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 その日、第二都市市庁舎、その最上階にある市長室に一枚のディスクが届いた。
 部屋に入ったジョージは、デスクの上にぽつんと置かれたそれを眺め、いったい誰が置いたのだろうと首を傾げた。秘書からは、訪問者があったことも、郵便物が届いていることも聞いていない。
 秘書に尋ねると、やはり知らないという。部屋に入った人間は誰もいないらしく、戸惑った顔をしていた。ジョージは彼に指示して、防犯カメラの映像を確認させたが、深夜に軽い停電が発生していた以外はおかしな点はなかった。
「不審物ですね。警察に連絡いたします」
「……ああ、頼むよ」
 秘書と警備員が頷き合うのを止めるべきか、一瞬迷ったが、ジョージは頷いた。
「何か証拠になるものが付着しているかもしれないから、別の場所には置かず、そのディスクは発見した場所に戻しておこう。ああ、警察が来るまでなるべく部屋には入らないようにしてくれ。現場を維持する必要がある」
「かしこまりました」
 そうしてディスクを受け取り、市長室に戻る。
 机上の端末を起動させ、ネットワークを切断してから、持っていたディスクを挿入した。円盤が回転する、キュイーン、という音が広い部屋に響く。
 画面上には動画を再生するウィンドウが立ち上がった。ディスクの中身は動画だったようだ。
 明らかに不審なディスクを確かめようと思ったのは、それが、ジョージが見ることを狙ったものだと判断したからだ。市長室の机の上に置かれたものが、市長以外の誰かに宛てたものだとは考えにくい。郵便物ではなく、直接置いていったようだというのも、明確な意図を感じる。そして、ジョージにはそうして訴えかけてくる者たちに心当たりがあった。
 念のために、できるだけ誰も入らないように言った。警察に尋ねられたら、データ用のROMと間違えてしまったと言えばいい。不審がられるだろうが、別に問い詰められはしないだろう。
 再生ボタンを押した。
 画質は、それほど高くない。画面比率から見ると、携帯端末のカメラを用いて撮影したもののようだ。音質も悪く、がさがさという雑音が常に流れている。
 最初の数秒は音だけだった。
 次の瞬間、ぱっと画面が遷移した。まるで舞台セットのような、金を強調する旧東洋風の広間。背後には華麗な花を描いた屏風が飾られ、古典的な花窓が陽の光を透かし、荘厳な雰囲気を演出している。
 それらを目にしながら、ジョージはただ一点を見つめていた。見つめさせられていた、と言っても過言ではない。
 一段高くなった場所に座すのは、美しく装う、ジョージの天使。
「……アマーリエ」
 呼び声に答えるように、画面の中の娘は目を開く。
 その動きに合わせて、アマーリエの髪飾りの金鎖がしゃらりと揺れる。彼女を彩るのはそれだけではない。恐らくは一点ものだろう、豪奢な刺繍を施した裾長と袖口の広い装束と紅を強調する化粧は、ジョージがこれまでに見たことのない異国――リリス族のものだ。
 きらびやかなそれは、まるで花嫁衣装のよう。
 ジョージは無意識にきつく拳を握りしめ、しかし表情を失い、画面を食い入るように見つめる。
 どこか夢うつつの眼差しは、ようやくカメラに、レンズの向こうにいるジョージと交わった。
『――第二都市市長、ジョージ・フィル・コレット氏に、告げます』
 そうして毅然とアマーリエはリリス側の状況を語った。都市側が持ち込んだワクチンが偽物であることを穏やかな口調で糾弾し、医療スタッフは拘束、危害は加えていないことを説明する。柔らかで気遣い屋の娘とは思えない、淀みなく断固とした語り口だ。
 一方で、市長としての思考が、この映像の意味を考えている。ただ糾弾するためだけに、こんなディスクを寄越してくるだろうか。それにこの動画を撮影し、ディスクを作成した協力者がいるはずだ。可能性としては、元妻の姪であるイリア・イクセンが有力か。
 そこで、カメラが引いた。構図が変わり、座っているアマーリエの全身像が映る。
 彼女の右腕に伸びる、不自然すぎる人工的なチューブと点滴台が目に入ったのはそのときだった。普通なら薬液が入っているだろうそのパックは、黒々とした赤い液体が満たされている。
「――っ!?」
 ジョージはぞっと息を飲んだ。まさか、そんな。そんなことをするわけが。
 アマーリエの唇が弧を描く。
『いま、私が輸血しているのは、フラウ病感染者の血液です』
 がだんっ! と椅子が倒れる大きな音が響いた。勢いよく立ち上がったジョージに驚くことなく、アマーリエは言葉を続け、微笑みかけてくる。入り口の扉を開いて、秘書が「市長!?」と駆け込んできた。
「どうなさいましたか、大丈夫ですか!?」
『……このまま手を打たなければ発症する可能性が高い、というのが当方に所属する医師の見解です。それゆえに、』
 次の瞬間、アマーリエは様相を変えた。
 無垢に、麗しく笑い、甘えた表情と声でジョージの知る天使の顔になる。
『だからね、パパ』
 天使の微笑みで、残酷な願いを突きつける。
『私を助けたいなら、リリス族とモルグ族を助けられるだけの薬を用意して』
 映像は、そこで終わる。
 モニターは黒く染まり、しばらくして再生ウィンドウが縮小されて、見慣れたデスクトップが表示される。唸りをあげていたディスクは回転を止め、室内は静まり返った。
 秘書が慄いたように後退る。がたがたと何かの震える音、獣のような低い呻き声が自らのものであることに、ジョージは気付かなかった。
「アマーリエ……!」
 激しく叩きつけた拳の音は、裏切りへの怒りと憎しみを孕んでいた。


       *


 撮影が終わり、アマーリエは椅子に身体を投げ出して、ぼんやりと輸血が終わるのを待っていた。
 映像記録のための人員が配置されていたものの、いまは誰もいない。儀式に関わるからと命山の使者だけが残っていたのだが、それもいつの間にか姿を消し、アマーリエは一人きり、まるで操り人形が力を失ったかのように微睡んでいる。
(動画データをディスクに書き込んで……ディスクはイリアに父さんに届くように手配してもらおう。私はなるべく表に出ないようにして、窓口はカリヤさんとユメに頼むのが一番いいかな……儀式の成功ってどうやったらわかるんだろう、リュウ医師やハナ医師に診察をお願いした方がいいよね……)
 罪悪感と輸血行為による目眩に襲われて、頭上の飾り天井が、まるで万華鏡のようにくるりくるりと回って見えた。少し気分が悪くなって、ぐっと堪えて目を閉じ、不快感の波が去るのを待つ。
 ――『儀式』は魂の共有によって成立する。
 そしていまではそれを、血液の注入、という行為で代替しているという。
 アマーリエはそれを利用した。発病者であるキヨツグの血液を受け入れることで、儀式と父に対する脅迫を同時に行ったのだ。
 短時間の撮影は行うが、本来なら命山で行われる儀式であるというので、アマーリエはその際に着用される衣装に代わる華麗な晴れ着に身を包み、化粧を施して、リリス族の姫君のような格好をしている。衣装は旧東洋の和装に近い。色打掛と呼ばれるきらびやかな羽織ものに、宝石と金であしらった細やかな髪飾りを合わせている。唇は赤く鮮やかに彩って、衣装に負けぬ華やかさを演出していた。
 本当なら、と思う。本当なら、もっと壮麗に、厳かに進められる儀式だったのだろう。もう一度結婚式を執り行うように、美しく着飾って並び合い、共に生きることを誓ったはずなのに。ああでも、こんなに自分勝手で親不孝な自分に、そんな幸せが訪れるはずはない……。
 それから、どのくらい経ったのだろう。ふと目を開けたとき、誰かが覗き込んでいて、アマーリエは飛び起きた。途端に、血が下がる強烈な寒気が襲って、くらりとしたところを支えられる。
「どうした、大丈夫か?」
 揺れる視界で、人影とキヨツグの面影が重なる。
 しかしその人影は白かった。銀の髪と銀の双眸は、キヨツグによく似ているけれど彼のものではない。声も違っている。
「……セン様」
「気分は?」
 真剣な問いかけに、アマーリエは「大丈夫です」と首を振った。彼はアマーリエの手首にしばらく指を当てて脈を取り、手のひらを裏返して爪を確認した。指先は血を失って白くなっている。
「……緊張のせいだな」
 アマーリエの見立ても同じだった。儀式に対する緊張と刺針という行為のせいで起こる迷走神経のエラーだ。輸血による異変ではない。
「しばらく静かに過ごしていれば治ると思います……様子を、見に来てくださったんですか?」
 そう言ってアマーリエはふと、彼の美しい顔に痣があることに気付いた。薄くなっているが、ここまで残っているなら相当強くぶつけたに違いない。
「……お顔、どうされたんですか?」
「殴られた」
 きょとんとしてしまった。
(……殴られるって、誰に? この方が殴りかかられて避けられないわけがない、と思うんだけど……)
「何故止めなかったのかと。どうして許したんだと責められた」
 アマーリエは言葉を失い、俯いた。やはりあの人を悲しませてしまったのだという痛みで、息が苦しい。
「申し訳ありません……」
「謝罪は必要ない。結局使者を寄越したんだから、あいつも同罪だ。俺を殴ったのも、自分が介入できなかった八つ当たりだ。慣れているから心配はいらん」
「……慣れて、いるんですか?」
 ぱちぱちと瞬きするアマーリエに、彼は苦い顔で瞑目する。
「お前はあれの行儀のいい面しか知らんだろうが、女神と呼ばれていても元は傭兵だ。人間の身で相当きつい拳を振るうぞ。今回の件で、まったく鈍っていないことを思い知った」
「…………ふ」
 裾長の衣装を振り乱し、袖をたくし上げて、全力で殴りかかる女神を想像して、アマーリエはつい笑ってしまった。だがそれは失礼だと、急いで口元を押さえて声を噛み殺す。けれど、こんな状況で笑えるなんて思ってもみなかったせいか、いつまで経ってもくすくす笑いが止まらない。
「ご、ごめんなさ……お、おかしくて。夫婦喧嘩、なさるんですね」
 目尻の涙を拭って、息をつく。
「ありがとうございます……」
「礼を言われるようなことはしていない」
 素っ気なく突き放されたけれど、アマーリエは微笑んだ。この人が、アマーリエの罪悪感の原因を、夫婦喧嘩に落とし込んでくれたことがわかっていたからだ。彼は、アマーリエがそう思っていることに気付いていて、どこか諦めたような表情になり、ふと、真顔になった。
「怖いとは思わんのだな」
「え?」
「俺は怖かった。永遠が」
 彼は、アマーリエの座る椅子の肘掛けに、半分身体を預けるようにして腰を下ろし、そこから見える遠い場所を思うように、静かに語る。
「その頃は、人ならざる身を呪って生きていた。愛した人間とともに終わる瞬間こそを望んでいた。そして、それが叶えられないことに絶望して、彷徨っていた。誰かとともに生き続けることは、俺の時間を、人生を、心を、魂を、永遠に奪われることのような気さえしていて、そうなってまでともにありたいと感じられる誰かが現れるのが怖かった」
 まったく別の人物のことのように話しながら、その恐れを抱いていたのは確かに自分なのだということを、彼はまったく忘れていない。あえて距離を取るような話し方は、その感情はいまも彼の中に根深く存在しているからだ。
「俺は、誰かに愛される資格もなければ、愛する資格もない。そう思っていたんだろう」
 恋が、怖い。
 アマーリエの心を通して言い換えるならば、そういうことだろう。心に傷を負ったことがあり、深く傷ついた人を知るからこその恐れだ。恐怖を直視し、その在処を突き止めるだけの時間が、きっと彼を強くしたのだろう。愛し愛される資格がない、なんて、思うだけで自らを傷付けてしまうのに。
 ああでもきっと。
「いまは、少し和らいだんですね」
 黒髪をなびかせておおらかに笑う、女神の姿が浮かぶ。
 消え去ってはいない。忘れられもしない。けれど恐ろしかったものが、ほんの少し怖くなくなったのは、運命の出会いがあったからだ。
 名前こそ口にはしなかったけれど、彼はわずかに眼差しを緩めて言った。
「そうだな。あいつと出会っていなければ、俺も、この世界の有様も、まったく違うものになっていた」
 アマーリエには及びつかない、世界の変遷を見てきた人の言葉だ、と思った。どのように変わっていたのか、まるで想像できない。
(私もいつか、そんな風に思うようになるのかもしれない……)
 ぼんやりと想像してみるけれど、うまくいかなかった。そして、そんなぼやけた顔を観察されていることに気付いて、気恥ずかしくなったせいか、つい悪戯心がもたげてしまった。
「惚気られてしまうとは思いませんでした」
「っ!?」
 不安定なところに腰掛けていたこともあって、彼はバランスを崩し、ぎょっと目を見開いてアマーリエを見た。その顔は、アマーリエがにんまりしているのを見た途端、苛立ちと苦々しさが入り混じったものに変わる。
「……思ったより余裕じゃないか」
「はい、セン様のおかげです。そのつもりでお話ししてくださったんでしょう? お気遣いくださったおかげで、だいぶと楽になりました」
 偽りのない本心だ。焦燥にかき立てられ、何度も後ろを振り返るような気持ちで、不安と恐怖と、それでも前に進まなければならないという義務感で、何も考えられなくなっていた。けれど、秘密を知る人と話すことができて、いまは、少し落ち着いた。
 そろそろ輸血も終わる。つかの間の休息を得た後は、やらなければならないことがたくさんあった。
 リリスを守る、その決意がアマーリエの恐れを拭ってくれる。
「永遠は怖くないんです。でもそれは永遠について何も知らないからなんでしょう。ただ私は、この思いを、最初で最後の真実のものにしたいと夢見ているだけ」
 そこまで想うことのできる人と巡り会えた。それはアマーリエにとって最も幸福で、喜ばしい出来事だった。何故なら、そんな相手と出会える幸運は誰にも訪れるわけではないからだ。
 だからこそ、手放したくない。何をも振り捨てても、たとえそれが我が身であっても、掴んでいたいと願う。
 ふっと、笑う声が聞こえた。アマーリエがゆるりと目を上げると、座っていた彼が音もなく離れるところだった。
「……そうだったな。俺はずっと昔から知っている。お前のような人間の……」
 そうして何か呟いていたけれど、最後まで聞こえなかった。彼も聞かせるつもりで口にしたわけではないらしく、ぼんやりと見送るアマーリエを振り返るとかすかに微笑んだ。そして厳かな面持ちになると、目礼し、彼しか贈ることのできない祝福を口にした。
「お前の勇気に敬意を表する」
 はっと息を飲み、身を起こして瞬きをしたときには、その姿は消えていた。
 アマーリエは半ば呆然としながら背もたれに身を預け、俯いた顔に笑みを浮かべた。
「……ありがとう、ございます」
 この言葉はきっと届いたと信じて、残りわずかとなった安息を味わう。永遠を手に入れるために、これから長く険しい道を歩む。そのためにいまはしばし、心と身体を休める必要があった。

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