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なんという。なんということが。キヨツグの耳には何度もアマーリエの声が届くのに、それに応えることができなかった。絶望が濃く深く、己を飲み込んでいくからだ。ああ同じ思いを味わわせることができたなら。胸の奥に沸々と沸く澱んだ怒りは、不思議なほど心地いい。誰かに浴びせかけることができたら、少しは溜飲が下がるだろうか。
「天様……!?」
ぞくり、と背筋を駆け上ったのは、悪寒だったのか快感だったのか。
最も近くにいたイリアがキヨツグの変化に気付き、声を上げると同時に、激しく踏み込む音がして、鋭い一撃が走った。瞬時に我に返ったキヨツグが、殺気がないと判断して防御のみを行ったとき、己を飲み込もうとしていた感情の闇は霧散していた。
そして襲い掛かってきたオウギは、それらすべてを知っているかのように周囲を一瞥し、最後にキヨツグを短く叱責した。
「馬鹿者が」
滅多に口を開かないオウギの、呆れ切ったような、苦々しいその表情は、はっきりとキヨツグの目を覚まさせた。落ち着いたとみたのか、彼はそのまま、キヨツグにだけ聞こえる声で囁く。
「不用意に憎悪を撒き散らすな。何のために感情を制御する術を身につけさせたと思っている」
まるでこうなることがわかっていたかのようだった。疑問を抱くこと、すなわち立ち止まることだ。ようやく聞く耳を持ったキヨツグに、オウギは畳み掛けるがごとく言った。
「頭は冷えたか? では来い。――話さねばならぬことがある」
有無を言わさぬ態度に、弱っているせいもあったのかつい、飲まれた。オウギらしい、周囲のなどまったく意に介さない独自のやり口だった。未だ万全でないキヨツグは、目眩と頭痛を覚えてくらりとしたが、その場にいる者たちに、引き続き持ち場につくこと、後ほど引き継ぎを行うことを告げ、早足でオウギの後を追った。
どこへ行くのかと思ったが、連れてこられたのは先ほど出てきたばかりの神殿だった。不安そうな顔をした神官たちに平伏されながら、足を進めた先に待っていたのは、白い浄衣の者だ。
何故命山の者が、と訝しむ間もなく、平伏した彼らに差し出されたのは、一通の書状だった。少し不慣れな可愛らしい手は、アマーリエのものだ。
問うよりも読む方が早い。急いで封を切る。
『何かあったときのために、この手紙を命山の方に託します』という書き出しで、アマーリエは、キヨツグ不在中に起こった出来事を淡々と綴っていた。報告書足らんとして、感情を殺したとわかる文面だ。イリアの説明はこれらを裏付けるものだとわかった。
だが最後にあった『儀式を行った』と一文には目を剥いた。
そして続く内容に、アマーリエの身に何が起こったのかを察した。
それまでの感情が溢れ出したかのように、彼女は繰り返し身勝手を詫び、キヨツグとリリス族の無事をひたすらに願っていた。
『あなたがこれを読んでいるなら、きっと私の身に何かが起こったということなのでしょう。それがどうか、あなたを悲しませる出来事ではないよう願っています』
なんて傲慢で、卑屈な言葉だろうと思う。悲しまぬわけがないではないか。
(……目覚めて、お前の姿がないだけで、これほど苦しいというのに)
しかもそれだけではなく、儀式を行い、赤子を宿しながら、病に冒され、都市にいるという。
『この振り絞った勇気で、あなたとあなたの大切なものを守りきることができますように。心から、愛しています』
最後の署名の墨の色まで目に焼き付けて、キヨツグは顔を上げた。
そこにはこちらの挙動をつぶさに観察していたオウギと、対照的に慎ましく目を逸らしていた命山の代表使者が座っている。
「尋ねたいことがある。まず――真が身籠っていることを知っていたのは誰か?」
予想した問いだったのだろう、オウギは首を振る。
「誰も知らなかった。可能性がある、とは医官の記録にあったが、後に打ち消されていた」
「何故に?」
「それらしい予兆がなかったからだ。本来なら子が育ち、腹部が目立ってきていただろうに、着替えを手伝っていた女官の誰も気付かなかった。本人にも自覚がなかっただろう。でなければ儀式を強行できたはずがない」
オウギはため息をついた。「知っていたら止めていた」と手のひらで左頬を拭うような、不思議な仕草をする。本当に止められたか? と物申してしまいそうだったキヨツグに気付いて、命山の使者が口を開いた。
「生まれるより以前の魂が、不思議な力を行使する逸話は多々ございます。母体が無理をしていることを感じ取って、自らの成長を最低限に抑制していたのやもしれません。そしてそれが、病の悪化を防ぎ、儀式による変異を押し留めていた、ということも考えられます」
誰も気付かず、知らなかったというなら、仕方がない。ここで彼らを責めても意味がないと、次の問いに移る。
「儀式の結果はどうなった? 先ほどの話では、何も起こらなかったように聞こえた」
儀式がなんたるかは、族長として把握していた。ほとんど形骸化し、現在は行われいないことも。それでもリリスにとっては、始祖と乙女の誓約という形で、伝承や昔話の一風景として知られているだろう。つがいの誓約、己が伴侶と定めた者同士のものだ。
「わかりませぬ。少なくとも、真様がこちらにおられるときには、どのような変異も見られませんでした」
「そうすると、どうなる」
「このまま、何事もなくただのご夫婦として過ごしていかれる可能性が高いかと存じます」
そこへオウギが口を挟んだ。
「不完全な形で結びついている場合もあり得る。そのときは、細いつながりで終わることも、何かをきっかけに完全形になることもある」
どちらにしても、変化が見られなかったのなら、アマーリエに危険が迫っているわけではないと考えてもよいのだろう。儀式の成否は、彼女が戻ってきてから考えればいい。
アマーリエは身籠っている自覚がないまま、儀式を行い、同時に都市へ特効薬を要求した。それらをキヨツグの同意なしに行ったことを、ひどく申し訳なく感じている。大丈夫だと言ってやりたいのに、本人は都市にいる。取り戻すことは、恐らく困難だ。
「此度のこと、命山はどのように考えている?」
これが最後の問いだ。キヨツグは双方に尋ね、使者は回答をオウギに譲った。オウギはどこかわずらわしそうな様子で、眉間にかすかな皺を寄せる。
「これがヒト族からの攻撃だとは考えてはいない。現状、証拠がないからだ。たとえそうだとわかったとしても、関与しない。命山は地上のことには関わらない」
キヨツグは頷いた。出てこられては困る。命山にあるものすべてが、リリス族にとって侵し難いものであり、容易に触れられるものであってはならないからだ。一族の危機を迎えたとしても、あの地に座すものはそこにいて、ただ見守るものであらねば、これまで積み重なってきた歴史と伝統が崩れてしまう。
「ただ、今回は儀式が行われた。儀式を経た者を、リリスの外に置いた例はない。できれば、こちらに取り戻したいと考えている」
使者に目を移すと、同意するように頷きが返ってきた。積極的には手出ししない、だが出来る限り、アマーリエを取り戻してもらいたい、というのが命山の意思なのだ。
ひとまず、聞きたいことは一通り聞いた。後は、どのような行動を取るか組み立てていく必要があった。そのためには、いまキヨツグの仕事の代役を務めている者たちから引き継ぎを始めなければならない。
「真夫人を取り戻そうとすれば、ヒト族との敵対は必至。だが取り戻さねば、リリスの沽券に関わる。事情を知る者は報復を望み、あるいは戦いを厭うだろう」
お前は何を選ぶ、とオウギは言った。
キヨツグは答えた。
「『何をするべきか』ではない。『失ってはならないものがある』だけだ」
リリス族のためにこのまま現状を維持するか。都市に攻め込み、報復するか。為すべきことを為さなければ、族長と呼ばれる資格はない。ヒト族の行いは疑いようもなく非道であり、たとえ病に感染し死者を出したとしても、報いを受けさせたいという思いは誰の胸にも燻っている。
アマーリエを取り戻すことは、いずれにせよキヨツグの私情が入る。
けれど心はずっと、彼女を呼んでいる。彼女の姿、声、その名前を求めていた。
キヨツグは、再びアマーリエの手紙に目を落とした。その署名をじっと見つめる。
――『アマーリエ・エリカ・シェン』。元々の姓ではなく、キヨツグの姓を名乗っているのは、都市に見切りをつけ、リリスで生きることを選んだ証。彼女の決意だ。
望むことと諦めることを、アマーリエはよく間違える。
「真を取り戻す」
ゆえに、キヨツグは誤ってはならない。彼女の過ちを正し、秘められた思いを掬い上げるために。
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