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 ジョージは、その手、その顔、その声には似つかわしくなく使い慣れた様子で、懐から新しく取り出した銃を、キヨツグに向ける。
「君も無謀だね? まさか乗り込んでくるとは思わなかったよ。愚かにも程がないかね」
 笑みを交えて挑発してくるが、キヨツグはそれらすべてを無視した。彼がここにいるということは、アマーリエは必ずこの奥にいる。ここを突破できれば。
(……武器には限りがあるはず。撃ち尽くさせるか。だが時間稼ぎなら新手が来る。早々と無力化するのが最適か)
 命までは、などと手心を加える必要はなかったかもしれない。市長が手にしているのは、命を奪う武器だ。相手がリリス族の長と知って、それを向けているなら、彼はキヨツグを殺す気でいる。
「でも手間が省けたと思っていいかもしれないな。君がいなくなれば、アマーリエはようやく自由になれる」
「…………」
 世迷言を、聞く気はない。だが、キヨツグはアマーリエの心の傷を知っていた。彼のこの言動が、長らく彼女の心にひびを入れ、痛みとなって苛んでいたことを思うと、容易に受け入れることはできなかった。
「……どこにいるのだとしても、生きている。それでは許せぬのか」
 ジョージは、笑った。とてつもなく面白い冗談を聞いたかのように、だが彼らしく上品に顔を歪めるだけの笑顔を見せた。
「自分にしか幸せにできないとわかっているのだから、他人に渡せるはずがないだろう」
 沈黙が拮抗する。キヨツグは、感情に支配されそうになる己を、緩やかに押しとどめた。ここで彼を排除するのは、自分には容易い。だが、キヨツグはリリス族の長で、ジョージは第二都市の市長だ。父と娘の関係性を利用したアマーリエとは異なり、政治家として取引できるものがキヨツグにはある。
「――あなた方は、自らの始まりを知っているか」
 甘ったるい笑みは嘲りに変わった。
「異種族ごときの答えなどたかが知れている」
「だが、私に流れる血には興味があろう」
 ぴくり、と銃口が揺れたのをキヨツグは見た。撒いた餌に反応しているいまが好機だと、素早く囁く。
「リリス族長家をはじめとする、主要氏族の家系図と、当時の記録文書、各地に点在する祠、社、廟、遺跡。古い話を語り継ぐ古老たち。それらを閲覧、調査することを許可する。……あなた方が『ロスト・レコード』と呼んでいる時代が、明らかになるのではないか」
 リリス族が長らく守ってきたもの、それを公開してやろうという破格の待遇だ。彼自身に興味はなくとも、他都市の市長や、研究者、特に報道関係者には飛びつく者も少なくないと確信している。
 誰しも一度は疑問に思ったことがあるだろう。自分たちがどこから来て、何故この地に住まうのか。旧暦に存在する東洋と西洋は、なにゆえ統合されたのか。そのとき何が起こったのか。
 それでも、ジョージは笑顔の仮面を貼り付けたままでいる。
「他民族の伝承に過ぎない」
「その価値は他者が見出す」
 由縁と呼ばれるものを彼らが欲するのは、都市において幾多の人種が住まうからだという。肌の色、瞳の色、言語、名前、祭礼などの風習、そして宗教。
 そこで初めて、彼は何かに気付いた様子で、剣呑に目を細めた。
「……今挙げたものの他に、明かしていないカードがあるのだね?」
 リリスにあってヒト族にないもの、それをキヨツグは与えることができるだろう。
 その名を『神』という。
(リリスが開かれる、すなわち命山の存在も明らかになる。いくら神代の力があろうとも、その時代から遠く離れたいま、隠し果せるとは思えぬ。我らが只人に紛れることは可能だろうが、少なくとも、神秘はその機能を失う)
 そして、信仰は政と深く結びついている。使い方次第では如何様にも市民を扇動できるだろう。市政に服従しない大小の規模の派閥の存在は確認しており、それらは揃って、旧時代か新興かの宗教組織だと調べがついている。
 さあ、喰いつけ。詛うようにキヨツグは誘う。目を妖しく輝かせながら、思ってもみない報酬が得られるだろうという餌を散らつかせる。
 キヨツグが推測するに、この男は不安定な己を、あらゆる顔の寄せ集めでもって制御している。父親として、市長として、そして弟としての顔。アマーリエやアンナ、周囲の人々にしか見せない顔もあることだろう。それを完璧に使い分けるがゆえの思考のばらつきが、彼の矛盾した行動の理由だ。
 アマーリエに向いている顔を、こちらに向けさせる。さすればジョージは市長として、キヨツグに向き合う。そこに付け入る隙がある。
 キヨツグは、わずかに身を低くした。わずかな力で、銃弾が撃ち放たれる前に、ジョージに肉薄する。いくら有能な市長とはいえ、近接戦に慣れているとは思えない。鍛えていないわけではなかろうが、刀剣の扱いと馬術を嗜むリリス族とは身体の作り方からして異なっている。油断ならぬ相手だが、勝てる、確信があった。
 静かにこちらに近付いて来る別部隊の気配を探りながら、待つ。
 くっ、と、ジョージの喉が動いた。キヨツグが返答を聞くべく全身を研ぎ澄ました、そのとき。
 小さな足音とともに、きぃ、と蝶番の軋む音がした。
 暗い廊下に、橙色の淡い光が差し込む。細い影が迷うように現れ、こちらに気付いて動きを止めた。刹那、視線が絡み、どちらも驚愕で硬直する。
(――エリカ)
 彼女の陰った瞳が、みるみる輝くのを目の当たりにして、キヨツグの心もまた、歓喜に沸き立つ。
 痩せた、否、やつれてしまった。繰り返し悲しみに打たれたせいか、儚さが増して、散りゆく花のようだ。ゆるりとした寝間着の腹部のわずかな膨らみを目にした途端、泉のごとく愛おしさが溢れる。
 だが、その感慨は長く続かなかった。アマーリエが名を呼ぼうとした瞬間、強い殺気に射抜かれ、キヨツグは後方へ跳んだ。
 下がりかけていた銃口は、いまやキヨツグを鋭く、真っ直ぐに狙っている。
「おや、アマーリエ起こしてしまったかい。うるさくしてすまないね。でも危ないから部屋に戻っていなさい。すぐに行くからね」
「父、さ……」
 続けざまに三発、キヨツグを狙って銃弾が放たれた。どうやらキヨツグの企みは失敗に終わったらしい。ジョージの顔は、完全に敵としてのそれだった。
「来るな!」
 こちらに駆けつけようとするアマーリエを制し、キヨツグもまた、ジョージを敵と見据えた。
 アマーリエは衝撃を受けた様子でよろめいたが、すぐさま反転して、開かれたままの部屋に飛び込んだ。数秒と立たないうちに、何かが倒れる音、続いて硝子の割れる音が響く。
 そして、その音に予感を覚えたのはキヨツグだけではなかった。ジョージは予兆を得たかのように大きく息を飲み、キヨツグの存在をなかったもののようにして背を向けた。あまりの変わり身に驚いたキヨツグも、その後を追い、アマーリエの部屋に飛び込んだ。
「アマーリエ!」
 直後、ジョージの悲痛な声が響き渡る。
 室内は、落ち着いた色合いに反して荒れていた。引き倒れされた家具類、割れて投げ出された洋燈。短く硬い毛の絨毯の上に、星屑のごとく硝子片が散らばっている。だというのに、ゆうらりと揺らぐ薄物の帳が、幽玄と淡く光っている。
 キヨツグは、鼻先を掠めた血臭にぎくりとした。よく見れば、粉々の硝子に真新しい血のついたものがある。それは点々と、開かれた扉の奥の露台へ続いていた。
 薄闇に包まれた舞台の上に、いま降り立ったかのごとくアマーリエが立っていた。
 幽鬼のように微笑んだ青白い唇が告げる。
「動かないで」
 背後に、武装した別働隊が駆けつける。だが誰も動くことができない。アマーリエは不安定な露台の手すりに身を預け、いつの間にか手にしていた硝子の破片を手に、笑っていたからだ。
「キヨツグ様を、無事にリリスに帰して。協力した人たちも全員解放して、二度と追わないで。でないと、ここから飛び降りる」
「アマーリエ」
 父親の呼ぶ声に、アマーリエは笑みを深めた。
「飛び降りなくても、私は、この子を」
「アマーリエ!?」
 途端、彼女は持っていた破片を自らではなく腹部に向けた。そんなことできるはずがない、と考えてしまう期待を打ち砕くかのように。ジョージが絶叫するのと同じく、キヨツグもまた強い衝撃を受け、目眩を覚えた。
「…………全員、武器を下ろし、拘束した者を解放して待機したまえ。……早く!」
 激しい口調で命じると、部屋の出入り口に張っていた者たちは波が引くように姿を消した。ジョージの大きく乱れた呼吸が響く中、しゃり、と硝子を踏みしだき、キヨツグは露台を目指す。
 キヨツグを見た途端、アマーリエの顔は歪んだ。
「……ごめんなさい、キヨツグ様。私……」
 泣き濡れて苦しげな息遣いは、いまにも彼女自身を壊してしまいそうだ。耐えるかのように握りしめた手の中、傷がついたのだろう、赤い血が滴る。けれどアマーリエはその痛みに気付いていない。それよりも胸がひどく痛むからだ。
「私、最低な……」
「……エリカ」
 いまにも泣き出しそうな顔をしながら、しかし彼女は、キヨツグの手を拒んだ。
「ごめんなさい、せっかく迎えに来てくれたけれど、戻れません。私とお腹の子が持つフラウ病の抗体がなければ、ヒト族の犠牲者は増えるばかりだから」
「……それがどうした。ヒト族の罪を、お前たちが贖う理由はない」
 それでも、アマーリエは首を振った。
「……私にはもう……戻る資格がありません。あなたの隣に並び立てるような人間じゃない。子どもを人質に取るような、こんな……」
「……それを罪と思う必要はない。戻れぬという罰を自らに課すな」
 キヨツグの足元で硝子が砕ける。その音の数だけ、アマーリエは身を引いた。それが二人の間に横たわる断裂を感じさせて、キヨツグの心が軋んだ。こんなに心を揺さぶることができるのはアマーリエだけだというのに、拒まれているという現実が、呼吸を奪う。
 闇の向こうから吹く風に冷たく嬲られながら、アマーリエは悲しみをたたえた瞳で、慰めを投げかけるキヨツグを見た。
 強い瞳をしていた。悲哀に満ち、前を向き続けて逸らさないでいようとして、なのに本当は、逃げ出したくてたまらないだろうという目だ。そう感じるのは、一度逃げたことを、重罪のように負うつもりでいると知っているせいか。
「……仕方がないんです。私は、いつだってひとつしか選べないんだから」
 そう言いはするものの、アマーリエの白い喉はひくついていた。その涙を飲む仕草は、これが決して、芯から望む言葉ではないことを知らせている。
「選べと迫られながら、選択できるものは最初から決まっているんです。私なんかよりももっと大事にされるべきもの、守られるべきものがこの世界にはたくさんある……」
 喉が、また動く。泣きたくてたまらないのに、アマーリエはキヨツグを求めない。求めてはならないと、代わりに握りしめた手の中で血を流す。
 守り続けなければならないと思っていた。耐えて耐えて、いつか自ら儚くなってしまうかもしれぬと危ぶんでいたからだ。だがキヨツグの想像以上に、アマーリエは強く、強いがゆえに痛みに屈さぬ選択をしてしまっている。
 その苦渋から解放するのが己の役目と思ってきたが、遅かった。いまこのときほど、もっと早くにああしていればという後悔に襲われたことはない。
「純粋に綺麗なものなんてどこにもないけれど、汚してはならないものは、絶対にあります。どうか、それを守り続けてください」
「……エリカ」
 呼ぶ。いつもならば、夢の中であっても、アマーリエは振り返り、花が綻ぶように笑っていた。
「……エリカ」
 しかしいまは、まるで聞こえていないかのように目を伏せている。
 動かない。
 風に嬲られ、血を流しているのに、何も感じていないかのように。
 別の世界にいるがごとく、一度も、キヨツグに答えない。
「エリカ!!」
 こちらに目を向けさせようと必死になる呼び声に、目の縁を赤くしながら、唇に弧を描いて、アマーリエは笑う。
 綻びているというのに色褪せていく唇が、拾えぬほどの声で、囁いた。
「……あいしています、キヨツグさま。だから、いきて」
 そうして、顔を上げてきつく正面を睨み付けると、鋭利な刃か炎のような冷たい威勢でもって命じた。
「――さあ道を開けて。この人たちを無事に帰して!」
 手を取ろうとするのに、触れられない。包んで温められない。これほどの距離が、あまりにも遠い。
 アマーリエは、満足げだ。透明な、見えない壁の向こうで、小さな姿は凛としていた自らを代償にしておいて、そんな顔で笑われると、いやでも思い知る。戻ることを望まないのだと、絶望と同じ気持ちで知る。――かつての過ちを負うのはキヨツグとて同じだ。ゆえに望まれなければ。キヨツグは、動けない。
「エリカ……っ!」
「天様!」
 飛び込んできたのは、イリアだった。彼女の仲間が、その場に留まろうとするキヨツグを引きずっていこうとする。
 振りほどくことなど容易いはずなのに、全身から力が失われていたせいで、否応無しにアマーリエから引き離されようとしている。これでは逆夢だ。アマーリエを迎えに来たはずが、キヨツグの方が、彼女から遠ざかっている。
(――これでいいはずがない)
 このまま、置いていけるわけがない。
 だが、キヨツグに力が足りないのもまた、確かだった。彼女に、何をしても戻りたい、と思わせるものも、有無を言わせずさらっていくだけの強制力もない。彼女がいま守ろうとしているものを、壊し、殺害する無謀も犯せない。
 ならば、力を持てばいい。
「っ!? 何してる、早く……」
 キヨツグを連れ出そうしていた男が、突如として動けなくなったことに驚きの声を発し、こちらを見て、絶句した。
 緩やかに、けれど力も入れず、キヨツグはその拘束を解き、再び足を踏み出す。見えない糸に導かれるように、アマーリエしか見えなくなっていた。彼女もまた同じようだった。絆めいた光が、互いを繋いでいる。周囲の者たちにも何らかの形で視認されているようだ。
 分かち難いそれを、いまも強く感じる。
「――必ず、」
 キヨツグの言葉にアマーリエが目を見開いた、次の瞬間、凄まじい光と音が轟いた。
 驚愕の声が上がり、その合間を反転したキヨツグが押し分け、手を引かれたイリアと、遅れて仲間たちが続く。
 市民の間で謎の咆哮と閃光の噂が流れる頃には、キヨツグたちはすでに街を出ていた。一体何だったのだろう、だが助かった、と話し合う仲間たちの声から意識を遠ざけ、キヨツグは静かに内側に籠る。
 アマーリエに告げた約束を反芻する。
(……選べるものが一つだけだというのなら)
 その他が選べなければいい。すべて、壊してしまえばいいだけのこと。
 お前が望むなら、――望まれずとも、何であろうと。



       *



 熱を持った瞼に風が当たり、素足がざらついたバルコニーの床を撫でる。ぼんやりと手すりに腰を下ろしていたアマーリエは、暗い夜空を見上げて、リリスで見た星空を思っていた。まるでダイヤモンドを散らしたような、あの空を、この場所で見ることができないだけで、胸が引き裂かれていく。
 それに、寒い。手が痛い。
 でもそんなことを思う資格はない。凍えるような仕打ちと、痛みを、キヨツグに与えた。この世に生まれ落ちてもいない我が子に強いた。この程度で寒い、痛い、怖い、寂しい、なんてことは言ってはならない。
 ざわついていた屋敷とその周辺は、徐々にいつもの静けさを取り戻していた。妙に暗い夜は、停電がもたらしてものだったらしい。外がふわりと明るくなって、ようやく都市の夜が戻ってくる。
「失礼します。市長」
 入室してきた警備主任が、アマーリエを監視していた父に、小さな声で報告する。漏れ聞こえてくる声と、眉をひそめた父の表情から、キヨツグや彼に協力した人たちが無事に逃げ果せたことを知った。
 アマーリエはそっと手すりから離れ、地に足をつけた。
「……気が済んだかい?」
 対象の捕獲に失敗したことを聞いた父は、やっと、いつもの調子を取り戻したようだ。けれど、動揺の跡は、疲れ切った顔色と乱れた前髪に表れていた。頬を撫でようと伸ばされた手を、ばしりと払いのけ、アマーリエは呟く。
「……愚かだと思ってるでしょう? そんな価値があの人にあるのかって」
 馬鹿げている、滑稽だなんて、自分が一番よくわかっている。自覚した途端に胸が破れて、アマーリエは、涙が溢れかえった瞳で父を睨み据え、泣き濡れた絶叫を迸らせた。
「これは私の、最初で最後の恋――唯一の恋に命をかけて、何がいけないの!?」
 だがその激情は、弱り切ったアマーリエの心身にとどめを刺した。ぐらりと世界が揺れ、回転する。咄嗟に受け身を取れたのは、リリスで剣の扱い方を学ぶときに指導を受けたからだろう。お腹をしたたかに打ち付けることだけは逃れつつも、アマーリエはその場に崩れ落ちた。
「アマーリエ! 大丈夫かい、アマーリエ!?」
 大丈夫じゃない。寒い。寒くて、手が痛くて、胸が、苦しい。
 涙が止まらない。
 未だ止まない耳鳴りと目眩の中、アマーリエは弱々しく父の手を振り払うが、意識は呆気なく、常闇へと引き込まれていく。
「……ごめんね、ごめん。ごめんね。ごめんなさい……――」
 当人たちへ告げる術を持たぬまま、アマーリエは悲しみとともに落ちるしかなかった。
 だから、思いのままに放った言の葉を何度も反芻し、やがて過去を思う父のことは、知らなかった。

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