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長い一日が終わろうとしている。
ずっと悪い夢を見ていたような気がしたが、胸に刺す痛みは真実だった。ジョージは、姉を失い、娘を失ったが、そうしてようやく許されたのだろう。実感はまだ薄いけれど、一人きりの自宅や、彼女が置いていったものたち、数多くの思い出によって、思い知ることになるはずだ。
ふと、震えた呼吸を耳にした。近くに立って、牽制し続けていたアンナが、彼方へ去ろうとするリリス族を見ながら、呟いた。
「私たちは、ずっとあの子に残酷なことをしてきたのね」
気丈な女が、声を震わせている。
幼い娘が絵本を手に、読んで、とせがんだあの日、紛れもなく自分たちは幸せな家族だったはずなのに、そんな時間は呆気なく過ぎ去り、アマーリエは何も残さず行ってしまった。
娘を失った悲しみを共有するのが、別れた元妻という状況は、ひどく滑稽に思えた。どこまでも寄り添うことのない夫婦だったにも関わらず、娘を送り出したときになって、同じ罪と悲しみを共有し、立っている。
「……君はどうする、アンナ?」
「戻るわ」
目を見張るジョージに彼女は嫌悪の目を向けた。
「リリスの国に行くにしても、都市に残るとしても、片付けなければならないものがたくさんあるのよ。仕事や病院のことも、家のことも、資産のこともね」
あなたにはわからないでしょうけれど、と言われる通り、ジョージはそうした煩雑な手続きはすべて雇った専門家に任せている。不意に、自らの生活をすべて自らの手で成り立たせるアンナに尊敬の念を覚えた。
「君はすごいな」
思わず漏れた本音だったがアンナは怖気を震わせ、怒ったように背を向けた。
本当に戻るつもりらしい。しかもそれを追っていくのは、彼女の姪に当たるイリア・イクセンで、二人して同じことを考えていると悟らざるを得なかった。だが、リリス族と関わり、アマーリエの企みに加担した以上、都市に戻ったところで待っているのは厳しい追求や監視、すぐに嗅ぎつけるであろうマスコミの猛攻だ。彼女が口にしたようにリリス族の国で暮らすというのは、ほぼ不可能に近くなる。
「嫌味が言えるようになったのなら、もう大丈夫そうね」
ふとそんな声が聞こえた。遠くなるアンナの背にも、涙声をもたらした弱々しさは消えている。再び前を向いて歩き出すアンナの傍らから、苦笑を投げかけてきたイリアも、自らの責任を抱いて決然と歩みを進めていく。
(不可能と言い切るのは早い。リリス族と友好関係を築き、異種族との交流を活発化させれば、十年後二十年後には種族にとらわれず行き来ができるようになる)
そこまで考えて、やれやれ、と息を吐いた。都市に戻った後は、任期が終わるまでボードウィンの手駒となって動き、早々と表舞台から退場するしかないだろうと思っていたのに、ここに至ってやりたいことを見つけてしまった。
(ヒト族とリリス族の共生を)
それは恐らく、唯一の贖罪となる。
視線の先に、もう、リリス族の姿はない。自然以外は何もない国、不便な暮らしで、ヒト族に劣ると考えられている彼らは、人々が思い描くような未開の種族ではなかった。ジョージたちが想像し得ない歴史、あるいは別の世界の理でもって存在する、異物のような人間たちだ。
否、この小さな大陸で現代文明を営んでいるヒト族こそ、異物なのか。それこそ、神と人のような。
いくらでも想像はできるが、少なくとも確かなのは、ジョージが娘を失ったということ。
「『そして、いつまでも幸せに暮らしました』……」
幼いアマーリエが好んで読んでいた絵本の最後の一文を呟く。
本当は『いつまでも』など存在しないのだと、知ってはいるけれど。
手の届かない別の世界と時間の向こうに去ったアマーリエに贈る言葉は一つ。普遍的な、祈りだけ。
「幸せに」
できることなら、こんな悲しみを知ることのないように。
草原から望む都市は絵のように美しい。そしてジョージは、その場所へと戻るために娘に永遠の別れを告げたのだった。
草原を進むリリス族の上を、翼を広げた竜たちが悠々と飛んでいた。高低を変え、遊ぶように飛び交う彼らを見上げていると、腕の中にいるコウセツもまたそれを目で追い、捕まえようとするかのように小さな手を伸ばす。嬉しそうな顔を見て、アマーリエの頬も緩んだ。それを見守るキヨツグが優しい表情をしている気配もまた、伝わってくる。
遠くで、報道ヘリと思しき音がする。接近はできないが去っていくアマーリエたちを捉えようと、ぎりぎりのところを飛行しているようだ。都市の人々は液晶画面を通して、こちらを見送っているはずだった。
アマーリエの記憶の中で、灰色の都市は淡く霞み、遠くに消えていく。故郷だった。そのことは捨てられない、消えない事実だけれど、ようやく決別できたのだと思う。誰におもねることなく、ここにいたいのだと、居場所を選ぶことで。
芽吹く前の静けさ。夕暮れの静寂。夜明け前のひそやかさ。美しい虹を見たこと。そのときの心に従えば、いつだってアマーリエは選んでいた――踏みにじられても、揺さぶられても、キヨツグと生きていきたい。この人を想う幸福を胸に灯していたい。
世界や運命や物語があるとして、選べるものがひとつだけなのだとしたら。
アマーリエはきっと自らを投げ打つだろう。けれどそれをキヨツグが救ってくれる。ひとりじゃない。ふたりでなら、選べるものはひとつきりではなくなるのだ。
「だあー」
声を上げたコウセツに微笑みかけて、さんにんね、と呟いた。
前方を行く一団がにわかに湧いた。すると、リリス族の進む道は薄紅色の花に彩られ始める。
「早咲きの英凛花だ」
多くの者が、群れて咲く花々を見て、口々にその名を言い合う。
ふと、涙が溢れた。
キヨツグに気付かれないよう、流れる涙を静かに堪えていると、彼は何かを合図し、手綱を引いた。速やかに伝達されたそれによって、リリスの者たちは歩みを止める。驚くアマーリエは、下馬したキヨツグに抱え上げられた。
「ぁっ!?」
地上に降ろされたアマーリエの足を、花の茂みが柔らかく撫でる。緩んだ土の、芽吹いた草花の、生命を踏みしめている感覚。大地は以前よりも親しくも力強く、アマーリエを支えてくれている。
込み上げる涙を、唇を結んで堪え、そっと膝を突くと抱えたコウセツに花々が見えるよう、身を屈めた。
不思議そうな顔をしていたコウセツだったが、音や空気、視界の端に見えるものにすぐ興味を示し、じたばたと手足を動かし始めた。思いがけない勢いに驚いていると、横から手を伸ばしたキヨツグがコウセツを抱き上げ、お包みを剥いで地面に下ろした。
「……コウセツ。これが、大地だ」
きょとんと座っていた彼だったが、やがて両手を上下させたかと思うと、四つん這いになった。きょろきょろと視線を彷徨わせながら近くにあるものに手を伸ばし、触れて、その感触に驚きながら、きゃあっと声を弾ませて笑顔になった。何がそんなに嬉しいのだろうと思うくらいに、アマーリエには見えないものを見ているかのように、目を見張っている。
キヨツグに似た黒い瞳が、アマーリエを見つける。
ぱあっと咲いた笑顔に、思わず、叫んでいた。
「おいで!」
服が汚れるのも構わずコウセツはやってきた。笑顔のまま、アマーリエを見つめて、小さくも大きな冒険から戻ってきた。
たどり着いた息子を抱き上げ、小さな顔に頬を寄せる。
赤ん坊特有のふわふわの頬と熱、視線が高くなってご機嫌になった声が耳をくすぐり、また涙が溢れた。
「コウ。コウセツ。私の、コウセツ……」
ひどい母親になるだろう、とアマーリエは覚悟を決めていた。生まれた子どもからの愛情を受けられなかったとしても、それは彼にそのような仕打ちをした報いだ。取り戻そうと尽くしたところで、行いはなかったことにならない。彼が知ることがなかったとしても、アマーリエはそれを一生負っていくべきだった。
けれどいま、コウセツはアマーリエを母と認めて、向かってきてくれた。
だから、うまく愛せるか自信はないけれど、いつまでも、どんなときも、この子を愛したい。愛を、過剰なくらい、精一杯。
「……良い名だ」
アマーリエを抱いて、キヨツグが囁く。
「……愛していると、よくわかる」
その言葉に許しを得たような気がして、アマーリエは再びコウセツをぎゅうっと抱きしめ、愛していると囁いて頬を寄せた。
たとえ良い母親になれず、愛情が足りなくとも、その分、父親が愛を注いでくれる。恐らくそれは、アマーリエが母親としてコウセツにしてやれることの、最大最善の愛の証だっただろう。
――オォオオ、と、空を舞う竜たちの生み出す風が花を巻き上げた。
リリス族の歓呼に見送られて、竜たちは去る。いつの間にか出現した不思議な光の柱は、きっと彼方へ繋がっているのだろう。薄紅色の花の海を渡っていけば、いつしかアマーリエもあの光の向こうへ行けるかもしれない。けれどそれはいまではない。これからどのくらい生きるのか見当もつかないけれど、誰かを想い、恋をして生きられるのならきっと幸せなことだった。たとえそのさきに世界の終わりが待っていようとも、あの光はきっと不変で、花が咲く理もまた永遠だろう。
いつか見ようと思っていた、自分の名と同じ花を、いまアマーリエは夫と子どもとともに見ている。
キヨツグが手を差し出す。コウセツが笑う。リリス族のみんなが笑って見守っている。アマーリエがその手を取ってやってくるのを、戻ってくるのを待っている。
強い風が吹き、アマーリエの鈍色の髪と白い服の裾をさらう。きつく閉じた目を開くと、花はとどまることなく溢れ、舞い、輝いた。
そっと重ね合わせた手が、深く絡み、確かに繋がる。思いが、温もりが、溶け合っていく。
灰色の都市。草原の国。山野。海。太陽。雲。雨。雪。途切れることのない光と薄紅色の花が舞う、厳しく寂しくも美しいこの世界のことを、古い言葉でなんと言うのだったか。
黄金色の空に染められる花びらは、どこからやってきたのかいつしか光そのもののような白に変わり、薄紅色のそれと混ざり合ってひときわ絢爛に世界を彩った。
――これは恋。最初で最後の真実の恋。
花の舞う空、光集い、愛する人たちがいるこの世界で、アマーリエは生きる。
生きていく。
――恋をしながら、生きていく。
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