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マリア・マリサ・コレットは、十代にして悪女と呼ばれるに足る女だった。少女でも娘でもなく、女だったと、ジョージは思っている。
金色の髪、碧玉の瞳。潤み艶やかな唇。豊満な肉体に伸びやかな手足。歌うような声と流麗な言葉遣い。常に一流の、ハイセンスなものを身につけ、何らかの才能に秀でた者たちを取り巻きにしていた。引く手数多、しかし一人を選ぶことは決してない移り気。その笑顔を手に入れるためなら誰も金を惜しまず、言葉をかけられるためなら犯罪にも手を染める。彼女が望まなくとも、望むであろうことを周囲が行う。そういった魔性を持っていた。
なのに、マリアが弟であるジョージを呼ぶときの顔は、心底無垢で。
この表情を知っているのは自分だけ。彼女の家族である自分だけだという優越感がジョージにはあった。大人びた彼女が柔らかな笑みを向けてくれることが嬉しくて、これ見よがしに命令されようとした。その踵の高い靴を脱がせてスリッパに履き替えさせたり、ドレスの背面のファスナーを上げたりして、周りの者たちに見せつけては、心の中でほくそ笑んでいた。
でもいま思うなら、その考えは、マリアの周りに集まっていた男たちとそう変わらなかったのだ。
何故なら、あんなに愛していたにも関わらず、マリアはジョージにも誰にも告げることなく、男と出奔したのだから。
最初は、いつもの奔放さで遊び歩いているのだろうと思っていた。母もそうだろう。マリアには、当日に宿泊できるような客室を持つ友人知人が多数いた。だが、妙に引っ掛かった。マリアは、家を空けることがあって、母には黙っていても、ジョージにはそれとなく行き先や帰宅時刻を教えてくれていたからだ。なのに今回は、何も知らされていない。
家出か、と考えた。心当たりがなくもなかった。何故ならマリアもジョージも、決して家から逃れられないと知っていたからだ。
マリアの美貌も才能も、権力も、周りの者たちから捧げられる思いも、すべてコレット家とそれを支える母の存在があるがゆえのものだった。ジョージもまた、同じだ。家の財力と威光がなければ、この恵まれた立場は手に入らなかった。母からの強制や行動の制限は、それを維持するための対価である、そうは思っても、ひどく虚しく苛立つ夜が訪れることはあった。
だから家出したい気持ちはわかる。しばらく放っておこう。
そう考えたのが、間違いだった。
一ヶ月経っても、二ヶ月が過ぎても、マリアから連絡はなかった。三ヶ月目に、母はおかしいと感じたらしい。その頃すでにジョージは自分の伝手を活用し、広げながら、マリアの行方を探していたが、なかなか足取りは掴めなかった。時間が経っていたことも大きく、情報が集まらなかったのだ。
そうして、そのときに、気付いてしまったのだ。
当たり前に傍らにあった温もりが失われた、悲嘆と切なさ。失くしてから初めて気付くという陳腐な思いを、恋愛に不自由していなかったはずのジョージは、真実の思いとして自覚したのだった。
(会いたい)
それだけの思いで、必死に探した。会って、笑顔を見たい。声を聞きたい。抱きしめたい。実際、マリアのいない自宅は、幽霊屋敷めいて静かで、まったく色を失っていた。どんな美食も、高価な衣服やアクセサリーも、誰の言葉もジョージの心を動かさない。
マリアの居所を突き止めたとき、それまでの反動のようにして、ジョージの心は怒りに燃え上がった。
一年以上行方不明だったマリアは、化粧気はすっかり失せて、華やかさを意図的に消し去り、上等だったはずの衣服を大量生産品のありふれたものに変えていた。――見たこともない嬉しげな笑顔で、隣にいる男に笑いかけて。
(そうなのか。この男が……)
知りたくなかった。あのマリア・マリサの失踪の理由が、『恋をしたから』だなどと。真実の恋に気付いただなんて。その相手が、ジョージではなく、どこのものとも知れぬ学者崩れの男だなんて。
真実の恋とは、絶対のものではない。
どうして、と思った。何故その男なのか。あなたは、俺を最も大事していたじゃないか。慟哭めいた問いと怒りは、ジョージの心の中で黒々と渦を巻き、次第に暗く、濃く、凝縮されていった。
マリアを迎えにいったジョージは、そこで彼女が驚きとはにかみを浮かべたのを見て、心の奥底にあるその闇に冷たい炎が燃え盛るのを感じた。だがそれはおくびにも出さず、散歩に連れ出すような気軽さで、マリアを家に連れ戻した。そして、監視をつけ、監禁した。
最初からこうするつもりだった。番人めいた母は、息子を手足のごとく使っていると思い込んでいたようだが、ジョージは己の意思でもってマリアを見つけ出し、逃げられないよう布石を打ち、強引に連れ帰って、檻の中に入れるように閉じ込めた。
それで得られるものが何もないと知っていても、そうするしかマリアを手に入れる方法が思いつかなかっただけなのだ。
だから、マリアの妊娠が明らかになったときは、頭が真っ白になった。何も考えられずにいたとき、心のどこかから声が聞こえてきた。
『マリアの子ども』『愛する彼女の子ども』
『彼女の子なら、俺の子と同じ』
『お腹の子どもは、俺の子どもだ』
許せないと感じた。けれど、愛すればいいとも思った。
マリアの子なら、必ず愛せる。
あらゆるものを与えよう。教育も、美食も、健やかな心身を得るためのものも。上等でセンスのいい衣服を着せ、足が痛くなることのない靴を成長に合わせて履かせよう。寒さにも暑さにも苛まれることのないよう、快適な家を整えて。男であっても女であっても、マリアのように美しく賢い人間になるよう、力を尽くそう。
その未来を思い描いたとき、ジョージは充足感を覚えた。これこそ、自分が望む世界だと思えた。
ジョージはマリアを訪ねた。彼女は、生気の失せた人形のように儚い美しさを持って、いつも風が吹き込む窓辺の椅子に深く座り、ぼんやりとしていることが多かった。無意識ながらも腹部を撫でる仕草がひどく哀れで、ジョージはそこに跪き、彼女が命じるのを待つこともあった。けれどいま、自ら強い決意を語った。
「だから、俺は絶対にその子を幸せにします。安心してください、姉さん」
マリアは反応しない。ジョージの宣言なんて果たされて当然のものだ、と思うがゆえの態度なのだろう。
「ねえ、姉さん。その子にはどんな名前をつけるんですか?」
手が止まり、彼女が反応してくれたことが嬉しくて、ジョージははしゃいだ声で言った。
「やっぱりマリアかな。マリエでもいいかもしれませんね。ミドルネームはリリーがいい。清らかな女性には、聖母の花の名前がふさわしいでしょう」
「……ふっ」
マリアが吹き出した。かと思うと、くつくつと喉を鳴らし始める。
「……どうして? 何故お前が名前を決めるの」
「だって姉さん、その子は俺の子です。姉さんが産むなら俺の子も同じなんです」
当たり前だとジョージは答えた。生まれてくる子の父親になれるのは自分しかないと思っていた。
(あなたとその子を守る。あなたたちを守るから)
どうか、いつかのときのように、柔らかに笑いかけてほしい。
しかしその願いは、無残に打ち砕かれる。
「――お前の子じゃないわ」
機械音に似た無機質な声で吐き捨て、マリアは立ち上がった。
差し込む光を浴びた彼女は、神々しく、厳かだった。しかしこちらを見下ろす目は、無慈悲に、冷たい。降り注ぐ言葉は、凍れる刃のように鋭利だ。
「お前の子じゃない。私の子よ。お前がどれだけ妄想の中で私を犯そうとも、現実にはなり得ない。お前は私を汚せない。俺の子だなんて、おぞましいことを二度と口にしないで」
そうして彼女は腹を抱きしめるように身を屈めた。
「誰の子かという真実が必要なら、これは私の子よ。お前にはやらない。誰にも渡したりしない」
(……何を言っているのだろう)
呆然とするジョージは、やがて、大きくなった心の声を聞く。
マリアは、あなたとあなたの子に愛を捧げようというジョージの誓いを拒絶した。お前の子ではない、お前にはやらないと言って、拒んだ。
どれだけ愛しても、求め、捧げても、マリアはジョージを受け入れない。
その事実が、ジョージの心の常闇を燃え上がらせた。
「――っ!!」
発作的に伸びた手が、マリア・マリサの白い喉を締め上げた。苦しげに息を求める彼女は、決死の形相でジョージの腕を叩く。ジョージは怒りで沸騰しそうになる。
我が身の命を乞うているのではない。こうして首を締め上げられてもなお、自分よりもお腹の子を守ろうとしている!
マリアの美しい瞳から、涙がこぼれ落ちた瞬間、ジョージははっとなって手を離した。彼女のそれは、生理的な涙ではなかった。マリアが初めて流した、悲しみと怒りの涙だった。
倒れ込んだ彼女は咳き込みながら大きく呼吸を繰り返す。だが、やがて腹部を押さえて呻いた。ジョージは我に返って駆け寄る。
「姉さん」
手が振り払われる。
「……来ないで」
押し殺された声で遠ざけられ、ジョージは呆然とした。
(俺は……いま何を……)
最も愛する人を手にかけようとした?
己の振る舞いに、全身が総毛立つ。手足が震え、唇がわなないた。なんてことをしてしまったのだろう。許せないとは思っても、殺したいわけではなかったはずなのに。
「ね……姉さ……」
歯の根が合わないまま、這いつくばるようにして近付くと、マリアは素早く右手を突き出し、ジョージを制した。明確な拒絶だ。動けないでいると、マリアは少しだけ面を上げ、強張った顔つきで、ジョージにぎこちない微笑みを向けた。
心がひび割れる音がした。
敵わない、と思った。ジョージの恐ろしい過ちを、過ちと知って許そうとしている。許せないと感じているはずなのに、微笑みかけてくる彼女に、逃げ出す以外何ができただろう。逸る心臓に急かされてジョージは部屋を飛び出して自室に逃げ込み、自分がマリアに何をしたのか思い返して、うう、とも、ああ、ともつかない声で呻いた。
マリアの涙。脆い首筋の感触。抵抗する彼女がつけた爪痕のひりついた痛み。
このまま彼女を手にかけたとしたら、自分はどうしただろう。そんなおぞましい考えが浮かび、ジョージは顔を覆って小さくなった。脂汗が指先を伝っていく。
(助けて。助けてくれ。姉さん)
だがその人を手にかけようとした。もう少しで、ジョージは大事な人を永遠に失うところだった。どんなに消そうとしても、脳裏にフラッシュバックする光景に、ひたすら耐えるしかなかった。
それから、どのくらいの時間が経ったのか。
(……医者を、呼んでいなかった)
わずかに立ち直ったジョージは、姉を傷付けておきながら治療の手はずを整えていないことを思い出し、のろのろと動き始めた。電話をかけ、マリアの調子が悪いようなので、などと適当な理由でかかりつけの医師を呼ぶ。そして、マリアの発言の真意を考えた。
マリアはジョージの怒りを煽ろうとしていた。そういう気分だったのか、何か目的があったのか。もしかしたら、ジョージの発言が気に障ったのかもしれない。どちらにせよ、自分のしたことは謝罪しておかなければならないと、重い足取りでマリアの部屋に向かう。
すると、悲鳴が聞こえた。
「止めなさいっ、マリア、マリア!!」
母の声だ。ジョージが駆けつけると、薄暗い部屋には母の姿があった。だが、マリアがいない。戸惑ったとき、カーテンが大きく揺れ動き、ジョージは母の視線を辿って、絶句した。
割れたグラスの破片が散る絨毯、その上にぽつりぽつりと残る血液。その上に何かが這った跡もある。汚れた手でカーテンを掴んだせいで、白いレースが鮮血に染まっていた。古い絵画や映画の一風景のようだ。光に乏しく、現実味がない。老いさらばえた母の悲鳴すらレコード音源めいている。
レースの帳の向こうの世界にはマリアがいる。
マタニティドレスの裾は、嵐を感じさせる風に大きくはためいていた。マリアの瞳が、別の生き物のように光っている。そこから輝く涙が溢れ、頬を伝う。彼女の足に伝う血の色だけが鮮明で――。
「…………――」
マリアは無言のまま身を翻し、窓の向こうへ身体を躍らせた。
音はなかった。衝撃も感じられなかった。そのくらい、何が起こったのか理解できなかったのだ。
まりああああ、とひび割れた母の絶叫が轟く中、ジョージは発作的にバルコニーへ飛び出した。そして地上を覗き込み、血の気を失って、その場に崩れ落ちた。
この日、ジョージは永遠を失った。
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