―― 第 17 章
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 キヨツグの目の前に広がるのは、極彩色の世界だ。目眩をもたらすような色調の、有翼馬、大角鹿や尾長鶏、巨大な蝶の群が、あちこちで跳ね、飛び、遊びまわっている。子どもの落書き、あるいは絵師が戯れに描いた悪趣味な極楽のような光景だ。
 ここはリリスではない。リリスはこのような色彩に溢れた地ではないからだ。空と草原、水と植物の作る調和した景色は、慎ましく、寄り添うようで、このように見ていて疲れるものではない。夢なのだから当然だ、と、誰かが囁きかける。間違いなくこれは悪夢の類だ。
 何故こんな夢を見ているのか。靄がかかったように意識がはっきりしないため、思い出すことは諦めて、自らの根幹にある存在を呼び起こそうとする。
 閉じていた目を開くと、遠いところに小さな背中が見えた。
 長い髪は夜の水面のごとく、細い身体は花のようにたおやかで、凛とした表情も、柔らかにほころぶ微笑みも、そのどれもが愛おしい。
(……エリカ)
 頼りなげに見えるのに、意外と頑固で、芯が強い。何が譲れないものなのか、心の奥底で知っている娘だ。
 エリカ、と呼んでみるが、彼女は振り返らない。聞こえなかったのかと思い、もう一度呼びかけても、身じろぎすらしない。両手で耳を塞いでいるのだと、目を凝らしてわかった。
 何を恐れているのだろう。何から身を守っているのか。幼子のように背中を丸め、脅威が通り過ぎるのを待つかのような姿に、キヨツグは焦った。
 早く行ってやらなければ。大丈夫だと言って、抱きしめたい。しかし思えば思うほど、キヨツグの声は枯れ、身体は鉛のように重くなり、アマーリエは身を縮こめてますます強く耳を塞ぐ。
 これは本当に夢か?
 一度抱いた疑念は、強くキヨツグを絡め取る。少なくとも、呼ぶ声は届いていないという現実が、この景色を形作ったのは確かだ。
 キヨツグは呼んでいる。ずっと、ずっと、語りかけている。アマーリエが身の内に封じ込めている小さな己を解放していいのだと、ずっと、思っている。
 しかし閉じこもってしまうなら、この声も、思いも届くことはない。
 そしてキヨツグが諦めてしまえば彼女を守ることもできない。ゆえにキヨツグは呼ぶ。繰り返し、何度も、繰り返し。エリカ、エリカ、エリカ。

「――…………カ……」
 振り絞っていた声は、実際には名前になり損なった音として、暗い中空に消えた。
 ひどく、寒かった。全身に汗を掻いていて、身体はだるく、目は光に慣れずちかちかと眩んだ。瞬きすることすら億劫で、呼吸さえ体力を使う。いつの間にかひどく消耗しているのだった。
 音を立てないよう、辺りを確認すると、キヨツグが寝ているのは神殿の奥宮のようだった。灯りは絞られ、帳は降りきって、天井の装飾が闇に沈んでいる。寝台は、わざわざしつらえたのだろう。こんな奥まった場所にキヨツグを寝かせる状況が発生したということだ。
 傍らに、妻の気配は欠片もない。代わりに密やかな衣摺れの音が聞こえた。歩く音からするに、女官だ。
「……天様?」
 寝台を覗き込んだのは、アマーリエ付きの筆頭女官であるアイだった。
「…………アイ……」
 途端、彼女は安堵のあまりか、泣きそうに顔を歪めた。
「お目覚めですか……! ああ、本当によかった……」
「何故……お前が、ここに……」
 筆頭女官なのだから、非常事態でない限り、アマーリエの近くに控えているはず、それがどうしてこんなところにいるのか。声を絞り出して説明を求めると、途端にアイは顔を曇らせる。確実に、アマーリエの身に何かあったのだ。
 身を起こそうとすると、アイの手に阻まれる。振り払えるはずが、桶から水が零れるがごとく、全身から力が抜け、押し返しもしないその手のせいでキヨツグは再び寝台に沈み込んだ。
「どうかいましばらくお休みください。天様には休息が必要です」
 哀れむような言い様に、キヨツグは常ならば抑え込める感情が暴れ出すのを感じ、敷布を握りしめ、唸った。
「エリカは、どこにいる……!」
「……医官を呼んで参ります」
 冷静に言い置いたアイが部屋を出ると、やがてリュウとシキが、先導してきた彼女を追い越すようにして飛び込んできた。だがそこで驚愕したのは、もう二度とまみえる機会はないと思っていた義母アンナが姿を現したことだった。キヨツグは今度こそ、寝台を握りつぶす勢いで力を込めた。
「これは、どういう状況だ……どうして、あなたがここにいるのか!」
 アンナはその勢いをさらりと躱す。
「アマーリエに呼ばれたからよ。まずは落ち着いてちょうだい。あなたはあの子のために眠らなくては。嫌だと言うなら薬を使うわよ」
 わざとらしく茶化した物言いに、頭が冷えた。頭に上った血が一気に冷え、キヨツグは激しい目眩を覚えてきつく目を閉じた。そして、やっと状況を飲み込めた。
 病の流行。腕の傷の痛みと熱。断片的だったものが繋ぎ合わされていく。押し寄せる報告を聞き、仕事をさばいている間に倒れたことも思い出した。代わる代わる人が現れる夢を見た気がしていたが、キヨツグの意識が朦朧としていただけで実際に起こったことなのだろう。
 夢だと思っていたそこで、泣きそうな顔をしたアマーリエは愛の言葉を囁いて。
(……『許して』と言った)
 医官たちはキヨツグの脈を取り、熱を測って、状態を確認している。アマーリエに知らせはいったのだろうか。そして自分が目覚めたということは。
「特効薬が見つかったのだな」
「はい。真様が手を尽くしてくださいました」
 リュウの答えを聞き、キヨツグはわずかに力を抜いた。
「……そうか。私たちは助かったのだな……」
 そのアマーリエに会いたいと告げようとしたが、途端に襲い来る眠気に抗うことはできなかった。後から思うなら、弱り切った身体が休息を欲していたのだろう。意識が綺麗に消えてなくなるようにあっという間に眠りに落ちたせいか、夢すら見なかった。

 次に目が覚めたとき、ほんのひととき眠ったように思えたが、感覚からすると半日以上は経過している。身体がとても軽く感じられた。熱が下がった後のべたついた口内を濯ごうと、水差しを求めて身を起こしたが、すっきりした意識とは裏腹に四肢は萎えていて、姿勢を崩してしまった。だがその物音を聞きつけて、再びアイが現れた。
 キヨツグが水を求めていることを知った彼女は、すぐさまやってきて、水を注いだ器を手渡した。一息に飲み干すと、胸に残っていた息苦しさをすべて吐き出すことができた気がした。
 そうして、尋ねた。
「真はどこだ。私の不在中、何があった」
 アマーリエがいない、それが異変の最たるものだという確信があった。キヨツグが覚醒したのなら必ず姿を見せるだろうし、呼ばれることだろう。だがここには気配すらない。それに誰も彼女を呼ばず、いまをもってなおアイは知らせを出そうとしない。
 彼女との最後の記憶が、夢の中での小さな背中になるなど許せない。
 キヨツグの眼差しが定まっているとわかったのか、アイは頭を下げた。
「申し訳ございません。わたくしでは正しくお答えできませんので、事情に通じた方をお呼びいたします」
「ならば良い、私が行く」
 枕元にあった愛剣を掴み、寝台を出る。寝間着は着崩れてしまっていたが、着替える暇すら惜しかった。髪も梳らないまま、宮中を歩き回るキヨツグに、偶然通りかかった者は驚愕の顔つきで、言葉を飲み込み、拝礼した。途中、身支度を促す女官たちが駆けつけたが、キヨツグはそれを跳ね除け、先を行くアイと途中で合流したユメの導きで離宮に向かった。
 離宮の入り口には、アマーリエの従姉で市職員であるイリアが待ち構えていた。さらに背後から迫ってきたのはカリヤやハルイといった長老たちだ。両者ともに、中央にいるキヨツグを睨むように立っている。
「何があったか説明を願いたい。真はどこにいる」
 イリアは一瞬、視線を揺らした。だが覚悟を決めたように、ぐっと顎を上げた。リリス族長に対する、都市の一外交官の顔になる。
「アマーリエは都市にいます」
 予想しうる中で最も恐れていた状況に、思わず顔が歪む。
「ご説明しますので、どうぞ中へ。病み上がりで立ち話はお辛いでしょう」
「構わぬ」
 キヨツグはイリアの気遣いを一蹴した。
「それよりも早急に説明を求める」
 イリアの視線は、キヨツグを守るアイや背後にいる長老に向けられた。だが誰も否やを唱えなかったために、場所を変えることを諦め、キヨツグから目を背けることなく、これまでのことを話し始めた。
 それは、悪い夢のようだった。ヒト族が持ち込んだのは薬ではなく栄養剤でしかなかったこと。病の原因はヒト族が作り出したこと。アマーリエは都市から特効薬を引き出すために行動を起こし、発病者の血を輸血することで己を人質にしたのだという。愛娘の脅迫にコレット市長は屈し、本物の特効薬が届けられた。だがそれを摂取する前にアマーリエが倒れた。ただの感染症ではないと予測されたため、止むを得ず都市に搬送されたのだという。
 キヨツグは持っていた剣の鞘を払うと、背後にいる者たちに切っ先を突きつけた。
「……誰も止めず、あまつさえ行かせたのか、お前たちは!」
「喜んで行かせたとお思いですか」
「申し訳ございません。打つ手は限られておりました」
 キヨツグが感情を露わにし、多くが怯み、誰もが冷静さを失いつつあった中で、言い返したカリヤと表情を引き締めて謝意を示したハルイは勇敢だった。怒りを向けられてなお、さらに真っ向から意見したカリヤは、恐れ知らずと讃えられるかもしれない。
「薬を手に入れ、その真偽を明らかにするには、ご自分が最も的確であると真様はご存知でした。感染者の血液を輸血することの危険性も、その行為が天様を激怒させることも、すべて承知の上で、あの方はリリスを守ったのです」
「カリヤ――!」
「それがどれほど恐ろしい方法であっても! ご自身ですべて背負われた、その覚悟を無駄になさるか!?」
 キヨツグが激情のままに叫ぶと、カリヤもまた怒りを込めて絶叫した。
 歯を食いしばり、荒い息を吐きながらカリヤを憤怒の目で見据える。だが、カリヤもまた、抑えきれない感情で目をぎらつかせていた。それを見守るしかできない周囲の表情は、誰しも影を落としたように暗い。気付けばそれは、いまこの王宮全体を覆っている悲哀と死の帳と同じ色をしていた。
 感情に振り回される一方で、それらを冷静に感じ取れても、キヨツグの怒りと無力感は行き場を見失っていた。キヨツグの不在の間、アマーリエは一人決断をして、苦しい選択をし、誰にも助けを求められずに倒れたのだと思うと、やりきれなかった。
「リリス族長。アマーリエのことは後ほどお話ししますので、現在の状況についてご説明させてください」
 頃合いと見たのか、イリアが軽く手を挙げた。
「まず――対異種族のために開発された病原菌によって発症するのが、フラウ病です。ヒト族はこの開発と同時に特効薬の研究を進めていたことが、これまでの調査で明らかになっています。目的は、薬を要求するリリス族やモルグ族に、ヒト族にとって有利な交渉を行うためです」
 病を作り、ばらまくなど、神を模倣する行為だ。それともヒト族は神になりたいのか。
「彼らはいずれ報いを受けるだろう」
 思わず漏れた呪いの言葉に、イリアは顔を歪め、頷いた。
「はい。ですから――ヒト族にも感染が始まったんだと思います」
 それを聞いて、キヨツグは目を閉じた。アマーリエとともに訪れた都市に病が蔓延し、少しずつ死の気配に覆われていく様子が目に浮かんだ。
「フラウ病は異種族を想定した感染症でしたから、ヒト族への感染対策は講じられていませんでした。さらに元々の病原菌がそれまでとは異なるものに変化したことが原因で、初期の特効薬が効果を発揮しないという最悪の事態になった。新しい薬が完成するよりもフラウ病が拡大し……第一都市から第四都市まですべての街が多数の死者を出して、大混乱に陥っています」
「――その身で贖ってもまだ足りぬ」
 リリス族としての本音を、ヒト族の女性外交官は甘んじて受け、反論しなかった。
 だが、いくら都市を代表する公人とはいえ、年若い女性をいたぶりたいわけではない。己が冷静さを欠いていることをつくづく思い知らされ、キヨツグは息を吐いた。
「……申し訳ない。配慮に欠いた物言いをした」
 繋がりが希薄であったとしても同じヒト族が死に至っている状況で、リリス族の長であるキヨツグが放っていい言葉ではなかった。イリアは「いいえ」と緩やかに首を振り、痛ましげに目を細めた。
「あなたの怒りはもっともで、私たちはあなた方にお詫びをしなければならないんです。私たちは頼らざるを得なかった、誰よりも早く感染し、免疫を持っていたのが……」
 このとき、それまで懸命に取り繕っていたイリアの穏やかな表情が剥がれ落ちた。
 最初に感染し、免疫を持っていた人物。
「アマーリエ、の――子どもです」
 ――声が、聞こえた気がした。
 優しく柔らかい、甘い響き。微笑んでいるように思えたのは、キヨツグがそうあってほしいと望んだからに過ぎない。なんの苦しみもなく笑っていてほしいという願望だ。
 続く言葉を聞いたキヨツグは言葉を失い、無意識に口を覆っていた。そうしなければ絶望と呪いを咆哮していた。けれど心は、手放してしまった彼女をただ、呼んでいた。
(エリカ――……!!)

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