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それを語る者が真実だと思うなら、それは真実たりうる、とサーワイは言った。
マリアの日記を返したとき、彼女はそうして、自らが真実であると思っている過去を話して聞かせてくれた。
――あの日。マリアが命を投げ捨てた瞬間より、時間は巻き戻る。
マリアが逃亡の準備をし始めていることに、サーワイとダオは気付いていた。そして、屋敷の主人もまた、夫婦ほどではないがその気配をうっすらと感じ取っていた。
だから台所にその人の姿を見たとき、サーワイはどうしたのだろうと思ったという。盆の上には、グラスと、飲み物の入った瓶。それを自らどこかに運ぼうとしている。
「大奥様?」
びくっと身体を震わせた拍子に、グラスが鈍い音を立てた。彼女の顔は蒼白で、並々ならぬ恐怖で強張っていたが、サーワイがきょとんとしているので、やがていつもの潔癖で威厳のある表情に戻った。
「何か召し上がるなら、お運びいたします」
「いいえ。あなた方の手をわずらわせるまでもありません」
だが盆を持ち上げた手つきは危なっかしく、サーワイは食事を運ぶときに用いるワゴンを持ってきて「こちらの方が楽ですから」と押し付けた。彼女は生真面目に頷き、それを押していった。
グラスは、二つあった。飲み物は柑橘系のジュースだ。だから娘のマリアのところに行ったのだろう、と推測した。妊娠がわかってから、二人の仲は険悪だ。タイミングを見て様子を見に行く必要があるだろうと考えながら、濡れていた作業台を拭いていたとき、ふと、その足元に隠してあるごみ箱の蓋が開いていることに気が付いた。
何も考えず蓋を閉めようとしたので、中を確認したのは本当に偶然だった。
無造作に投げ入れられた小瓶を見て、サーワイは、おや、と思った。こういった瓶は仕分けて収集業者に渡しているから、生ごみが入っているここに捨てるはずがないのだ。捨てるとすれば、ここのルールを知らない人物だろう。
奥様か、と思いながら、正しい場所に瓶を捨てようとした。いったい何の瓶だろう。薬か何かだろうか、とラベルを見て、首を傾げた。
「ハーブエキス……」
ハーブを抽出して甘味料を加えたものだ。水や湯で割って飲むのが一般的だが、ここにはほとんど置いていない。大奥様もその息子のご主人様も珈琲や紅茶がお好みで、たまにやってくるお客様のために、リラックス効果のあるカモミールなどを一応申し訳程度に備蓄しているだけだ。だからこれは、大奥様が買ってきたものだろう。マリアの健康を考えてのことだろうか、と思ったとき、ラベルの端の注意書きが目に入る。
『妊娠、授乳中の方はお召し上がりをお控えください』
そのときの、ざあっと血が引く感覚は、筆舌に尽くしがたい。
サーワイはすぐさまマリアの部屋に向かったが、遅かった。硝子が割れる音がし、金切り声と怒声が響き、一瞬静まり返った後、凄まじい泣き声が聞こえてきた。
救急を呼び、旦那様を夫に任せ、サーワイは大奥様を部屋に連れて行った。取り乱して手がつけられない彼女のために主治医を呼ばなくてはならない、と、ひととき離れようとして、爪を立てるようにしがみつかれた。
「そんなつもりはなかったのよ!」
「落ち着いてください、大奥様。深呼吸をして」
「あの子にとっての汚点を取り除こうとしただけなの、あの子の将来のためには赤ん坊は邪魔でしかなかった、なのに、なのに」
「……大奥様?」
嫌な予感に背筋を震わせるサーワイに気付かず、彼女は全身を掻き毟るようにして吐露する。
マリアのためにお腹の子を排除しようとしたこと。手術は大げさだから薬にしたのは母親の優しさで、自分からだとは言わずにジョージからのプレゼントだと言ったのは奥ゆかしさから来るものだったこと。しばらく話をしていたらやがて言い争いになって、そこで彼女が不調を来したこと。
ああ、と、サーワイは顔を覆いたくなった。絨毯の上の鮮血の理由をそこで知った。
「赤ん坊がいなくなったらあの子もいなくなってしまった、あの子、馬鹿なことをして、飛び降りるだなんて、そんな!」
そこからは、話もできなくなった。壊れたように泣き続けた彼女は、やってきた医師に鎮静剤を投与され、その後は夢とうつつを行き来するようになった。サーワイには人間として生きることを放棄したように思えた。
姉を亡くしたご主人様も、何かを欠けさせたかのように、呆然としていることが多かった。だからサーワイはダオと協力して、起こりうる事態に備えた。日記を見つけたのはそのときだ。警察の検分が入る前、なんとはなしにマリアの部屋を確認しに行って、書き物机に置かれていた、見知らぬノートを見つけたのだ。
それを隠した理由は、よくわからない。咄嗟に、誰にも見せてはいけない、と思ったのだ。
けれど、結局、本当のことは誰にもわからないままだ。マリアはハーブエキスのせいではなく、感情を高ぶらせたせいで流産したのかもしれないし、もしかしたら死を選ぶより前に母親の所業に気付いた可能性もあるし、飛び降りるときに彼女が恨んでいたのは弟だったのか母親だったのかも明らかでない。
はっきりしているのは、サーワイが近くで見守ってきた大奥様――ミア・カレール・コレットが、どこまでも哀れな女性だったことだけ。
政略的な思惑の元にコレット家に嫁いできて、義父母が亡くなるまで面倒を見、娘と息子を産んだものの、夫は放蕩三昧の挙句、愛人宅から救急搬送されて亡くなった。寡婦となったが悲しむ暇もなく仕事に邁進し、二人の子どもを立派な人物となるべく育てたが、彼らはそれに報いてくれなかった。駆け落ちして、連れ戻したと思ったら自ら命を捨てた長女。その長女に執着していた長男。
ミアはいつも部外者だった。けれど愛を知らないわけではなかった。彼女なりの方法で子どもたちを愛し、特にマリアを思っていた。ただ幸せになってほしい、そういう結婚をするのなら素性の知れない男の子どもは排除した方がいいと考えて、あんな凶行に出た。
愛されたことがなかったから、相手を重んじるような愛し方がわからなかっただけだ。
だからもしかしたら、サーワイが日記を隠したのは復讐のためだったのかもしれない。
死んだマリアと、彼女や、後に離婚に至ったアンナ、娘であるアマーリエを振り回すジョージに、ミアのように報われないこと、容易に救われないことを思い知ってほしいと、いまは少なからずそう思っている。愛されない苦しみ、結ばれない悲しみは誰にでも感じうるものだけれど、愛し方がわからないのは最も不幸であると思うから。
――これが、私の真実です。どのように扱うかは、お嬢様がお決めになってください。きっとそれが、亡くなったマリア様の心に適う選択となるでしょう。
秘め続けることで、姉を殺したと自責の念を抱かせ続け、復讐と為すか。
明かすことで、救い、許すか。
その刃は、アマーリエに委ねられ、そしていま、それを振るった。
「……嘘だ……」
弱々しい否定は、ジョージのものだった。モーガンは言葉もなく震えている。長く抱いてきた悲しみや恨みをぶつける相手が、ここに至って別の人間だったことを知ったなら、力が抜けて当然だった。
何よりも、ジョージの絶望は深いものだろう。マリアを失ったことは変わらないのに、彼女やお腹の子を間接的に殺したのは実母だったのだから。毅然として、しかし時々とてつもなく弱々しい表情をしていた祖母を思い出し、アマーリエは目を伏せた。
いくつかの真実を交えた、三種族の会談は、これにて終局のようだった。
空を旋回する竜たちを見上げたキヨツグが手を挙げると、飛翔する影の連なりが形を変え、少しずつ高度を下げてきた。沸き起こった突風に、倒れた陣幕はすっかり吹き飛ばされてしまった。
気付けば、アマーリエは竜たちに囲まれていた。
広々とした草原の中に、大勢の人間が立ち尽くす滑稽な光景を、首を凛然と伸ばした竜たちが見下ろす。これまでフィクションの中で見てきた、鱗を持つ身体と皮膜の翼を持つ蜥蜴のような、いわゆるドラゴンと呼ばれる姿形をしていた。青黒い竜もいれば、深い赤、鈍色、翡翠色と色合いは様々で、翼や顔、角の有無など個性が見られる。その背に人間を二、三人乗せることができそうな大きなものもいれば、一人乗せられるかどうかくらいの小さな個体もいた。
そしてその誰もが、冷たい威厳を身にまといながらも、目が合ったアマーリエやキヨツグにふと優しい眼差しを向けてくれる。
「リリス族モルグ族の両代表として、改めて、ヒト族に問う。我らの要求に応じる意志はあるか?」
問いかけるキヨツグに寄り添って並び立ちながら、アマーリエもそちらを見た。
キヨツグが竜を統率しているのだと知ると、市長や護衛たちは警戒しつつも、慎重にこちらに近付いてきた。ぐるぅう、と一番近くにいた深紅の竜が喉を鳴らす声には流石に身を竦めるが、ボードウィンの指示を受けて、モーガンを拘束し、連れて行く。ジョージは、アンナによって乱暴に立たされていた。しっかりしなさい、と叱っている母の声が聞こえる。
キヨツグの視線を受けて、ボードウィンは肩を竦めた。
「……やれやれ。見苦しいところばかりをお見せしたこと、心よりお詫びする。そちらの要望を聞き入れたいことは山々だが、一度許すと、同じことが起こったときに我々は従わざるを得なくなってしまう。その葛藤は、リリス族長にも理解してもらえると思う」
キヨツグは、アマーリエにだけ聞こえるような声で「……よく喋る」と呟いた。
だが、聞いていたアマーリエも、都市側がそう要求したくなるのには納得した。これからの都市のことを思うと、他種族に屈した前例を作るのは避けたいだろう。
「……アマーリエ・E・コレット、及びその息子コウセツのサンプルは採取済みだ。ボードウィン」
疲れきった表情と声で、ジョージが言った。
「血液、体液、皮膚組織や爪、髪に至るまで」
「それで?」
「それで十分だろう」
その対価は、やがてヒト族の新たなる進化のために利用される。ヒト族が覇者となる、そのときまで。思わず胸元を握ったアマーリエを、キヨツグが抱く。
ボードウィンはにやりとして、頷いた。
「なるほど、都市の共有財産だな。よかろうとも、それで手を打とうじゃないか」
キヨツグが答えを口にする前に、アマーリエは急いで彼の袖を握って、首を振った。ヒト族が本当に研究を成功させられるかは、誰にもわからない。何かの力で変異したアマーリエだけれど、科学的な根拠が明らかになったところで、それを他のヒト族が利用する方法を見つけ出すには、何十年とかかるだろう。もしかしたら存在しない可能性だってある。
それに、と思う。アマーリエの一部が都市にあったとしても、恐らく、ただの残骸でしかない。キヨツグの側にいて、想い、心を繋ぐことで力を得たなら、彼の側から離れ、何の思いも込めていないそれらに、ヒト族が望むような能力が残っているとは思えなかった。
使えるものなら使ってみるがいい。憐れみとともに、思った。
「詳細は次の話し合いで決めることとしよう。第一都市は、リリス族とモルグ族の同盟に応じる。第三都市もだ」
「第四都市もです!」
エブラに代わって告げたボードウィンを追うように、ロータスが言った。
ジョージは、キヨツグの視線を受けて、ただ頷く。
「……妻を殺害しようとした者たちの量刑は、そのときに審議させてもらう」
ボードウィンは肩を竦めた。無事だったからよかったものの、本来なら出血多量で命が危うい怪我だった。長の伴侶を害した罪を、ヒト族の法のみに委ねるわけにはいかない。その意図で最後まで釘を刺すキヨツグを、抜け目のないことだ、と揶揄したのだった。
そこからやっと、正しい会談の手続きが踏まれることとなった。
それぞれの代表者が向かい合いながら、代理人となる外交官を通じて、事項の確認をし、書類を作成していく。次回へ引き継がれる事項も同じようにして、それらにサインする頃には、日暮れ間近の空になっていた。
見ているのに飽きて寝そべっていた竜たちも、終了を感じてにわかに起き出す。伸びをしたり、羽をばたつかせたり、中には大きな欠伸をする者がいて、口の大きさや牙の鋭さに目を見張っていると、笑われた。人間だったら「ふふっ」という可憐な声だった気がした。
そうして、別れのときが来た。
アマーリエとコウセツの身柄はリリス族へ引き渡され、リリス族はそれに対し、捕虜を解放後、対外的な理由としては相当の準備期間を置いた後、限られた人間がリリス内に立ち入り、調査を行う許可を出すことを約束した。その実態は、アマーリエとコウセツが無事である限り、都市に戦いを仕掛けることはない、というものだ。もし今後同じことが起こったなら、ヒト族は必ず対抗策を講じてくることだろう。そのときは今度こそ、全面戦争になってしまうかもしれない。
「意義ある会談だった。感謝する」
それでもキヨツグが言うと、ジョージは手を振った。諦めたような、寂しげな苦笑で、アマーリエを見る。
「……すまなかったね。でも、愛しているよ」
どう受け止めていいか、わからなかった。アマーリエが撃たれたとき、血相を変えてモーガンに訴えていたことや、ボードウィンの手に絡め取られそうになったところに口を出して、アマーリエを守ってくれたこと。けれど、それらにもまして、多くの人間を利用し、傷付け、ときには命を奪う真似をしたこと。
「……ごめんなさい」
愛している、けれど。それが正直な気持ちだった。
「愛してた。本当に」
ジョージは歪めた表情をぎこちない笑顔に変えて、絞り出すような言葉で娘を送り出した。
「幸せに、なりなさい。いつまでもそれを祈っているから」
ありがとう、と返したのが、最後だった。
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