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 父が所有する車には運転手がついている。乗り込んだ父は、待機していた彼に行き先を告げた。
「『サンタマリア』へ」
 コレット家が代々懇意にしている老舗高級料理店だった。走り出した車の後部座席にゆったりと腰掛けて、アマーリエは父に言った。
「今年は早いね。事前に教えてくれれば、もうちょっと綺麗な格好をしてきたのに」
「大丈夫だよ。その格好も可愛いから」
(可愛いかどうかじゃなくて、ドレスコードにふさわしくないって言ってるんだけど……)
「学校はどうだい?」
 仕事の付き合いで会食やパーティなどに頻繁に参加し、帰宅しないときもある父だが、やはり娘の学校生活は気になるらしい。いまは市長だが長く議員をやっていたので、今さらそれに恨み言を言うつもりはないけれど、幼少期からわだかまる複雑な思いが胸をよぎるのはどうしようもないことだった。
「もうすぐ後期試験だから、ちょっと身を入れて勉強してるところだよ」
「お前にかぎって単位を落とすことはないだろう。お前は昔から賢かったし、手のかからない子だった。私が仕事で留守がちでも泣き言一つ言わなかったね」
 それは言うべきではないとわかっていただけだ。駄々をこねても父は引き止められないと、ずっと昔から知っていた。
「可愛げがないってことでしょう? お祖母ちゃんが言ってた、そういうところがマリア伯母さんとそっくりだって」
 マリアの名を出すと父は眉をひそめた。
 亡くなった祖母は奔放だった長女マリアに手を焼いていた。疎ましく思っていたらしいことは、一緒に暮らしながら何気なく吐き出される言葉からなんとなく感じられていた。
『あんな死に方をして。なんて親不孝だろう。家の名誉を汚して』
 事故だった、と聞いている。部屋の窓から身を乗り出し、運悪くバランスを崩して落ちてしまったのだそうだ。打ち所が悪くそのまま亡くなったらしい。
 しかもそのお腹の中に父親が誰かわからない子供を身籠っていたという。
 そんな風にして、代々議員や医師を排出するコレット家において、マリアは異端だったらしい。ふさわしい教育を施され、結婚相手も引く手数多。華やかな性格で強い意志を持っていたゆえに一度決めると決して曲げなかったとか。
 けれど祖母に育てられたアマーリエは、封鎖された彼女の部屋に何度か入ったことがある。
 物語や刺繍や、民俗学、社会学などの本が詰め込まれた本棚。ささやかなアクセサリーを収納する綺麗な箱。慎ましいワンピースなどの衣服の中にこっそり隠された真っ赤なスカートや鮮やかな色合いの口紅などを見つけて思ったのは、マリア伯母さんが生きていたら良き理解者になってくれたんじゃないだろうかということだった。
 父が顔を歪めたのは、そうやって祖母がマリアについて悪い印象をアマーリエに吹き込んだことに対する非難だった。
「マリアは素晴らしい女性だったよ。明るくて美しくて賢くて、誰もが彼女に惹かれてやまなかった」
 次の言葉は、いつも同じだ。
「お前は、」
「『お前はマリアによく似ているよ』」
 育った家には賞状や額などを飾る小部屋があった。そこには父の数をはるかに凌ぐマリアの輝かしい功績が残っていて、アマーリエは写真でしか知らないその人の輝かしさに胸を圧迫される。
 亡くなったマリアへの愛情が深い父は、命日が近付くといつも彼女を偲ぶ食事会を催す。コレット家御用達の店で、伯母の写真と花を飾って、父の話に耳を傾けるのだ。
 ――ねえ、それは誰のため?
 スモークがかかった窓越しに過ぎ行く街の灯を目で追いながら、苦い問いを吐息に隠して、父の言葉を聞く。
「お前はもうすぐ十九になる。その次は二十歳。そして二十一。マリアよりも歳を重ねて、さらに美しい女性になっていく。パパはいまからそれが楽しみでならないんだよ」
 美しいマリア。素晴らしい女性だったマリア。そんな人と重ねてもらえるのは光栄なのかもしれない。期待されていると喜ぶべきなのかもしれない。けれどアマーリエの心の奥では、小さな子どもが叫んでいるのだ。
 ――わたしをみて。
 深い光を宿す父の目に気付かないふりをして、アマーリエは窓の外を見るともなしに眺めていた。

 商業区のレストラン街に到着する。この地区には数多くの飲食店があり、味もピンからキリまで、客層やランクもそれぞれ異なる。『サンタマリア』はその中でも富裕層が利用するレストランで、第二都市建設時から続く老舗だ。
 車が停まるなり扉を開けて店長が姿を現し、下車したアマーリエたちを導き、店の奥の個室へと案内してくれた。
 アンティーク調の絨毯と壁紙がまるで映画のセットのようなその部屋に入って、アマーリエはあれと首を傾げた。
 豪華な花束と写真を飾るためのテーブルが見当たらないのだ。
 店員に引いてもらった椅子に座って、いまから準備されるのだろうかと様子を窺っていたが、父は食前酒とジュースを頼むとウェイターを下がらせてしまった。
 すると入れ替わるようにして金色の髪の女性が姿を現す。
「こんばんは。遅くなったかしら」
「ママ!」
 若草色のスーツに身を包んだ母アンナは、立ち上がったアマーリエの抱擁を受け止める。
 住宅地区で診療所を開いている母は、アマーリエが目指す医師だった。忙しくない日はないから、ファンデーションを厚く塗り込めても隠しきれない疲れた顔をしている。
「いいや、時間ぴったりだよ。さすがだね」
 父と母は静かに視線を交わした。甘さもなければ熱もない、冷え切ったものだった。
 再びウェイターを呼び、季節の食材を使ったフルコースを注文する。メニューを眺めた母は、アマーリエにデザートを食べるなら違うものを頼んで分け合おうと意見のすり合わせを求めてきた。
「学校はどう? その様子じゃ順調のようだけれど」
 料理が来るまでの間、母が振ってきた話題も学校のことだった。親とはそういうものなのか、それとも二人とも高学歴だから気になるのかと複雑な思いになりながらも、心配してくれるのはありがたい。
「そろそろ後期試験なの。前期でちょっと悪い科目があったから、後期で挽回するつもり」
「進む専門は決めた? そろそろ考えておかないと、この先大変よ」
「アンナ」
 何故か、咎めるように父が呼んだ。
 何が起こったのか、アマーリエは二人の顔を見比べる。母はまるで射殺すような鋭い目で、元夫を睨み据えていた。いまの質問の何がいけなかったのかわからないまま、空気を変えるためにアマーリエは答えた。
「ええと、総合診療科に進もうかなって。これから求められるのは地域的な医師だから、そこにしようと思っていて」
「……そう」
 母は目を伏せて短く言うと、運ばれてきた食前酒に口をつけた。
 この人はきつい容貌の人だが、こんな風に自身の苛立ちを漏れ出させるような人ではない。医者だから根気強く、精神的に強いのだ。表情の繕い方も上手い。なのにいまは怒気を発している。
「ママ、仕事、大変なの?」
「どうして?」
「ちょっと……疲れて見えるから」
 指摘されて微笑んだ母は、けれどやはりどこか疲労を感じさせる声で「大丈夫よ」と言った。だがそれで納得しないと思ったのか、肩をすくめて戯けてみせる。
「今日は難しいことをいっぱい聞いたから疲れちゃったのよ。どこかの誰かが怒らせるようなことを言うし。本当、怒るのってすごく疲れるのよ」
 そう言ったときも母は父を睨んだ。どうも気に食わないことがあったらしい。
 この急な食事会が理由だろうか。毎年のマリアを偲ぶ食事会をよく思っていないのは知っていた。集まっても、思い出話に加わらず食事をするだけだったからだ。
 料理が運ばれてきて食事が始まった。ほとんどが店で買ってきた惣菜やテイクアウトしたファストフード、時々自炊というアマーリエには、手間暇がかかった豪勢な料理ばかりだった。高級食材である魚などの海産物が惜しみもなく使われている。
 だが食事が始まって、違和感に気付いた。父がマリアの話をしないのだ。
「ねえ、父さん? 今日は何の集まりなの? 毎年の食事会だと思ってたんだけど、違う、よね?」
 すると父は寂しげな微笑を漏らした。
「何かが起こらないと家族が揃わないと思っているんだね。……すまない、アマーリエ。お前にはずっと寂しい思いをさせているね」
 アマーリエは当惑に目を瞬かせた。どうしていまそんなことを言うのだろう。
「ううん、別に……これが我が家なんだし……」
「お前は本当に賢い子だ」
 グラスを傾けて父が呟く。子どもへの褒め言葉は、どこか後悔に似たものが滲んでいる。
「私たちを尊重して、わかっていてくれたね。私とアンナが離婚するときも、そう決めたのならと納得してくれた。片親の元に育ったというのに、お前は心根の美しい、綺麗な娘になった……」
 いつの間にか物音がしなくなっていた。二人とも食事の手を止めている。父はワイングラスをゆらゆらとさせ、母は目をテーブルの上にじっと注いでいる。
 二人は何かを隠している。
 ようやく気付いた。そしてその隠し事が、今回の食事会の理由なのだ。
 アマーリエは食器を手放すと、両手を膝に置いて息を吸い込んだ。
「父さん。母さん。今日集まったのは、私に何か話があるんだね?」
「……アマーリエ」
「学校、辞めなくちゃならない?」
 両親が軽く息を飲んだ。
 先ほどの会話から予測したのは、多額の負債を抱えたか何かして家計に影響を及ぼしたのではないかということだった。
 大雑把な予測だったけれど意外と正解に近かったらしい。二人の反応に面食らってしまったが、苦笑を浮かべて言った。
「辞めないからね。奨学金があるし、私、働くから。なんとかして続けられる方法、考えるよ。だから大丈夫」
「っ……」
 口を開きかけた母を父が制する。
 父は母に首を振ると、深い息を吐き、思考に沈むような長い時間目を伏せた後、ゆっくりとアマーリエを見つめた。
「アマーリエ」
 背筋が伸びた。この人のこんな怖い顔を見たことがなかった。その低い声も聞きなれない。権力を持った人間のものだ。
「我がヒト族がモルグ族と長く交戦しているのは、知っているね」
 どうしていまその話なのか。
 けれどその目に射すくめられて、黙って頷く。
「モルグ族との戦争は現代では日常だ。戦争は本来人の心を麻痺させ、平和の存在を幻想にする。人は、自分自身を戦う生き物なのだと勘違いしてしまう。私たちは本来友愛の民であるというのに」
 アマーリエは母の顔を窺った。母はまるで仮面をかぶったような顔で何も耳に入っていないような様子でいる。
 その間にも、父の演説めいた言葉が続く。
「しかし私たちの元に平和が存在しないわけではない。考えてみなさい、この都市の平穏さを。『戦争など影も形もないではないか』と言う者すらいる。だが戦争は在る。そこでは武器を手にとって戦う者たちがいるのだ。明日自分がそれにならないという保証は、どこにあるというのか。私たちはかろうじて平和の傍に身を置いているだけだ。モルグ族はいまもなお休戦に応じない。私たちは私たちで戦わなければならない」
 父は言葉を切り、息を吸い込んだ。
「――果たして、本当にそうだろうか?」
 アマーリエに語りかけるようでいて、すべてのヒト族に聞かせるような口調だった。それを聞く人々や自分自身に、この考えの元に進めと号令をかける、静かで力に満ちた声。
 だがアマーリエは困惑するしかなかった。この人は何を言いたいのだろう。ヒト族は戦わなければならない、けれど本当にそうなのか、と問いを投げて。
「……どういうこと? モルグ族と戦う以外に、何か方法があるの?」
「今回ヒト族は、我々と同じくモルグ族と交戦中でありながら常に中立的立場で不干渉を貫いていた、草原のリリス族との会談を行った」
「リリス族?」
 草原に住む騎馬と遊牧の一族。突出した身体能力を持った異種族の名前が出て、ますます首を傾げることになった。鎖国状態のリリス族がヒト族の要請に応じただけでもニュースになることだが、新聞にもテレビにも出ていなかったはずだ。
「リリス族もモルグ族との戦争に悩まされていたという。そこで我々は同盟を申し出た」
 アマーリエは目を見開いた。それはとんでもなくすごいことだった。大陸の主要三種族がお互いに拮抗していた歴史の中で、いずれかが手を取り合うのは初めてだったはずだ。
 だがまた疑問が湧く。速報でも出ていないそれを、ここで話す理由はなんだろう。このことに興奮した様子もない父の冷静さも気になった。
「同盟の条件は、一つにリリス族の土地を侵略しないこと。二つ、リリス族の土地にこれまで通り何者も侵入させないこと。三つ目にその証を立てること、とされた」
「……? 同盟を締結した書類じゃなくて?」
「紙切れ一枚では証にはならないと、リリス族は言った」
 淀みなく言葉を紡いでいた父はそこで侮蔑を浮かべた。瞬きよりも短い時間、そしてそれを振り払うと、ぐっと息を飲み込んでアマーリエを見据えた。
「――アマーリエ。『都市市長の娘』のお前に、」
 その命令は、アマーリエにとてつもない衝撃を与えて、消えた。
 誰もが口を閉ざした、静寂が耳に痛い。
「………………え?」
 ぐるぐると回る父の言葉は、両親の顔を見ていても覆ることはない。二人とも冷静に、混乱して視線が定まらないアマーリエを見つめている。
「『都市市長の娘』の、私に……」
 感情のない、機械音声よりも乾いた父の声がもう一度告げた。

 ――同盟成立の証として、リリス族の長と結婚してもらう、と。

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