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 日が落ちると、街の周辺といえど世界は闇に包まれる。むしろ明かりが存在する場所だからこそ、星の光が弱まり、夜が深くなるというべきか。医療用テントの周りは明るいからなおさらだ。
 アマーリエが何事もなかったかのようにして、ユメを連れて動き回っていると、スタッフの一人に声をかけられた。
「あのー、ルーイが探してましたよ。謝りたいとか何とか。喧嘩でもしたんですか?」
 スタッフ間では、アマーリエとルーイが親しいことが周知されている。特別な関係だと思っている者も少なくないらしく、男性たちが彼を焚きつけようとしているところを何度も見た。その度に彼は、ただの同級生だと言っていたけれど、いまは、そう思っていたわけではないと確信があった。
 そんな、すうっと冷たくなった心が、アマーリエに柔らかな微笑みの仮面をくれる。
「少しすれ違ってしまったみたいで……話をしたいんですが、彼がどこにいるか、わかりますか?」
 柔らかに尋ねると、スタッフは快くルーイの居場所を教えてくれた。アマーリエは直接そこへ向かうことはせず、人気のない、リリス族の医官たちが使っている天幕に近い場所に彼を呼び寄せるよう、伝言役の女官を差し向けた。
 そうしてその天幕に行き、ユメを外の暗い場所に待機させる。数名の武官が周囲を見張ってくれているので、ルーイが入ってきたなら、もう邪魔は入らない。油皿の小さな灯りだけのその場所で、アマーリエはかたかたと震えていた。寒いのか、武者震いなのかは判然としない。そんな瑣末なこと、考える時間が惜しい。
「アマーリエ?」
 ルーイの静かな声に顔を上げると、彼ははっとしたように入り口で立ち止まった。おずおずと、まるで知らないものを前にしたかのようにアマーリエを見る。
「忙しいのに、呼び出してごめんなさい。さっきのこと、謝りたくて」
 逃げられてはならないと、アマーリエが切り出すと、ルーイは「ああ」と安心したように表情を和らげた。
「ううん、僕の方こそごめん。……そのためにわざわざ?」
 不思議そうに言われて、アマーリエは小さく肩を竦めた。
「うん……私たちが険悪になったせいで、ヒト族とリリス族の間に溝が出来てしまったらと思って……それに、私のことを思ってくれているのに、喧嘩別れしたら絶対に後悔するから」
 忙しいのにごめんなさい、と深々と頭を下げて、次に、ルーイを真っ直ぐに見つめた。言いたいことがあるのに言い出せない、そんな表情で。
「ルーイ……私、都市であなたが言ってくれたことに、ちゃんと返事をしたい」
 ルーイは目を丸くし、ふっと笑うと諦めたように首を振った。
「振られるのがわかってるんだから、もういいよ」
「よくない!」
 強い声で言って、はっと顔を背ける。意識して、弱々しい声で呟いた。
「よくないよ。だって、私……」
 あなたのこと、と、思わせぶりに言って口をつぐむ。
 震える手を組み替える仕草が、どうか、思わせぶりにそわそわして見えますように、とアマーリエは祈った。
 こんな浅はかな演技をして、人を騙すような真似をして、身体の内側からどんどん腐っていくような気がする。自らの腐臭に目眩がする。
「アマーリエ? ごめん、聞こえなかった。もう一度言ってもらっていい?」
 俯いたアマーリエの表情を確かめようと、ルーイが覗き込む。
 どんなに嫌悪を催そうとも、これは私が始めたこと。
 アマーリエはそっと手招いて、ルーイをこちらに呼び寄せる。そうして図らずも泣きそうに歪んでしまった顔で、告げた。
「ごめんなさい」
 え、というルーイの戸惑いの声は短く消えた。アマーリエがユメを呼び、同時に懐から取り出した護身用の短剣を抜いたからだ。
「っ!?」
「静かに。暴れると怪我をするよ」
 青白く光る刃をルーイの頬に当てると、彼は一瞬その鋭さに棒立ちになったが、相手がアマーリエだと知るとすぐさま反撃に打って出た。こちらを取り押さえようと手を伸ばす。
「っ痛!」
 だがその腕は、後ろから伸びてきた手に阻まれた。
 ユメが抜き身の剣を手に、力強くルーイの腕を捻りあげる。姿勢を崩されて、彼は膝をついた。地面に押さえつけられながら不愉快そうな顔で吐き捨てる。
「もしかして、色仕掛け? 似合わない手だね」
「あなたの幻想を壊したのならごめんなさい」
 小さく笑って、アマーリエもまた膝をついた。
「でも手段を選んでいられないの。だから素直に答えて。これが何か、教えてくれる?」
 隠しに入っていたワクチンのアンプルをかざすと、ルーイはゆっくりと青ざめていった。対して、アマーリエは笑っていた。こんなときでも笑えるのだと、嫌でも思い知る。しかし事態は決して笑えない。笑えるものか。
「これは、生理食塩水だよね」
 ルーイの顔色が青さを通り越して白くなるのを、アマーリエはつぶさに観察していた。追い詰められた人はこんな表情になるのかと、哀れみを覚えた。可哀想に。彼はもう、ただではすまない。アマーリエが許さない。
「ワクチンは、どうしたの? 生食なんて打って誤魔化している理由は?」
 抑えた声には、殺しきれない怒りが滲んだ。
 ヒト族が、ワクチンを打たない理由は何か。この感染症に対策しない目的は何なのか。
 容易に想像できるのは、ヒト族が自分たち以外の種族の弱体化を望んでいるということだ。少なくとも、それは間違いない。
 だからここからは、アマーリエの想像でしかない。
 ただならぬ気配を発しているのは、ルーイの顔を見ていればわかる。けれどユメは事情を何も聞かず、冷静にルーイを取り押さえていた。おかげで彼は身じろぎもできず、食い下がるようにアマーリエを見上げている。
 縋るようなその視線に、不快感の塊が込み上げてくる。
「……あなたはいま、製薬会社にいるって言ってたよね」
 本当は、止めて、と叫びたいのはアマーリエの方だった。刃物をちらつかせながら問い詰めて、心の中で、お願い、お願い、と、どこかにいる誰かに懇願している。
 どうかお願い。こんなものは妄想でしかないと言って。
「あなたの会社は――都市は、異種族に対する、ウイルス兵器を作っていたんじゃないの?」
 吸い込んだ空気は冷たく、胸が切りつけられたようにひりついて痛んだ。なのに目は熱くて、いまにも溶けて流れ落ちそうだ。答えを待つ静寂に耐えきれず、アマーリエは口を開く。
「答えてくれないなら、一人ずつ尋問する。まずはあなたから」
 脅迫するこちらを見るルーイの瞳に、一瞬、嘲りが見えた。
 アマーリエは懐剣をぴたりと彼の頬に当てた。一転して怯えた目を嘲笑する。
「できないって思ってる? ……できるんだよ。リリスに来て覚えたことの一つなんだから」
 ――残酷なことを、言っている。
 非道で、正常な人間の言動でないことは自覚していた。青ざめつつも笑いながら刃物をちらつかせて、脅迫して。人を傷付けようとしている。こんな振る舞いは誰にも求められていない。ユメもきっと無表情の裏で悲痛な思いを抱いていることだろう。事の次第を聞いたキヨツグが、とんでもなく怒ることも想像できた。
 それでも、いま、守りたいもののために手段は選んでいられない。
 たった一人で、都市という世界に立ち向かうこの戦いに、助けなど得られはしないから。
 アマーリエが刃を押し当てて手を引こうとした、それよりも早く、ユメがルーイを力強くひねり上げた。腕が折れるぎりぎりのところまで力をかけたらしく、恐怖の叫び声が迸る。それがふと緩められた瞬間、ルーイは堰き止めていたものを溢れさせるように絶叫した。
「君の――全部君のためなんだよ、アマーリエ・コレット!」
 ルーイは、痛みをこらえて充血した、ぎらつく目でアマーリエを睨みつけてくる。
「君を救い出すためにしたことだ。不本意な結婚を強要された君を、都市に連れ戻す。そのためにはこの世界をヒト族の手に取り戻す必要があるんだ!」
 アマーリエは眉をひそめた。世界をヒト族に、なんて突拍子もない。
 けれどそれを思い込ませた人物がいるのだ。そしてアマーリエには心当たりがあった。
「……コレット市長がそう言ったの?」
「そうだよ! 市長は君のことを心配してた。なんとしても帰してやりたい、取り戻したいって、僕に協力を頼んだんだ! 君と一番親しいのは僕だっただろうと言って、助けてくれって。だから僕は」
 協力した、というのだろう。彼なりの正義でもって。
 それゆえに、アマーリエは顔を押さえて呻いた。
(父さん、あなたは……!)
 和平が成れば、お前を取り戻せる。耐えておいで。そんな言葉は、ただの慰めだと思っていた。
 侮っていたのはアマーリエの方だった。リリス族と敵対してまでアマーリエを取り戻す理由はない、そんな方法はないと、思い込んでしまっていたのだ。
 優しい父。甘い父。そして、狂信的で残酷な父。
 きっと甘い声で語ったのだろう。帰してやりたいんだ、と悔恨を微笑みに変えたようなひたむきな態度で、ルーイを誘惑したはずだ。
 しかしそれは、アマーリエのためではない。取り戻したいのは決して『アマーリエ』ではないのだ。いつだって父の目は、アマーリエを通して亡くなったあの人を見ていたのだから。
(そんなに……そんなに、マリア伯母さんに似ている私が誰かのものになることが許せなかったの……)
 細菌兵器を用いた戦争を、父一人で実行したわけではないだろう。すべての都市の市長、あるいは権力者が協力しているはずだ。けれど、父は市長としてそれに賛同する一方、自らの望みを叶えようと画策したのだと考えられた。
「この世界はヒト族が治めるべきだ! 高度な文明と力を持つヒト族こそ、この世に生きる者たちを平和と繁栄をもたらすことができる。リリス族のように漫然と土地を治めているだけじゃない、もっと有効に活用、」
「あなたは、それでも医者を志した人なの?」
 こちらを振り向かせようというのか、必死にまくしたてるルーイを、アマーリエは冷たく睨め付けた。
「ヒト族がこの世界を治めるべきだから、リリス族を排除する? そのためにウイルス兵器なんてとんでもないものを作ってばらまいて? いま死んでいこうとしている人たちが大勢にいるのに、よくそんなこと言えるね!?」
「君が言えるのかい、アマーリエ。刃物で脅しておいて、そんなこと」
 それに、とルーイは冷笑した。
「僕だけを責めるのはお門違いだよ。僕たちが直接ウイルスを広めたわけじゃないんだから。恨むんなら実行犯を恨んでくれ。そうたとえば――エリーナ先輩とか」
 それはここで聞くはずのない名前だった。
 明るく優しくて、少し風変わりな上級生。アマーリエを安心させようと笑ってくれた顔が思い出される。
「ウイルスを手にして特攻をかける実行部隊の一人だったんだよ。君も襲われたはずだよね? 結局全員死んだみたいだけど。足がつかないように顔まで変えたらしいね」
 ぱっ、ぱっと、いくつかの景色が脳裏に閃く。
 北方戦線の雪原。空の煙。突如襲われたこと。キヨツグの鮮血。
 襲撃者の何か訴えるような目。
 その人物はアマーリエに何かを訴えていた。傷付けたキヨツグではなく、アマーリエに。
「…………」
 それの意味するところに気付いてしまったせいか、ルーイの醜く歪んだ笑みから、目が離せない。
 本当に? あれは本当に、エリーナだったというのか。あんなに真っ直ぐな目をしたあの人が、顔の形を変えて、兵器を手に人を襲ったのか。けれどそれが真実だとすれば。
(やっとわかった。あの目が何を伝えたかったのか……)
 あれは罪悪感。こうなってしまったことの謝罪。そして自嘲。どうしてこうなってしまったんだろうという己への軽蔑だったのだ。
 後方支援部隊にいたはずの彼女の他にも、襲撃者はいた。彼らもまた、整形をした上で実行部隊に仕立て上げられたというのなら、それほどまでに強く異種族を排除しようとするヒト族の思惑に、言い表しきれない嫌悪感と恐怖がせり上がってくる。
(気持ち悪い……)
 醜悪だ。どこまでも。
 同じ種族であることが、忌まわしくてたまらない。彼らと同じようなことをしようとしていることが。
(気持ち悪い)
 芯が揺らぎかけた、その隙を、ルーイは見逃さなかった。
「ねえ、君の大事な旦那様。最近姿を見ないけど……もしかして、死んじゃった?」
「っ!!」
 血が沸騰する。
「真様!」
 衝動的に刃物を振り上げたアマーリエをユメが大声でしたが、彼女はルーイを押さえていて手を離すことができない。誰か呼ぼうにも、それよりも早くアマーリエの短剣が振り下ろされる。
 そう思ったのに、剣を握る右手は、何者かに鋭く叩き落とされた。
「あ……っ」
 痺れる手を押さえて振り向いた、けれどそこには誰もいなかった。夜の闇が密かに動いたような、隙間に滑り込んだ揺らぎの名残のようなものがあるだけだ。けれどそれで、誰が、アマーリエの心と未来を守ってくれたのかを知った。
 痛みが、頭を冷やした。吐き気を飲みくだし、いくらでも湧いてくる怒りと悲しみを堪えて、ユメに言う。
「……都市の医療スタッフ全員を拘束して。外部に連絡が取れるものは絶対に見逃さないように、私物はすべて没収。一人も逃さないで」
「アマーリエっ!」
 ルーイの叫び声を無視して、さらに告げる。
「スタッフを拘束していることは、誰にも知られないようにして。都市の人間にも、新しくスタッフとして派遣されてくる人たちにも。拘束中は必ず帯剣した武官で監視に当たらせて。荷物検査は確実にしてほしい。リリスに入る時点で没収されているとは思うけれど、秘密裏に機械を持っている可能性があるから。もし都市から問い合わせがあったら、私の名前を出して『確認中』と返答するように」
「アマーリエ! アマーリエ、君に何ができるっていうんだ! どんなに頑張っても君はリリス族にはなれないのに、僕たちを裏切るなんて、もう帰れなくなるぞ!?」
「親衛隊!」
 ルーイの半狂乱の叫びを遮るようにユメが武官たちを呼ぶ。
 天幕の入り口が開かれ、武官たちが駆けつけた。漏れる淡い光が後ろから差し、アマーリエの輪郭を縁取る。
「それは」
 私の帰るところ。それは生きるところ。そしてその場所がどこなのか、もうわかっている。
 捕縛されるルーイを見下ろして、アマーリエは宣言した。
「それは、私が、決める」
 そしてその場所を守るために、この手を汚すことを決めたのだ。
 猿轡を咬まされたルーイの唸り声が聞こえていたけれど、もう振り返らなかったし、その言葉に意識を傾けることもなかった。

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