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 相当長引いた会議の影響で、アマーリエは束の間の休息を得た。キヨツグの近くにいたかったが、横でまどろんでいるところをリュウに発見され、部屋に戻るようにきつく厳命されてしまったせいもある。それでも、目が覚めたのは白い太陽が昇り始めた、早い時間のことだった。
 起き出して、女官たちに手伝ってもらって着替えをしながら、長老たちの会議の進捗を尋ねると、長くなったので一旦保留として、午前の早い時間から再開することになったと教えてくれた。
 落ち着いて朝食を摂る気になれず、アマーリエは供を断って、一人、庭に向かった。いまアマーリエがかなり殺気立っているのをみんな知っているから、一人になりたいという要望は比較的叶えられやすい。それでも、見えないところに護衛が控えている。アマーリエと同じく働き通しのユメの代わりに、別の護衛官が守ってくれているが、その気配がユメとは違うので少し落ち着かない。
 大きく、深呼吸する。
 つんとした空気が、胸の中にすうっと入り込む。こんなに心地いいのに、安らいだ気持ちにはなれない。長く苦しい道を常に歩いているような気がして、ため息が出た。
 ぱちん、と気持ちのいい音が響いたのは、そのときだった。
 振り返ると、いつの間にか庭師の老爺がいて、木に梯子を立てかけて枝を落としていた。そして満足が行くと、地面に降りて、道具を手にひょこひょこと次の木に向かっていく。
 まったくこちらの存在を無視する態度は、ここに至って安堵を呼び起こした。アマーリエは衣服を汚すことを承知で、庭に降りる階段に腰を下ろし、しばらくぼんやりと彼の仕事ぶりを眺めていた。
「……最近、どうですか?」
 状況にそぐわない、のんびりとした問いかけが口をつく。庭師はふんと鼻を鳴らした。
「どうですかも何もねえよ。花は咲くときに咲くもんだからな」
 落ちた枝を拾い集めて、袋に入れると、ようやく一息いれるようだ。庭を飾る石にどっこいしょと腰を下ろす。リリス族なのにこうして老いた見た目をしているのだから、きっと実年齢は相当年上のはずだ。けれど威勢のいい物言いは年齢を感じさせない心地よさがある。
 懐から取り出した小さな煙管に火をつけ、ぷかりと煙を吐いて、彼は言った。
「花は見てもらえたかい」
 アマーリエはくすりと笑い、眉尻を下げた。
「はい。多分」
「『多分』。いい返事じゃねえか」
 てっきり悪態をつかれると思ったのに、彼は気持ちよさそうに呵々と笑った。
「花は、別に見てもらいたくて咲くわけじゃねえ。見てもらいてえと思うのは世話をするやつだからな。それでいいんだよ」
「私……世話をする側じゃないんでしょうか?」
「思いの花は人間そのもの。だからお前さんは『花』だよ」
 そのとき、アマーリエが思い浮かべたのは、犠牲を払って咲いた美しく汚れた徒花ではなく、固い蕾をようやく綻ばせた早春の花や、根雪の下から芽吹いた白く小さな花々だった。
(ああ……)
 徒花かもしれない。けれど一輪、純粋無垢な花が紛れ込んでいる。そんな風に多様な花が咲くのは、アマーリエが人間だから。光と陰を併せ持つからこそなのだ。
 閉じた瞼の裏から、銀色の日差しが淡く透ける。
 目を開くと、冬の空と大地を静謐に彩る草木が映った。高い木の枝には固く眠る蕾があり、雪が緩む頃になれば必ず芽吹くことだろう。暖かな大気の中、空に向かって枝を伸ばし、花を開き、季節を超えてまた目覚めのときまで眠る。それを繰り返す。人もまた同じ。永遠の、変わらない営み。
(美しいところだけを見てほしいと思っていたし、いまでもそう思ってる。でも、見ている人はそんなことは関係なくて、咲いている花をただ見ているだけ。美しくても醜くても、花は、花)
 そして賢い人は、花が美しいものだけでないことをちゃんと知っている。
 そこに許しを見出したわけではないけれど、アマーリエは心を決めた。これからの自分の選択に苛まれることは止めよう。醜く汚れた花であっても、美しくなかろうとも誇り高く咲かせよう。ひとひらの無垢を信じて。

 誰かを探し回っているような、複数の足音が響いたのはそのときだった。何事かと目をやると同時に、女官と侍従が姿を現す。
「真様! こちらにおいででしたか!」
「どうしましたか、何か……」
「め、命山より、使者が!」
 アマーリエの問いを遮ってしまうほど、侍従はひどく取り乱していた。その理由を知ったアマーリエも驚き、くっと顎を引いて気を引き締めた。裾をさばき、先導する女官に続きながら、詳細を聞く。
「先方のご用件を伺いましたか? 感染症の件ですか?」
「はい、い、いいえ! その、流行病についてのお見舞いを携えていらしてはいるのですが、もう一方の件がわたくしどもでは要領を得ず……」
「もう一方……何と仰っているんですか?」
「『儀式』を執り行うと申されております」
 アマーリエはぴたりと足を止めた。
 気付けば呼吸も止まっていた。目眩のような恐れと、そのときが来たのだという鼓動の音を聞く。
(でも、どうして命山が……ああ、そう、か)
 命山の使者の来訪、その理由に行き着いて、アマーリエは胸を押さえてわずかに頭を垂れた。
 そして、焦ったように、あるいは恐怖したように見つめる女官と侍従の視線を振り払うように、歩みを再開する。
「真様……」
「大丈夫です。行きましょう」
 王宮内はとても落ち着いた状況ではなかったが、使者をそのまま放置するわけにもいかなかったらしく、アマーリエは神殿で彼らと顔を合わせることになった。案内は女官と侍従から神官に代わり、周りは途端に静かになった。
 アマーリエを待ち受けていたのは、白い装束と覆面をまとった五人だった。広間には彼ら以外の姿はない。案内役の神官が入り口の近くまで下がり、他の神官たちと同様に、彫像のように見守る姿勢を取っているだけだ。
「他の方々には下がっていただきました」
 アマーリエが不審がったことを察して、正面にいた使者が言った。声は、若い男性のものだった。おしなべて長身のリリス族で、座っているものだから性別も年齢もわからないけれど、命山からここまで来る人々がただものではないことははっきりしている。アマーリエは頭を下げて、彼らの正面に座った。
「真夫人、アマーリエ・エリカでございます。遠路はるばるお越しくださったというのに、お見苦しい状態で誠に面目次第もございません」
「地上の様子は聞き及んでおります。命山の主に代わってお見舞い申し上げます。主は地上の混乱に胸を痛め、何かできることがあるなら力を尽くすとの仰せでした」
「ご厚情、痛み入ります。わたくしどもの力不足で、御方様に不要なご心配をおかけしてしまっておりますが、手を尽くして必ずリリスを守り抜くことをお約束申し上げます」
 形ばかりのやりとりが終わると、互いに息をつく間があった。
 切り出したのはアマーリエだ。
「『儀式』のこと、ある御方から伺っております」
 使者は微笑んだようだった。
「存じております。その御方の指示を受け、主の許しを得て参りました」
 途端、空気がひりつくような緊張感を帯びる。
 命山からやってきたリリス族、彼らが秘めている何かを感じ取って、アマーリエは束の間息を止めた。
「時間がございませんゆえ、早々に儀式を執り行いたいと思うのですが、最後に確認を。儀式は、失敗する可能性がございます。またお命に危険が及ぶやもしれませぬ。それでも、よろしいですか?」
「はい」
 しかしその張り詰めた空気の中でも、アマーリエは躊躇いなく頷いた。
「その上で、お願いがございます」
 使者は頷き、かすかに微笑んだようだった。
「命山の主より、真夫人の望むように、とのお言葉をちょうだいしております」
 両手をつき、額ずく。
 ――もう後戻りはできない。
 アマーリエのわがままを独裁と知りながら、後押ししてくれる命山のリリス女神に、心の中で何度も感謝を述べた。遠く離れたその人をも悲しませ、深く傷つけたことを理解するアマーリエにできることは、ただひたすら謝意を示し、自らが成すと決めたことを全うしてみせることだけだった。

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