―― 第 16 章
<<  |    |  >>

 アマーリエの命令は速やかに遂行され、都市の医療スタッフは全員拘束、王宮の武部に存在する牢獄に収容された。ワクチンに偽装された生理食塩水に害がないとわかったので、現在もリリス族の医官の手によって予防接種が行われているが、事情を知っているリュウ医官長たちは内心で苦々しく思っているだろう。それでも、この真実を公表したときに起こりうる混乱を防ぐためには、どうしても情報を統制する必要があった。
 入れ替わり立ち替わり現れる人々から報告を聞いていたのが途切れた、ひとときの静かな時間。息苦しさが消えないので、窓辺に座って夜風に当たっていた。凍えるようなそれは立ち止まれないいまは心地いいくらいで、冷静に考える余裕が少し生まれた気がした。
(これはいつから……私の結婚が決まったときから計画されていたことなの……?)
 ウイルスはヒト族が開発し、ばらまいたもの。最初はモルグ族に、次にリリス族に。ヒト族にはなく、異種族が持っている血中成分によって発病するなんて都合のいいものが、こんなにも早く完成できるものだろうか。
 どちらにしても、いくらヒト族の技術でも、かなりの費用や手間をかけたはずだ。リリス族と交流を持つようになったとき、あるいはキヨツグの都市訪問の際に、リリス族の細胞を採取した可能性がある。
 その恐ろしい企みを市長たちは知っていた。その一人は、アマーリエの父親だ。
「……っ」
 吐き気が込み上げ、思わず口元を覆いながら、身を縮めるように蹲った。波のように襲ってくる不快感は収まらず、苦しさは痛みとなって、涙が浮かんだ。荒い呼吸を繰り返しながら、必死に声を殺す。でなければ、ひどい、どうしてとばかり繰り返してしまいそうだった。
 醜い。身勝手で、残酷な仕打ちだった。悪だとも思えた。人類で相争うことが歴史なら、ヒト族が手に入れようとしているそれ(レコード)をアマーリエは一人、憎悪する。
 けれど憎むのは後だ。流れた涙を拭い、呼吸を整える。
(考えろ)
 足を止めるな。考えなさいと自身に言い聞かせる。
 ――ウイルス兵器を作ったなら、治療薬の研究が並行して行われていた可能性が高い。
 少なくとも、ルーイたち医療関係者は対抗薬を摂取して感染を防いでいるだろう。だからワクチンは存在している、必ず。
(私がしなくちゃならないこと。それは、治療薬を都市側から引き出すこと。そのためには、ヒト族が何を望み、何を手に入れたがっているか、知らなくちゃならない)
 くっと歯を噛み締め、拳を握る。
(欲しいのは、土地? ヒト族はいま人口増加が社会問題になっている。資源の問題もある。リリス族を排除して、豊富な資源を手に入れて、かつ自分たちの国を作ろうとしている……?)
 多分それは他都市の市長の思惑にあるはずだ。アマーリエもこちらに来てから知ったけれど、リリスの国には多くの資源に恵まれている。それらを利用する方法は昔ながらの最低限のものに絞られているので、どれも枯渇には遠いようだ。
(でも、それが欲しい人たちの交渉はきっと上手くいかない……市長たちはみんな、私よりも上手の政治家だ。付け入られて搾り取られるだけになってしまう)
 だったら、狙いを絞ればいい。
 アマーリエにはそれは、たった一人。
「…………」
 都市が欲しいもの。
 市長が欲しいもの。
 ルーイはなんと言ったのか。
 そしてアマーリエは何故ここにいるのか。
 ――やがて理解と絶望がやってきた。両手で顔を覆い、溢れそうになるものを噛みしめる。この感情をなんて言い表せばいいのかわからないけれど、ひたすらに、苦しくて胸が痛い。
「……こんなものに価値なんてないのに……」
「……真様? 真様!?」
 様子を伺いに来たアイたちが、蹲るアマーリエの元に駆け寄ってきた。
「ご気分がすぐれないのですか。顔色が……」
「大丈夫。少し疲れただけだから。ハナ医師は呼ばなくていいから、お水だけもらえる?」
 こんなときでも、心を押し殺して微笑みを浮かべてしまうのは、もう癖だ。それを見抜いてくれる人はいま近くにいないから、その仮面は分厚くて硬質で、ひび割れることなくアマーリエを覆う。
「やはり診察を受けた方がよろしいのではありませんか。忙しさのあまり、心身ともにくたびれておられると思います。いま真様に倒れられると、わたくしたちはお縋りするものを見失ってしまいます」
 アイの懇願に、アマーリエは笑みを深めた。
「倒れないよ。倒れるときは、全部終わったときだって、決めてるから」
 守りたいものを守り通す。居場所を選ぶ。その代償を払う。何をも顧みないためには覚悟が必要だけれど、アマーリエはいま、それを手にしている。
 やるべきことは決まった。
 晴れやかに、けれどどこか病んでいる、壊れかけた己を自覚しながら、アマーリエは静かに立ち上がると、キヨツグの元に行くことを告げた。アイは悔しげな表情を静かに伏せて、かしこまりましたと頭を下げて、見送ってくれた。
 場所が場所なので付き添いを断り、冷たい夜に晒されている廊下をしずしずと歩む。
 奥宮に詰めているリュウに一声かけて、閉ざされた病室で眠るキヨツグの側に腰を下ろした。彼の顔色は悪い。けれどアマーリエも似たようなものだろう。
(この人とともにあるために)
 アマーリエはそっと口を開いた。
「……セン様。お話ししたいことがあります」
 答えてくれないかもしれないと思ったのに、次の瞬間には、すぐ隣に銀と漆黒の姿があった。
「なんだ」
 何故だかそれにほっとして、アマーリエは微笑むと、彼に向き直り、頭を下げた。
「先ほどは、ありがとうございました。私を止めてくださったこと、深く感謝申し上げます」
 ルーイを傷付けようと振り上げた短剣を叩き落としたのは、この人だ。きっとアマーリエ周辺の動きに気付いて、様子を探っていたのだろう。
 けれど、センは顔を背けた。別に礼を言われることではない、ということだろうか。
 しかし彼のおかげで取り返しのつかないことをせずに済んだ。いま同族に対して厳しい処置を取っているアマーリエの罪が消えたわけではないけれど、少し、軽くなったのは確かだ。
「話とは?」
 さっさと話を始めろという圧を感じて、アマーリエは頷いた。
 だけど、何から話し始めるべきか。
 少し考えて、恐らく自らの望みを告げることからだろう、と口を開く。
「セン様。……私の願いは、いつまでもキヨツグ様の傍らにあることです。あの方に並び立てるような強さを持って、種族や、寿命の違いを超えて、隣に立っていたいんです。――叶うならば、永遠に」
 我ながら、大それていて恥ずかしい望みだけれど、センは笑ったりしなかった。どこか沈んだ目で、眠るキヨツグをじっと見ている。
 始祖とも呼ばれるこの人と女神と呼ばれる女性は、対の存在。
 女神の微笑みが思い出された。彼女は名乗った。自らを、ヒト族でありリリス族の最初の女、と言った。
 それは、彼女が元はヒト族であり、何かを経てリリス族となった、ということではないか。
「あなたは――私たちが別たれずに済む方法を、ご存知ですね」
 ヒト族がリリス族に変異する方法がある。
 アマーリエの確信を込めた言葉が、いん、と残響する。
 ずっと何かが引っかかっているような気がしていた。大事なことを見落としているのではないか。でもそれを知る瞬間はいまではないとも感じていた。
(この人たちは、私の知らないことを知っている……それは多分、私が想像もつかないようなもので、それを知るときは多分、何かが終わって、始まる瞬間なんだろうって予感があった)
 闇でさえ息を潜めるような沈黙が満ちる。
 問いを遮断するかのように瞑目していたセンは、深く息を吐いた。
「セン様」
 口を開こうとしない彼に焦れて、アマーリエは食い下がったが、黙れ、とばかりに手を振られた。
 センの顔は、苦い。何かを憎んでいるかのように歪んでいる。だが決して「そんな方法はない」と言わないことが、アマーリエの希望だった。だから静かに、目を逸らさずに答えを待つ。
「……因果か」
 低く呟かれたそれにアマーリエは眉をひそめたが、こちらに言ったわけではないらしい。
 しかしどうやら彼自身の覚悟を決めるためのものだったようだ。不思議な光を放つ銀の瞳が、アマーリエを捉えた。
「お前の言う通りだ。その方法はリリスの秘儀に当たる」
 アマーリエは息を飲み、叫んだ。
「教えてください! なんだってします、だから……!」
「騒ぐな。キヨツグが起きるし、人が来る」
 冷静に注意されて、口元を押さえる。キヨツグは深く眠っている。もしかしたら起きているかもしれないが、何も言わないのだからおそらく意識はないままだろう。
(方法がある……キヨツグ様と一緒に生き続けられる方法が……!)
 高揚のあまり、手の震えが止まらない。恐ろしいすべの存在を聞いたアマーリエが感じたのは、歓喜だった。なんだってする、と思わず漏れたそれは本心だ。それが叶うなら、身を切ることも手を汚すことも厭わない。
「落ち着いたか」と問われて、頷いた。少なくとも叫び出さないようにする理性は戻ってきた。それを確認して、センは続きを口にする。
「だがそれは確実な方法ではない。秘儀として存在はしているが、いまもなお有効な手段であるかはわからない。少なくともこの数百年、成した者を知らん」
「リリス族とヒト族が結婚した例がないから、ですか?」
「違う。儀式が成立しなかった」
 そもそも儀式とは何か、センは端的に説明する。
「儀式とは誓いだ。それ成立させるためには、双方の一部あるいはすべてを共有する必要がある。共有するものは身体や精神、名前など当人によって様々だが、ある者はこれを『魂の共有』と表現した」
「魂の共有……」
「魂を結ぶ、つがいの誓約。これを『リンゲンガーゲ』――竜約、と呼ぶ」
 センはアマーリエに伝わるよう言い直したが、儀式を表す言葉そのものが古いままであることからも、それが失われつつあるものだとわかる。
「古い時代に当たり前に行われていたことだ。だがいまそれを成せる者がいない。時代が変わり、契約そのものが効力を失ってしまったのか、契約を発動させるリリス族の因子が薄くなったせいかはわからん。キヨツグならばあるいは、とも思うが、秘儀が成立しないこともあり得る」
「成立しない可能性がある、でも成立するかもしれない……だったら」
 勢い込むように言ったアマーリエに、センは手を振った。
「懸念はそれだけじゃない。いま儀式を行った場合、お前の命が危うくなる恐れがある」
 ――淡々と、感情を込めないように事実だけを目の前に並べられていく。アマーリエはそれらを一つ一つ、慎重に飲み込んでいく。突飛な話だったし、創作物のように現実感がなく、それに縋るしかない自分を滑稽に思ったけれど、不思議と、するりと受け入れられたように思えた。
「……ゆえに、いま儀式を行うとお前の身が危うくなる。諦めろ」
「…………」
 首を振る。
 強固な姿勢を見たセンが舌打ちを響かせ、険しい顔になる。だが、そこで言葉を止めた。
 アマーリエが、微笑っていたからだ。
「いいえ。……いいえ、セン様。お話はわかりました。けれど、諦めることはできません」
「……俺の話を聞いていたか?」
「はい」
 穏やかに頷くアマーリエに、センは表情を失くした。儀式の内容、それに付随して起こりうる危険を知りながらも、笑うことのできるアマーリエに、覚悟を見たのかもしれない。だから、それ以上アマーリエを阻むようなことは言わなかった。深く、悲しいくらいに長く、瞳を閉ざしていた。
(この方は、リリス様のことを……)
 片割れのことを思うあまり、自身を咎め続けているのだ。共にあることを喜びながら、心の奥底に抱えた傷の痛みに苛まれている。
 同じ選択をする者への哀切の思いに感謝しながらも、アマーリエは彼をもっと傷付けるようなことを口にしなければならなかった。
「――その上で、ご相談があります」
 そしてそれはキヨツグを傷付けるということも、わかっていた。

<<  |    |  >>



|  HOME  |