らせた。数日後、正式に宣言が出され、長きに渡る戦争は終わりを告げた。だがその平和を噛みしめるよりも早く、新型感染症のニュースがもたらされた。
 アマーリエの携帯端末に入ったイリアからのメールによると、マスコミが連日、停戦と新型感染症について報道を繰り返し、都市の関係各所が忙しなく回り始めたらしく、市庁舎には市民からの問い合わせが殺到しているそうだ。市長である父は冷静に対処に当たっているそうで、書かれてはいなかったけれど、目立った動きは見られないと伝えようしていることが感じ取れた。
 ヒト族で結成された医療チームがモルグ族に派遣されたときには、リリスではすでに、リリス軍の持ち物は滅菌消毒、あるいは焼却処分されていた。感染症の原因が判明したのはその後だ。
 新型感染症はウイルスによって発症する。風邪に似た発熱などの体調不良が表れた数日後、突如として意識を失い、そのまま死に至るという。意識を失う頃になってようやく、この感染症の特徴である「赤い痣」が身体のどこかに現れて発病を知るのだ。
 最新の情報によると、この感染症は、ヒト族には存在しない特殊な血液細胞と結びついて発症するものらしい。つまり、発病する可能性があるのはリリス族やモルグ族といったヒト族以外の異種族に限られるというのだった。ただしリリス族とモルグ族との婚姻が可能であるヒト族は、互いに輸血できる体質を持つため、血液に触れないようにとの厳命が下っている。 
 王宮に戻ってきたアマーリエの元には、様々な不安の声が寄せられていた。どうすればいいのかと狼狽えている年若い女官たちには、安易に他人の怪我の手当てを行わず専門家に任せること、傷口は必ず消毒をすること、手洗いとうがいは欠かさないことを助言した。
「でも、真様……ヒト族の方は感染しないのですよね? 何故ですか?」
 上手く説明する自信はなかったけれど、わかりやすい表現を考える。
「ええと……ヒト族とリリス族とモルグ族は同じ人間なんだけれど、リリス族とモルグ族だけが持っていて、ヒト族が持っていない、血の因子があるの」
 ちょっと難しそうな顔をされてしまい、言い方が悪かったかもと思いつつも、とりあえず最後まで説明することにする。
「今回の病気は、その血の因子と結びついて発病するものなの。だからそれを持っているリリス族とモルグ族は病気になって、ヒト族は病気にならない。……これで、わかるかな?」
「筆頭女官には、真様が患者と接触しないよう、最新の注意を払うように言われているんですが、それは?」
「それは、ヒト族がリリス族とモルグ族の血の因子を受け入れて、体内でヒト族の血に変えることができるからです。だから、病気になった人の血がヒト族の身体の中に入ったとき、病気も一緒にヒト族の血に変わるのか、それとも病気は残るのか、いまのところは明らかではないから気を付けるように言ったんだと思う」
 真剣な彼女たちを見回して、微笑んだ。
「だから、ヒト族に感染しないと言われているだけで、今後どうなるかはわからない。みんなで気を付けるようにしましょう」
 女官たちは「はい」と声を揃えて表情を引き締めた。
「真様をお守りできるよう、頑張ります」
 笑い合う彼女たちを見るアマーリエは、けれど、どこか苦い気持ちを堪えきれなかった。唇を結んで耐えるけれど、彼女たちが守ってくれようとする度に、不安の中にある小さな喜びが心を苛む。
 北方戦線から帰還した直後、アマーリエは検診を受けた。その結果、感染の可能性はほぼないとわかり、最も近しい女官であるアイたちは胸を撫で下ろし、年少者たちは油断できないとお互いを励まし合っていたという。結果を見たハナは「気にかかるところはありますが、精神的な理由もあるかと思いますので様子を見ましょう」という総合的な診断を下していた。いつものように月のものが遅れているからだろう。
 そんな風にして、大事にされていること、受け入れてもらえていることを嬉しく思うと、いまはそんなときではないのに、と心が軋むのだ。
 落ち着かない日々は毎夜も変わることがない。キヨツグは多忙を極めて、アマーリエが起きている時間までに戻ってこられないでいる。以前のようなすれ違いではないけれど、少し寂しい。自分にできるのは、周囲の不安を取り除くために、不必要に怖がらなくていいと言い聞かせることくらいだ。
 ゆっくり眠るような気にはなれなくて、人払いをした回廊の片隅で、アマーリエは今日も月を見上げていた。冬の月は冴え冴えとしていて、これがいつまで美しいと思えるのだろうと考える。幼い頃は見るもの触れるもの、あらゆるものが新鮮で、素直に綺麗だと感じられたのに、そんな眩しいくらいの純真な気持ちは、自分の中に残っていないように思える。年を取れば取るほど、今度は醜く歪んで、すべてを憎んでしまうのではないかと不安になる。
 アマーリエは隠していた携帯端末を取り出して、カメラ機能を呼び出すと、月にピントを合わせてシャッターを切った。ぱしゃ、と電子音が鳴り響く。
 ディスプレイに表示された白い月の写真を見つめ、データ保存を選択する。月の周りは淡くぼやけ、空は暗い藍色に染まっていた。自分が見ていたものと同じ景色とはいかないけれど、きっとこの写真を見ることでいまの気持ちを思い出せるはずだ。
 そのとき、とん、とん、とん、と規則正しい足音が聞こえてきた。アマーリエのいる廊下ではなく、ちょうど対岸に位置する回廊に向かって誰かがやってくるようだ。そちらに首を巡らせた瞬間、回廊に出てきたその人物からぎょっとした声が放たれた。
「あ、アマーリエ!?」
「シキ」
 心底驚かされたという顔をしている。いくら月と星があるとは言っても、暗闇の中で座っている誰かを見つけると心臓に悪いだろう。悪いことをしてしまった。
「ど……どうしたの、そんなところで。女官の方々は?」
「少し一人になりたいって言って、離れてもらってる」
 シキはこちら側に来て、持っていた書籍を置くと、自身の羽織ものをアマーリエに着せ掛けてくれた。薄荷と植物の青い匂いはシキの近くにいると感じる香りで、温もりの残るそれに肩を抱かれた気がする。
「……何かあった?」
 慰められたようなで頬を緩めていると、様子がおかしいと思ったらしく、シキが尋ねた。夜露のように涼やかで、優しい響きだったので、アマーリエは笑みをこぼす。
「……シキは、夜寝るとき、急に自分の失敗を思い出して頭を抱えたくなること、ない?」
「ん? ああ……あるよ。でもそれは、気の流れのせいだって聞いたことがある。横になると地面に接する身体の面積が増えるから、気の流れの影響を受けやすくなるんだって、呪い師の人に聞いたな」
「そうなの? 知らなかった。呪い師って、気の流れを操ったり読んだりする人のことだよね? そういう考え方があるんだ?」
 目を丸くしたアマーリエが言うと、シキが笑って、びっくりしてしまった。
「え、どうしたの、なんで笑うの?」
「リリスについて軽く講義していた頃みたいだなあと思って。アマーリエ、最近あまり医局に来なくなったから懐かしくて」
「……この薄情者、って?」
 彼は笑顔だが、後ろめたかった。利用するだけしておいて勝手に距離を置く身勝手さを詰られても仕方がない、と思う。アマーリエが眉尻を下げると、違うよとシキは首を振る。
「そんなことは思わないよ。君は本当にリリスの一員になりつつあるんだなって思ったんだ。僕に聞く必要がないならそれはもう知っているということだし、あるいは相談できる人が他にもいるってことだろう?」
 アマーリエは首を振った。
「そうかもしれない。でも、思い知ったの――私はやっぱり、本当にリリスにはなれないんだって」
 シキは表情を変えて、アマーリエはそれから顔を背けるようにして月を見上げた。彼はいま現在この世界を取り巻く状況を知っているはずだ。聡い彼なら、アマーリエが何を持ってそう感じたか想像するのは容易いだろう。気遣いの言葉のために口を開きかけ、結局は黙って、視線を空に投げる。
「……女官のみんなに、どうしてヒト族は発病しないのかって聞かれて」
「……うん」
 女官たちのあの笑顔。安堵のため息。曇りのない笑顔。
「その理由を聞いて、みんな、私のことを守るって言ってくれたの」
 それはつまり、死に至る感染症が広まる中で、アマーリエだけが遠ざけられ、のうのうと生きていくことを意味している。彼女たちを矢面に立たせて、現状、感染率の低いアマーリエだけは守られる。ヒト族だからだ。
 ヒト族であることから逃れられない。決してリリスにはなれない。
 地上に死が蔓延しているというのに、空には澄み切った光が浮かんでいる。
「……引け目を感じているんだね」
 シキが見守るような目をしているのがわかるけれど、縋りたくなくて、目を伏せた。そんなアマーリエに教えるように、シキは言葉を選んでいる。
「でも、君を大切に思っている人たちがそう思って行動することを、申し訳ないと感じる必要はないんだよ。だって、大切な人を大切に扱うのは当然なんだから。君だって彼女たちを大事に思うから、自分の身を守ることを優先してほしいって感じてるんだと思うよ」
「でも……」
 ぐっと拳を握って、口にしかけた言葉を沈めた。だって言えるだろうか。彼女たちが思うのと同じように、アマーリエが彼女たちを思っていると、絶対にそうだと言い切れるだろうか。自身の思いがどれだけの大きさなのか、比べられたらいいのに。
「僕が言うのはどうかと思うんだけど……きっとね、天様は君を見て、そんな風に思っているよ」
 耐えられなくて頭を振っていると、突然、シキが苦笑まじりに言い始めた。彼は立ち上がって、月を背負うようにしてアマーリエを見下ろしていた。物静かで穏やかな彼が放っているかのように見える光は、神秘的で美しい。
「アマーリエ。天様のことは、好き?」
 何を言っているのかと目を瞬かせ、はっとなった瞬間、顔が真っ赤に染まった。青白い夜も一気に熱を孕んだ気がする。
「ほら正直になって。教えてくれないと、友達付き合いやめちゃうからね」
「え、な、えぇ……!?」
 そんな脅しは卑怯だ。怒りたいのに怒れないもどかしさで、何も言えずぷるぷると震えるしかない。なのにシキはにこにこ笑って本当に楽しそうだ。
(こういう意地悪はしない人だと思ってたのに!)
 黙っていると、シキが首を傾げて覗き込んでくる。
「あれ、もしかして……嫌いだった?」
「そっ、そんなわけ……!」
 観念するしかなかった。真っ赤な顔を覆って、絞り出す。
「す………………好き、です」
 思わず敬語を使ってしまった。
「よかった! それを忘れなければきっと大丈夫だよ。それじゃあ、後は頑張れ。ああ、羽織は貰っていくね」
「……え? どうしたの、『後』って……」
 荷物をささっとまとめて駆け足で去っていくシキを呆然と見送っていたら、寒くなった背中に淡い温もりが被さってきた。悲鳴をあげそうになったが、その前に、冬をもっと強くしたような香りがすることに気付き、それが誰なのかを悟る。
 感情が嬉しい方向に振り切れる、と同時に、シキの画策に気付いて今度こそ悲鳴をあげかけた。おかしいと思っていたが、あれは彼が接近していることを知っていたがゆえの誘導尋問だったのだ。
「き、きき、キヨツグ様! もしかして、いまの話……」
「……参った」
 後ろからアマーリエの肩に額を寄せているので、震えが伝わってくる。笑っているのだ。もしや多忙を極めた深夜や夜明けにやってくるあの『ハイ状態』なのだろうか。そう思ってしまうのは、段々と震えが激しくなってくつくつという声が聞こえてくるからだ。普段の声量を考えるとかなり大きい笑い声だった。
 振り返りたくとも、後ろからしっかり抱えられていて身動きが取れない。仕方なく抗議する。
「キヨツグ様、離してください。これだと顔が見られません」
 聞こえているのかいないのか、顔を伏せてまだ笑っている。
「キヨツグさ、」
 途端、するりと解けた腕のせいでバランスを崩し、それを支えられつつも導かれるようにして、強引な口付けを額に受けていた。
 呆然とするアマーリエに、キヨツグは綺麗で優しい顔をしている。
「……私も思っている――お前のことを」
 今度は、瞼の上に熱が灯される。
 月の傍らを行く雨雪の雲。影の断片が月の光を花びらに変えて、きらきら、はらはらと儚く夜を儚く彩る。これから月は沈み、明日の太陽が昇るだろう。いくつもの日々が巡り、時間はアマーリエに降り注ぐ。この世界は誰かのために留められるものではないことを、生きるものたちはきちんと知っている。だから愛するし、残そうと、続けようとすることも。
 キヨツグの温もりを感じながら目を閉じる。
 あとどれくらいこうしていられることを、幸せに感じていられるだろうか。
(私は、残された時間を数えている)
 花が終わる瞬間は、きっと、そう遠くない。

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