<<  |    |  >>

「――――……」
 アマーリエは、詰めていた息を吐いた。
 マリア・マリサ・コレット。亡くなった父の姉。アマーリエに似ていたという伯母だ。賢く、優しく、華やかな人だったとみんなが語っていたその人は、とてつもなく強い人だったのだろう。誰にも知られないところで、常に自らの行いを振り返り、自制し、思考する人だったようだ。友人が多く、社交的で、魅力的な人柄が強調されているけれど、人々が語るような驕りも、奔放さや身勝手さも、アマーリエには感じられなかった。
 むしろ、ずっと家族や自分の在り方について悩んでいるのが気にかかった。どれほどの思いを、笑顔の裏に隠していたのだろう。感情豊かで、感受性が強かったからこそ、マリアはきっと明るく笑っていたに違いない。
(この人が弟を心配するのは、自分が同じことで傷付いていたから……)
 なのに、幸せを奪った弟への恨みつらみはほとんど残されていない。激しい怒りや絶望に苛まれている期間は、葛藤や懊悩を書き残すことなく、筆を止めている。
 きっと、弟を恨むには、彼のことを知り過ぎていたのだろう。そのような行動に至る理由に心当たりがあったのだ。
 家の名誉のために抑圧され、心を許せる友人はおらず、そつなく人と付き合いながらも本当の笑顔を浮かべることができない。
 でも、彼女は、信頼できる人、心を明かせる人に出会った。
 その『彼』が誰なのかはっきりと書かれていないけれど、内容を拾っていくと年上のようだ。それほど年が離れているわけではなさそうだが、途中『彼の部屋で読書会をした』という表記がある。学校内で部屋を持っているのなら、教員や講師だろうか。
 この日記が始まった頃に書いてあったようなことを、実際に聞いてくれていたのが彼だったとするなら、とても温厚で誠実な人柄だったのだと思う。父が言葉を濁し、祖母が吐き捨てたような、『年頃の娘を拐かした卑しい男』とはかけ離れた、孤独で孤高だったマリアを慈しんで包み込んでくれる、優しい人だったのではないだろうか。
(想像しかできないけれど、この人の結婚は、とても幸せなものだった)
 懊悩の果てに書き留められた『私も、彼を、愛している』という一文を、再び視線でなぞる。
 強い風を受けたように、アマーリエは目を閉じた。きつく閉じた瞼の裏に、こみ上げる涙を抑え込む。
 たった一つの恋を見つけた、大いなる喜びを、私は知っている。彼女が覚悟に込めた恐れが、わかる。それを認めるとき、とても怖くて、でも、嬉しくて。失う瞬間をいまから想像してしまう。なのにたとえようもなく幸せなのだ。
 次のページをめくって、動きを止めた。見開きの綴じの部分、ぎざぎざした破れ目を指でなぞり、沸き起こる予感に唇を結ぶ。
 アマーリエは、彼女の物語を知っている。
 このとき、何かが起こった。とてつもなく嫌なこと、悲しいことが、マリアを襲った。
 そうして一枚、二枚とめくった後、走り書いたような小さな文字がページを埋め尽くしていた。一見して、ぞくりと背筋が粟立つ。狂気を感じた。あんなに強く進んでいた人が、何故。信じられない思いでそれを読む。

『これを読む、あなたへ。
 いまから綴るのは、あなたへの別れの言葉。
 あなたにとって私は唯一かもしれないけれど、私にとってあなたはそうではない。そのことを何度告げても、あなたはまったく聞く耳を持たなかった。
 可哀想な子。けれど、あなたをそういう人間にしてしまったのは私たち家族だ。愛というものの形を歪ませてしまった。それしかないのだと思わせてしまった。最も責任が重いのは、ずっとあなたは思いを伝えていたのに、それを家族の愛情だと思い込んでいた私だ。
 あなたの人生を狂わせた。でもだからといって、私の人生を狂わせていいわけではないことは、どうかわかってほしい。あなたは私の大事な家族。大事な弟。私があなたを選ばなかったからといって、あなたを愛していないわけではないのだ。
 けれど、もうこれ以上、私の世界をあなたに奪われるわけにはいかない。私はあなたのものではない。あなたのものになるつもりもない。
 だからあなたにはもう何もあげない。
 たった一つの希望の光を奪われるくらいなら、私はそれを抱いて、この世から消えることを選ぶ。
 さようなら。どうかあなたが、次の愛に巡り会えますように。あなたの愛を受け止めてくれる存在が現れますように。』

 遺書だ、とアマーリエが息を飲んだときだった。
 ――ぱん!
 何かが破裂するような音が響いて、思わず扉を振り向く。
(……何の、音?)
 夢中になって日記に入り込んでしまっていたせいか、驚いた心臓がどっどっと激しく打っていた。滞っていた闇は、いまにも渦になりそうだった。そこから化け物が現れてもおかしくないような不穏な気配を漂わせている。
 耳を澄ますが、音は、もう聞こえない。
 けれどかすかに、人の気配がする。
 警備の人間か。スーワイとダオのどちらかが見回りをしているのか。普段は管理人夫妻が住んでいるだけの家も、アマーリエがいる現在、限られてはいるが夜中にも人の出入りがある。父も夜の深い時間や明け方に帰ってきて、また早いうちに登庁しているようだ。
(……そんなわけ、ない。あるはずがない……)
 そう思うのに、この慕わしいような、切ない感覚は何なのだろう。
 マリアの日記を読んで、彼女を自分と重ね合わせてしまっていたせいなのか。思いが強まって、焦がれる気持ちが勘違いさせていると考えるのが普通だろう。
 キヨツグが、すぐ近くにいるような気がするのは、そうであってほしいと思うせい。こんな夜に、自分に似ていたという女性の日記を読んでしまったから。そう思いたいのに、心臓が早鐘を打っている。驚愕ではなく、期待のせいで。
 アマーリエは日記を置くと、そっと扉を開けた。そこには暗闇に包まれる廊下が続いていて、もしかしたらダオが明かりを持って見回りをしている、そんな光景を想像して――裏切られた。
 廊下の離れたところにあった闇が身を起こし、こちらを見る。
 その瞳は人外のごとく光っていたが、アマーリエを捉え、驚愕に凍りついた。アマーリエの思考もまた、停止した。まとめられた黒い髪、身に纏うものは見慣れないけれど、その顔を、その姿を、どれほど思い描いたことか。
「キ……――!?」
 だがその名を呼ぶ前に、彼は理性を取り戻し、人並みならぬ跳躍力で後方へ下がる。そちらへ駆け寄ろうとふらふらしながら飛び出したアマーリエを、そのとき思ってもみない声が阻んだ。
「おや、アマーリエ起こしてしまったかい。うるさくしてすまないね。でも危ないから部屋に戻っていなさい。すぐに行くからね」
「父、さ……」
 ぱんぱんぱん、と小さな破裂音が響いて、ひっと身を竦める。
 床に、壁に、小さな穴が穿たれていた。ジョージは手にしていた拳銃を放り捨てると、上着の内側から新しい武器を取り出し、キヨツグに向けた。躊躇いのない攻撃、次から次へと使い捨てられる銃弾と武器は、彼がこうなることを最初から予測していたのだと察するには十分なものだった。
(助けなきゃ!)
「来るな!」
 鋭い一声に足が止まる。キヨツグは行く手を阻むジョージを見据えている。アマーリエの知る彼なら、銃さえ取り上げられればヒト族一人を無力化するなど造作もない。だが父は、その前にキヨツグを射殺してしまうかもしれない。
 そう思った瞬間、アマーリエは虚空に投げ出されたように、力をなくして、座り込みそうになった。
(…………いや、だ……)
 キヨツグが傷付くのは嫌だ。
 けれど、彼と父が争うことでどちらかが失われるのも、嫌だ。
 父のやり方も、愛情も、アマーリエの望むものではない。いますぐに銃を置いて、自分を解放してほしい。アマーリエはマリアではなく、マリアの代わりに愛情を注ぐこともできない。
 それでも、ジョージ・フィル・コレットはアマーリエの父親であり、家族だった。図らずも、マリアが思ったように、アマーリエはジョージのことを家族として一欠片であっても愛していたのだ。
 殺し合おうとする二人をどうすれば止めることができるか。アマーリエは部屋へ駆け戻り、何かないか、部屋をぐるぐると見回す。照明器具は重すぎる。椅子もだ。もともと物が少ない部屋で、刃物などは徹底的に排除されている。
 そのとき、風を感じた。
 ぴったりと閉ざされているはずのバルコニーに続く扉にかけられた、白いカーテンが揺れたような気がしたとき。アマーリエの意識は、一瞬、過去に飛んだ。――萎えた足が真白い舞台となったバルコニーへ向かう。一人の女性が寝間着姿でその扉を開け、鳥のごとく身を躍らせようとした。けれどふと、彼女はこちらを振り向いて。
「――――」
 目を伏せていたアマーリエは、次の瞬間、棚にあったテーブルライトを掴むと、引き抜いた勢いのままバルコニーの扉に叩きつけた。消音装置付きの銃よりも、格闘する物音よりも、凶悪で不吉な、硝子の砕ける音が、夜の闇に高らかに響き渡った。

<<  |    |  >>



|  HOME  |