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病人がいるとは思えないほど、柔らかな空気に包まれて、アマーリエは彼らから北部戦線での生活がどんなものかという話を聞いた。一年中肌寒いこの土地では、食事とお酒が一番の楽しみなのだとか。帰ったときに習慣にしているのが、新しい服を仕立てたり装備を整えたりすることで、気が引き締まる瞬間は、研ぎに出していた武器が光り輝く状態で戻ってきたときであるとか。
「何より大事なのは健康な心と身体ですね。少しでも自分を粗末にすると、姫将軍と副将軍に『そんな無能は必要ない』と強制送還させられるんですよねえ」
「真様もお気をつけください。姫将軍は、帰すと決めたら簀巻きにしてでも送り出しますからね」
深刻そうな顔に、リオンならやりそうだと思って頷く。
「おや、賑やかですね」
そのとき、天幕の入り口から新たな人物が現れた。頭に包帯を巻き、右目に眼帯をしている。喉にも、手首にも、包帯の白が見える、かなり重篤そうな患者だ。きっと話に聞いた、モルグ族の領域に偵察に行ったうちの一人なのだろう。
どうやら奥にある空のベッドは、彼が使っているものだったらしい。
「診察、どうだった?」
「夢見が悪いと言ったから薬を出された。これで夢にうなされるようなら、多分送還だな」
答えを聞いた者たちは「そうか……」と視線を落とす。それほど深刻な容体なのか。聞いてみたいけれど、医者でもないアマーリエが聞き出すことは失礼だし、医師は手を尽くしているはずだから、できるとすれば話を聞くことくらいだろう。
「妙な話をお聞かせして申し訳ございません。おかしな夢を頻繁に見るせいか、調子を崩しているのです」
けれど彼は、アマーリエが気にしていることを察したらしい。淡い笑みを浮かべて教えてくれた。気を使わせてしまったことを恥じ入りつつ、それが表に出ないよう微笑みを浮かべて首を振る。
「申し訳ないことなんて一つもありません。皆さんは休養が必要でここにいるんですから。私の方こそ、お話を聞かせてもらうことしかできなくて、すみません」
「恐れながら、それはこちらの台詞ですね」
謝る必要はどこにもない、と彼はくすくすと笑った。彼の精神状態が落ち着いていると見たのか、仲間の一人が不思議そうに尋ねる。
「なあ。聞いていいか? その悪夢って、どんなものなんだ? 言いたくなかったら言わなくていいんだが、かなり辛そうで、気になってたんだ」
みんな、その思いを同じくしていたらしい。固唾を飲んで返答を待つ仲間たちに、彼はふっと笑みを吐き出し「面白いものじゃないぞ」と前置きして、話し始めた。
「何も見えない暗闇の中にいる夢なんだ。自分がどこにいるのかもわからなくて、動き出した途端に、音がするんだ」
「……音?」
「最初はわからない。だが何か聞こえたのはわかるから耳を澄ます。いくら待っても聞こえてこなくて、焦り出した瞬間にまた音がする。そのときようやくそれが『ぱきん』という何かが折れる音だと気付く」
身じろぐ度に、何かが壊れる音がする。
「ぱきん、ぱきんぱきん、ぱきん――それが足元から聞こえるのだとわかって目を向けた瞬間」
そこまで言って彼は目を閉じた。心なしか、顔色が悪い。
「そこから伸びた白い手に足元を掴まれて、闇の中に引きずり込まれる。意識が遠くなって、はっと我に返ったときには同じ暗闇にいて、また『ぱきん』という音を聞いては底なしの闇に引き込まれる。その繰り返しだよ」
「あれは骨の音だよ」
じっと聞いていた仲間の一人が、ぽつりと呟いた。
「俺もその夢を見たことがある。真っ暗な世界で、白い骨でできた道を延々と歩かされるんだ。あれは確かに、悪夢だったよ」
(…………骨)
静かになったその場で、アマーリエは、彼らが語った夢の光景を想像してみる。
黒く塗りつぶされた世界に浮かび上がる、真っ白な人間の骨。槍のような肋骨や、無残に打ち砕かれた頭蓋骨、どこの部分かもわからない骨が折り重なってできた道。いったいどれだけの人が亡くなったのだろう。これだけの犠牲を出したのに、この残酷な景色は果てしなく続く――。
「――――あ」
次の瞬間、フラッシュのように様々な光景が瞬いた。
空に昇る煙。毎日のように何かを焼いている。仲間に知らせるものではない。それでは何のために?
そうしなければ生きていけないのだろうとアマーリエは思った。その言葉の対極に位置するのは。
(――そうしなければ……『死んでしまう』)
「真様?」
小さく声を上げて固まったアマーリエを、兵士たちが不審がる。アマーリエはぱっと顔を上げ、逸る鼓動の苦しさに喘ぎながら尋ねた。
「あの、教えてほしいことがあるんです」
「どうなさったんですか?」
首を傾げながら続きを促す彼らは、絞り出したアマーリエの質問に面食らった。これまでの話題とはまったく異なるそれが、何を意味するのか、想像がつかなかったのだろう。
明確ではないけれど、と言いつつも、教えてくれたそれにお礼を言って、アマーリエは飛び出した。向かうのは、キヨツグたちのいる天幕だ。
一度解散になったらしく、そこにいたのはキヨツグとリオン、そして彼女の副官だけだったが、血相を変えたアマーリエを見るなり厳しい顔つきになった。
「どうした」
息を飲み下す。落ち着け、と自分に言い聞かせながら、震える声で言った。
「あの煙――火葬のためのものかもしれません」
アマーリエが療養中の兵士たちに尋ねたのは、モルグ族の葬送はどのように行われるのか、ということだった。その答えは、恐らく土葬であるというもので、それを聞いた瞬間、医学書の記述が頭をよぎったのだった。
「それでは毎日火葬を行なっていることになる」
キヨツグは言い、アマーリエは頷いた。
「もしかしたら……何か病気が出たのかもしれません」
さっと緊張が走った。
腐敗した死体から発生した有害な菌が、虫や動物を介して疫病をもたらす。ヒト族のようにそれを防ぐ予防接種を行っているのならまだしも、モルグ族に恐らくそのような習慣はない。この北部ならば死体はさほど腐敗しないかもしれないが、この寒さに耐性のある強い病原菌が発生したのなら、土葬ではなく火葬するようになったと考えられないか。
「それが、土葬の習慣があった人たちが、遺体を焼くに至るのに最も有力な理由だと思います」
「そのような考えに至った理由は?」
冷静なリオンの問いに答えられることは多くない。ほとんど直感だ。
「偵察に行った人たちの見る悪夢……骨を踏む夢だったと聞いて、それで」
リオンはいささか呆れたように首を振った。
「まったく信憑性がないということか。それでは推測の域を出ない……が、しかし」
「しかし気になる推論ではある」
キヨツグがそう続け、リオンの副官に将軍たちを呼び戻すよう指示を出した。集まってきた彼らに、もう一度同じことを説明するように言われ、注目を浴びて少し緊張しながらも、アマーリエは努めて冷静にモルグ族に起こったかもしれない異変について話した。
「なるほど……そのような可能性もあるか」
「ですが天様、リオン様。確かめようにも、モルグ族の領域に足を踏み入れるのは危険すぎます。ヒト族も情報を持っておらぬようですし、我々にできるとすれば、この陣を引き払って退くことくらいです」
安全を期するためには退くことも必要だ。だが、そう行動するに至るほどの確信が持てない。それが動き出せない最大の要因だ。
どうすれば、と思ったときだった。天幕を揺らす風が吹き、入口を大きく揺らして吹き込んできた。アマーリエよりも早くキヨツグやリリス族の者たちは気付いていて、アマーリエは彼に、そしてリオンに庇われて、その不可思議な突風に耐えた。
次の瞬間、風よりも鋭く突き抜けて、たぁん! と何かが地面に刺さる。
しばらくして風が止んだ。キヨツグの腕の中から顔を上げたアマーリエは、族長夫妻を守るために最も外側にいたリオンをさらに庇う形で、オウギが立っていたのを見た。しかし彼やリオン、そしてキヨツグの目は、そちらとは反対の地面の上にあった。
天幕の中心に、何かが結び付けられた矢が突き立っている。
(いつの間に……それに、真上から射たなければ、あんなに真っ直ぐに刺さるわけがない……)
ここは陣のど真ん中で、天幕の中。侵入者があったわけでもないし、誰にも止められずにこんなに正確に、それも頭上から矢を射かけられるはずがない。明らかに奇妙だ。
しかし、つかつかとやってきたリオンが、乱暴な仕草でそのおかしな矢を引き抜いた。
「矢文とは……」
「古風、ですね」
副官や将軍たちは複雑そうに、気味悪そうにしている。リオンが何の躊躇いもなくそれに触れたことに苦笑している者もいた。
文は、植物紙ではなく動物の皮でできているようだった。薄茶色のそれを流し読みしてから、リオンは口を開く。
「……『リリス族の者たちへ。疎通の力を持たぬそなたらに知らせるため、古典的な方法を撮らせてもらったこと、ご容赦願いたい。』」
そこでちらりとキヨツグを見た。彼の頷きが返るのを見てから、リオンは続ける。
「『これは警告である。即刻この地から去れ。我が一族に原因不明の病が流行し、多数の死者を出している。この警告に従わぬ場合、そちらの安全は保証しかねる。』」
そこでリオンはキヨツグに手紙を差し出した。続きをどうぞ、ということのようだ。キヨツグはアマーリエから離れてそれを受け取ると、慎重に、落ち着いて目を通していく。
「……確かに、奇病が流行していると書いている。『発病した者は、身体のいずこかに花のような赤い印が現れる』とある」
アマーリエの推論が裏付けられたのだ。ひりついた空気が流れ、文は回覧された。その間にキヨツグとリオンはこれからのことを打ち合わせしている。アマーリエは回ってきた手紙を読み、そっと息を飲んだ。
(死者数は膨大……ヒト族に接触を図って支援を請う……そこまでひどいの?)
事実上の、降参だった。まさか長く続く戦争がこんな形で終わりを告げるなんて。
「モルグ族の異変は、流行病によって死者が出ていて、流行を広げまいとして出現を控えている、と考えて相違なかろう」
キヨツグが結論を下す。
そのとき、さほど大きくはなかったリオンの命令がはっきり聞こえた。
「ヒト族を探れ」
この動きにヒト族がどのように対処するか確かめるために、物見を出すのだ。それに気を取られていたのだろうか、彼女はアマーリエが見ていることに気付かないまま、唇を歪めて呟いた。
「……敵を気遣うとは。助けを求めればいいものを、可愛げのない」
そうして指示を仰ぐためにキヨツグを見上げたその顔には、その皮肉げで寂しげな雰囲気は欠片もなかった。
「陣を解きますか。いまから始めさせてよいですか?」
「その際には、体調不良を訴える者がいないかよく確認するように。準備が終わり次第、速やかに撤退する。医師たちには滅菌消毒を行うように伝えよ」
キヨツグはアマーリエを見る。
「真、何か他にすべきことはあるか」
「え。え、えと……」
咄嗟のことだったので、すぐには出てこなかったが、急いで思考を回す。頭の中に詰め込んだ教科書や知識がわっと溢れて、整理して言葉にするのが難しい。
「……何を媒介にして感染するか確かめる……ことは、恐らくヒト族に任せた方がいいと思います。隔離できる施設が準備できますから。なので……感染疑いの人を診察した場合、最終的な診断ができるまでの隔離と、上への報告の義務を徹底してください。もし感染者が出たら、その患者だけを収容するようにして、感染経路を潰してください」
「承知した」
後は何があっただろう。何をしておくべきか。キヨツグが命じるのを聞いていたが、はっとなって急いで言う。
「あの、私は正式な医師ではないので、できればきちんとした医師の判断を優先するようにしてください。どんな状況になっても、冷静に判断できるでしょうから」
「かしこまりました」と将軍は応じ、すぐさま伝令となって走っていった。
「いまこのときをもって北部戦線を撤退する」
キヨツグの宣言を受けて、全員が一斉に動き出した。
リオンは出て行くとき、すれ違いざまにアマーリエの肩を叩いていった。仕事を果たしたと思ってくれたのだろうか。彼女に入れ替わるようにして、キヨツグの隣に立つが、彼はこちらを見ず、左腕を右手で掴みながら、どこか遠いところを真剣に見据えていた。
何を見ているのだろう。不安が溢れ出す。
「……キヨツグ様」
彼は一度の瞬きで思考を振り払って、アマーリエを見つめ、腕を掴んでいた右手を伸ばしてアマーリエを引き寄せた。胸に押し付けられるように抱きしめられたので、おずおずと手を伸ばす。けれど。
「……すまぬ」
途端に、離れた。まるで、触れることを拒まれたかのよう。
アマーリエは、逃げるようにして出て行くキヨツグを追いかけることができなかった。
「キヨツグ様……?」
一人取り残され、名前を呼ぶことしかできないその静寂は、まさしく嵐の前の静けさだった。
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