<<  |    |  >>

 マリアは、自殺ということで処理された。彼女が自ら飛び降りるのをダオと庭師が見ていたからだ。騒ぎを知ったサーワイが警察と救急に電話をかけたが、医師がやってくる方が早かった。ジョージがマリアの治療のために呼んだかかりつけ医だ。まさか患者ではなく遺体を見るはめになるとは思いもしなかったことだろう。
 頭を打ち、即死だったという。
 胎児も助からなかった。
 医師が言うには、マリアが投身したときにはすでに危険な状態だったらしい。床に散った血痕は、マリアの体内から流れ出たものだった。証言を集めていくと、まず、母がマリアを見舞い、言い争いになったようだ。マリアは興奮し、母の手に負える精神状況ではなかった。このときの激昂が胎児に障ったらしく、マリアは腹痛を訴えた。流血した彼女はますます我を失い、母を突き飛ばして、バルコニーへ飛び出した。母が制止しているところにジョージがやってきて、その後は目撃した通りだ。
 誰にもやらない、と叫んでいたとダオは言って、泣き濡れるサーワイの肩を抱いていた。二人とも、祖父の時代から屋敷を整えてくれていて、マリアやジョージを我が子や孫のように思っていたようだから、悲しみも大きかったようだ。錯乱した母を看護しながらマリアの部屋を片付けたサーワイは、何度も途中で手を止めて涙を拭っていた。母もそうだが使い物にならなくなっていたジョージの代わりに、二人はよく立ち回ってくれたと思う。おかげで、母の代理として喪主を勤めるくらいには動くことができるようになった。
 葬儀に集まった者の多くは悲嘆に暮れていたが、悪意を持って囁きを交わす輩も多かった。それは故人であるマリアに対してでもあり、ジョージや、母に向けたものもあった。
 子どもが母親を連れて行ったのね。
 あの家の人間はやっぱりどこかおかしいんだな。
 弟が何かしたんじゃないか。でないと自殺なんて。
 そんな下らない噂話は、心が麻痺していたから何も感じなかった。
 遺体の状態がひどいので、棺の中は花で埋め尽くされ、マリアの顔は、写真に残された華やかなポートレートでしか見ることが叶わなかったが、それらの噂を聞いた彼女はどのように反応しただろうか、と祈祷を聴きながらぼんやりと考えていた。
 葬儀が終わると、コレット家は火が消えたようになった。色を失ったとも、光をなくしたとも言えたかもしれない。生き生きとしたものすべてが死に絶え、広い屋敷は墓石のようになった。
 そんな中、ジョージは母に変わって家や会社を切り回すようになった。これまでとは異なって一気に職務内容の手を広げた形で、多くの役員や社員からは、世代交代の噂が立っていたらしい。実際、母は家に引きこもりがちになり、ジョージがその代わりをしていた。
 心を動かされるものは何もない。だが激情に駆られることもあった。表面上は、姉を失った悲しみを仕事で紛らわしている男として、悔やみの言葉にも微笑で返していたが、発作のようにして友人知人、行きずり問わず女性を誘い、ベッドをともにすることもあった。
 そのうちの一人だったアンナ・アーリアが、話があると連絡してきたとき、面倒だなという気持ちが先立った。一応、後腐れのない相手を選んだつもりだが、以前から家絡みの付き合いがあったアンナは、医師を志すだけあって、非常に賢く、気の強い性格だと知っていた。取引か、交渉か。用がなければ連絡を取ってくることはないだろうから、ジョージが何か悪手を打ったに違いない。
(金の準備をしておくか……)
 耳の辺りでカールした金色の髪に、意思の強さを宿した茶色の瞳を持つアンナは、白いブラウスに黒いスカートという、シンプルな装いで、ホテルのティーラウンジの一席に座って本を読んでいた。
 ジョージは遅れたことを詫び、席に着く。頼んだ紅茶がやってくると、アンナは本を閉じてテーブルの橋に置き、その性格からくる率直さで告げた。
「妊娠しました。あなたの子です。いま三ヶ月で、私は産むつもり。堕ろしてほしいというなら、その費用とその後の治療費をちょうだい」
「……は?」
 間抜けなことに、第一声がそれだった。ジョージがあまりにも呆然としているので、アンナは顔をしかめた。だが付き合いが長いからわかる、これは気恥ずかしいと思っている表情だ。
「黙っているつもりだったけれど、いまのあなたに何も知らせずに決めてしまうのは酷だろうと思ったのよ。あなたが結婚したいと思っていないことはわかっているし、私も、あなたのお母様が求めるように仕事を諦めて家庭に入るつもりはないわ。お互いの今後を踏まえて、決めてしまいましょう」
 治療費が欲しいのは後のことを考えたからだ、手術が今後の心身に影響を及ぼさないとも限らないから、などと医師らしい見地で理由を述べる彼女は、不意にジョージが立ち上がったので、ぎょっと息を飲んだ。
(……子ども)
 ジョージの頭の中を、その存在が占めていた。
 子ども。アンナの胎内で息づく子ども。しかもそれはジョージの子どもだ。ジョージの血を持ち、マリアにも流れていたコレット家の血を継ぐ子だ。まるで消えてしまった赤子が戻ってきたような気さえする。いや、きっと、戻ってきたのだ。
 ジョージは彼女の足元に跪き、言った。
「その子を産んでほしい。それは俺の子だ」
 俺の、と口にした瞬間、涙が込み上げるようにして喜びが溢れた。
 今度こそ。もう二度と、失わない。
 結婚を申し込むと、アンナは迷惑をかけるつもりはないと渋った。だが、その子が無事に生まれてくるために、環境を整えておきたい。養育にも力を注ぎたいし、不自由させることのないようにしたかった。ジョージは言葉を尽くしてアンナを口説き落とし、結婚した。
 だが、仕事をしたがるアンナを説得するのに苦労した。切迫流産にならなければ、そのまま勤務を続けていたことだろう。復帰するときには必ずサポートするから、子どもが育つまで家にいてほしいと繰り返し頼んで、なんとか辞職してもらった。
 そうして、一つの命がこの世に生を受けた。
 ジョージは生まれてきた子どもの名前をマリアにちなんだものにしようと決めていた。あの美しい人のようになることを願ってマリアか。読みを変えてマリエ、マリーヤ、マリーでもいいか。
 そんなときふと浮かんだのが、『聖母(A Marie)』を意味する「アマーリエ」という音だった。
 眠っている娘を見ると、それ以上の名はないように思えた。だから、黙って届け出を出した。罪悪感からアンナが候補に挙げていた「エリカ」をミドルネームに付けておいたものの、もちろん、彼女は激怒した。それは後々、毎回のように夫婦喧嘩の最終的な理由になっていった。
 新しい命の誕生は、それまで引きこもっていた母にも影響した。彼女は何かにつけてアマーリエの様子を電話で尋ね、ときには押し掛けてきてはアンナに嫌がられていた。母も、息子の妻のことは好ましく思っていなかったらしい。子どもを産んだからこの家に出入りすることを許している、というような愚痴を頻繁に漏らしていた。だが、アンナの学歴や能力の高さは買っていて、後にジョージが議員に立候補して当選したときには、周囲によく出来た嫁だと言いふらしていたのを知っている。
 母がそのように活発になると、ジョージは会社経営を再び母に委ね、自身は、かねてより計画していた政治の世界へ足を踏み入れた。そのことは結婚当初からアンナも承知していて好きにすればいいと言っていたが、アマーリエが生まれてから考えが変わったようだ。表面上はにこやかに応対していても、周囲に人がいなくなった途端に笑顔を消し、ジョージを睨んで、ふいっと背を向けるのが当たり前になっていた。

 そのようにして、アマーリエが健やかに成長する一方、夫婦の言い争いは日に日に増した。その姿をアマーリエに見せたくなくて、泣く泣く仕事を入れて深夜に帰宅するように試みたこともある。アンナはそれを、仕事を理由に逃げ回っていると言い、私から仕事を奪って家に縛り付けているくせに罪悪感も感じないのかと口汚く責めた。一方、ジョージは、アンナがアマーリエに対して距離を置いた接し方をするのを、母親らしくないと言って抗議した。育児疲れだ、ベビーシッターを雇って、家には家事使用人がいても、婚家で一日赤子と過ごすのは精神的によくないだろう。そう理解はしていても、疲れている日だと彼女の声はひどく耳障りで、つい声を荒げてしまうこともあった。
 夫婦の関係はひび割れた硝子のごとく、いつ砕け散ってもおかしくない。
「仕事を見つけてきたの。もう一度医者として働くわ。だから離婚してちょうだい」
 アンナという女性は、誰を頼ることもなく、自らの力で生きていける人間だ。だから、離婚を切り出されたとき、そのときが来たかと安堵すら覚えたものだ。
 深夜過ぎに帰宅したジョージと向かい合ったアンナは、かつて照れくささを誤魔化しながら早口になったあの初々しさを失い、疲れ果てていた。
 手を離すべきときが来たが、ちらりと思う。
(アンナは、私が子どもを産んでもらうためだけに結婚したと思っているのだろうか)
 それがきっかけで、理由の一つではある。だが、財産と権力が目当ての頭が軽い人間と家族となりたいなどとは思わない。それならば手切れ金を渡して、子どもだけ引き取ればいいのだから、結婚まで至ったアンナにジョージが信愛を覚えていたのは間違いない。それが彼女の望む愛情ではなかったというだけだ。
「いままでありがとう。できれば、これからもアマーリエの母親でいてくれ」
「もちろんよ。私の娘だもの」
 その言葉に刺を感じたのは気のせいではなかったと思う。
 両親の離婚にアマーリエは悲しい顔を押し隠して「わかった」と答えた。二人で決めたならそれでいいと告げた物わかりのよさを、少し寂しく感じたのは事実だが、これからアマーリエがたおやかで優しい娘となることを予期させ、嬉しくも思った。
 アマーリエはやがて二十歳になり、いずれマリアの年齢を追い越す。そのとき、ジョージは必ず彼女を幸せにしなければならない義務と責任がある。失ったマリアと子どもに捧げるはずだった愛情。何不自由ない生活環境。十分な教育。平穏な世界。そのすべてを、アマーリエに。ときには政略結婚などという避けられなかった別れを選択することになってしまったが、やっと都市に帰還させてやれたのだから、これからはその辛い経験を忘れさせるように、ありとあらゆる手を尽くして幸せにする。
 もう二度と失わない。
 ――だが、ジョージの脳裏では、鮮血に手を染めて、いまにもバルコニーから飛び立ってしまいそうなアマーリエの姿が、まったく消えてくれないのだ。

 長い追想から覚めたジョージの目に、窓硝子の向こうに眠るアマーリエが映る。
 屋敷で起こった騒ぎの後、気を失ったアマーリエを救急搬送してから、二十四時間が経過した。幸い母子ともに無事で、血液検査の結果ではいくつか正常値でないものはあるが、無理をしなければ危険視する必要はないようだ。いまも集中治療室の機器は正しく機能しており、室内で働く看護師たちは落ち着いて処置に当たっている。アマーリエが目覚めたときにどんな症状を訴えるかによるが、すぐに退院できることだろう。
 だが右手の扱いにはくれぐれも注意するよう、すでに医師から伝えられていた。傷は深くなかったが(・・・・・・・・・)、硝子片を力いっぱいに握り締めるなど、指が落ちても不思議ではなかったという。こんなに綺麗に手入れしている指が傷付くのは、と同情的だったのは、担当医が女性だったからだろうか。
 軽い目眩を覚えて、ジョージは眉間を押さえる。
(まただ)
 バルコニーに立つアマーリエの姿がちらつく。薄墨のような世界。白く光るカーテン。鮮血。そして場面が切り替わり、ジョージの手を振り払ったアマーリエは激しく慟哭する。
(あのとき、アマーリエは何と言った?)
 意識を失う前に激昂したあのとき、何を叫んだか。それだけがノイズに邪魔されて、思い出せない。
 だがそんなことよりも、やらなければならないことは山ほどあった。
(看護師を増員して、アマーリエの体調管理を万全にしなければ。警備も増やして、設備は見直しが必要だな。だが他人の出入りが激しくて気詰まりだろうから、サーワイとダオには様子見がてら話し相手になってもらおう)
 栄養士には食事管理を徹底してもらい、出張して母親教室を開いてくれる保健師を探して、健康維持のためにインストラクターと、メンタルケアのためにカウンセラーを雇うこと、胎教に使用する絵本や音楽を吟味する必要がある。もちろん、母子の衣服も準備する。思い出を記録するためのビデオカメラなどの機材もあると、きっとアマーリエは嬉しいだろう。
 何も心配することはない。だから安心して目覚めておいで。
 ジョージが、仕事に戻るよう促す携帯端末の着信に応じるのは、もうしばらく後のことだった。

<<  |    |  >>



|  HOME  |