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「嘘、でしょう……?」
青ざめた娘を悲痛な面持ちで見つめる母。父は、冷徹な眼差しでこちらを見つめている。
ヒト族とリリス族の、同盟成立の証としての結婚。
「それ……それって」
「政略結婚だ」
それは新暦を数える都市においては、ひどく時代錯誤に聞こえた。
「せいりゃく、結婚……」
家柄を重んじる風潮がある上流階級ではいまも存在するものではあった。だがそれらは古い考え方で、自由に生きることこそ現代人だという教育をアマーリエは受けてきた。人の心を踏みにじるようなものも、そのことによって守られる幸せもない。ない、はずだった。
そう思った瞬間、手のひらをテーブルに叩きつけていた。
「私を売ったの、パパ!?」
怒りに任せて部屋中に響く声で叫んだが、最奥の個室ではそれを聞く他人はいなかった。誰もここで話されることを知らないのだ。
このために自分は呼ばれたのだと気付くと、すっと落ちていくような感覚になった。
「私を、道具にするんだね」
何かが身体にのしかかる。違う、重いのは身体そのものだ。膝が震える。唇がわなないて、息が苦しい。酸素が回らなくて目眩がする。胸がずっと叫んでいた。
嫌だ嫌だ嫌だ。政略結婚なんて嫌だ。理不尽だ、ひどすぎる。父親が娘を道具にするなんて。
「私は嫌」
拒絶が口をついた。
「そんなこと、許せない。納得なんて、出来ない」
もっと強い言葉で詰りたいのに、何も出てこなくて声が途切れる。
父は弁明も説明も加えずにアマーリエを見つめ、絶対に覆せないのだと揺るぎなく示していた。市長としての表情だった。
荷物を全部手に取ると、アマーリエは部屋を飛び出した。鞄をぶつけてしまったテーブルの上で空のグラスが倒れて転がり、床に落ちて粉々に砕けた。そんな悲鳴のような音を後ろに聞きながら、構わず店を飛び出した。
(……逃げよう)
考えたのはそれだった。まず銀行へ行って限度額までお金を引き出し、携帯端末で宿泊先を吟味した。第二都市に潜伏するにしても他の都市に移るにしても、しばらく身を隠す場所が必要だった。
(都市を出るには身分証と通行証が必要だ。自分の証明書だと足がつくから……大学の知り合いを辿って、そういうことを得意にしている人に協力してもらおう。証明書を偽造してもらって、街を離れるんだ)
偽名でホテルの予約を終え、急いでそこに向かうことにした。
真冬の都市の夜は冷える。コートの襟の中で首を竦めて黙々と歩いていると、だんだんと泣きたくなってきた。できることならいますぐここでうずくまって泣き叫びたい。
いっそ車道に飛び出して車に轢かれてしまおうか。どこかのビルの屋上から飛び降りようか。
考えはするものの実行する勇気がなかった。当てつけのような気がしたし、こんなに凍えたままで消えてしまいたくなかった。
誰かに、会いたかった。
オリガでもキャロルでもリュナでもミリアでもなければ、ノルドやエリーナでも、愛を告げてくれたルーイでもなかった。側にいて温めてくれる人。言葉を重ねるのではなくて黙って肩を抱いてくれるような人。
涙をこらえて目的のホテルに入ると、受付には初老の従業員が一人、受話器を耳に押し当てて静かな声で応対していた。全体が焦げ茶色のインテリアで整えられ、観葉植物が置かれている静かなロビーだったが、人気はなくアマーリエが入ってきても別の従業員が現れる様子はない。
やがて受話器を置いたその人がアマーリエを見た。撫で付けた茶色の髪と縁なしの眼鏡、グレーのスーツという清潔感がある装いのホテルマンは立ち尽くすアマーリエに向かって微笑んだ。親しみのあるその表情に安心して、予約していた旨を告げる。
「ではこちらに記入をお願いいたします」
名前や住所、連絡先を記入する用紙を差し出され、アマーリエはペンを握り、どうしようか考えた。だが長考していると疑問に思われるだろうと、予約の際に使った名前と母の連絡先を記した。
それを詳しく確かめることはせず、ホテルマンはにっこり笑うと部屋鍵を渡してくれた。
「よろしければルームサービスをご利用ください。温かい飲み物がございます。当ホテルはココアが自慢でございますので、ご参考までに」
そう言われて、口の中に甘いココアの味が広がった気がした。自分の身体が冷えていること、その甘さに浸っていたい気がして、アマーリエは頷いた。
「ありがとうございます。それじゃあ、ココアを一つ、お願いします」
「かしこまりました。お部屋にお持ちいたします」
エレベーターで三階へ上がり、部屋に入る。
部屋の半分以上がベッドという一室だった。小さなテレビが置かれていて、その下には小型冷蔵庫が押し込まれている。内側のドアの向こうはユニットバスだ。
荷物を下ろしてコートを脱ぎ、靴からスリッパに履き替えたところでココアが来た。
ベッドに腰掛けてココアに口をつける。チョコレートの風味と少しの苦味が心地よく、甘さと温かさががちがちに固まっていた身体に染み渡っていくようだった。
気持ちが落ち着くとあまりにも静かなのが気になった。リモコンを探してテレビをつける。
時計を見ながらニュース番組を流している局を選び、表示させてみるが、リリス族のこと、同盟のことはまったく流れなかった。情報を完全に伏せているのだとわかり、息を飲み下す。
嘘だったらどんなによかっただろう。両手で抱えたココアの表面が小さく震える。
多分母は事前に聞かされていたのだろう。すでに父にさんざん反抗したから、あんな風に疲れた姿で現れたのだ。
両親が離婚したのはアマーリエが六歳のときだった。理由は夫婦間のすれ違いと、母が自立を望んだからだった。妊娠によって医者としてのキャリアを半ばで断たれかけた母は、アマーリエの成人を前に離婚することによって自身の夢である医者に戻ろうとしたのだった。かといって、アマーリエを愛していないわけではない。一年に何度か会っていたし、医者になりたいという娘を応援してくれ、診療所に顔を出すのを許してくれた。
一方父は、アマーリエを引き取ったものの政治家としての仕事が忙しく、祖母に世話を任せきりにしていた。不憫だという自覚があったのだろう、アマーリエは生活に不自由した覚えはなく、何かが欲しいと言ったこともないのに定期的に服や玩具やアクセサリーといったものをプレゼントしてくれた。
ジョージとアンナは、夫婦や親という役割に収まることができなかった人たちだったのだと、いまならわかる。けれどそうであったとしても、非常識や理不尽を安易に許容しないしっかりした大人なのだ。
そんな二人がアマーリエに政略結婚を求めるのは、相応の理由があるからに違いなかった。
(……逃げることは、正しくない。でも……)
私を、尊重してほしい。大切にして守ってほしい。生贄のような政略結婚を否定して、こんなのは間違っていると言ってほしい。
そこへ静かな囁きが忍び寄る。
もし私が逃げれば、両親はどうなってしまうのか。
同盟が結ばれなければ、都市は。
「っ……!」
ぞっとした。いつも靄に包まれて曖昧であるはずの未来が、確かな崩壊のイメージとなって脳裏をよぎったのだ。
すっかり冷えてしまったココアを放り出すと、すぐにシャワーを浴びてガウンを羽織り、ベッドに入って毛布に包まった。
歯を強く噛み締め、目を閉じていると、どこかから誰かの声がする。
あなたの大切なものを犠牲にするだけで一つの都市が助けられるとしたら、どうするか。
それに自分は何と答えたのだったか。
アマーリエはぎゅうっと身体を小さくして、肩や腕が痛くなるくらい小さく縮こめて、早く眠りが訪れることを願っていた。
おかしな夢を見た。
目の前にはどこまでも緑の草原が広がっている。駆けていくのは角や翼の名残を持つ馬たちで、空には尾長の極彩色の鳥が羽ばたいている。あの鳥は草原に住み、群を作って、あの七色の身体を虹のように輝かせて飛んでいくのだという。
そこに立つアマーリエは身を竦ませていた。どんなに美しかろうとここは自分の世界ではない。
風は渡らない。草原に感触はない。呼ぶ声は聞こえずアマーリエはその場に蹲り、ひりついた声で叫ぶ。
誰か。誰か。誰か。
でも誰も、迎えに来てはくれないのだ。
目が覚めたときには身体のあちこちが固くなって、少し腕を伸ばすだけですべての関節がぎしぎしと音を立てるようだった。シーツにはほとんど皺がなく、よほど縮こまって眠っていたらしい。
痛みを堪えながら着替えをし、髪を整え、一階のレストランで朝食をとった。
ベーコンとトマトとレタスを挟んだベーグルに、珈琲を飲む。いつもはトースト一枚に温かい紅茶一杯だが、おなかいっぱい食べて苦みの強いものを口にして気持ちと頭を切り替えたかったのだった。
(今日は身分証と通行証を用意してくれそうな人たちに連絡を取ろう。お金ももう少し引き出して、変装用の着替えなんかも買いに行こう)
朝食を終えると荷物をまとめ、チェックアウトに向かった。
今朝も昨日のホテルマンが受付に立っており、アマーリエに気付くとにっこり笑って鍵を受け取ってくれた。
「よくお休みになれましたか?」
「……はい」
わずかにためらった返答に気付いたはずだが、アマーリエが微笑むと、彼は笑みを深めただけだった。
「冬の日にはまた当ホテルのココアを思い出してくだされば幸いです。ご利用ありがとうございました。いってらっしゃいませ」
悲壮な顔をした娘が都市の命運を握っているなどとは思わないだろう。けれど彼は彼の立場から、アマーリエを親しみを込めて送り出してくれた。それに少しだけ慰められて、アマーリエは冬の街の人ごみへと飛び込んでいくのだった。
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