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 冬の夜は星が美しい。青白い光の群れが天球を輝かせて、心が静かになる。
 軽く酩酊していた頭は、空を見ているうちに冷めていく。祝宴はお開きとなりはしたものの、久しぶりの宴席ゆえに続きを行う者も少なくないようだった。キヨツグが族長となって以来、否、前族長の代から、酒宴は短く簡素なものになっている。先代がさほど酒を好まなかったことが理由だが、年季の入った長老方は物足りないらしく、もっと宴を開けと文句を言ってきていたが、キヨツグは聞き流していた。
「オウギ。今日はご苦労だった。下がって良い」
 背後に控える護衛官に告げると、彼は闇に溶けるように消えた。
 かと思いきやまた姿を現した。
「どうした?」
「……花嫁には優しくしてやれ」
 虚を突かれて思わず振り返ったときには姿はない。
 どういうつもりなのだろうと思いながら、キヨツグは自室に戻り、女官の手を借りて着替えを始めた。
 久しぶりの正装は肩が凝った。キヨツグがたとえ服装にこだわりがなくとも、必要なときに必要な衣装を身にまとうことは、族長としての義務だ。同じようにあの重い衣装をまとった娘の身体は大丈夫だったのだろうか。
 そこまで考えてはたと、ああそうだったと思い至る。
 そういえば、自分は結婚したのだった。それも、異種族――ヒト族の娘と。
 疲れか酔いか、それとも無意識に頭の隅に追いやっていたのか。お互いに広間を下がってからだいぶと時間が経っていたから、キヨツグが星見をしている間に、彼女はすでに寝殿へ入ったことだろう。
 いつもの寝室ではなく寝殿と呼ばれる建物へ向かう歩みは、少し速くなった。
 扉を開くと、密やかな灯火が揺れているだけで室内は静まり返っている。その隣が寝室だ。
 自分の寝室の扉を叩くのは少し奇妙な気分だったが、一応叩いてみる。
 だが返事はなかった。もう休んでいるのだろうか。
(……気配はあるな)
 内心で眉をひそめつつ扉を開く。
 部屋は十分に温められており、こちらもささやかな灯火でほのかに明るかった。だが正面にある寝台の天蓋は開かれたままで、そこに誰の姿もない。
 先に入ったはずの花嫁が何故いない。
 ここに来るには女官や護衛官がいる建物を通り抜けなければならず、外に出れば闇に包まれた広大な庭に迷うことになるだろう。
 キヨツグは視線を巡らせた。ここにある家具は寝台に、衝立。衣装櫃にはあの小柄な娘でもさすがに身を隠すことはできないはずだ。とすれば隠れる場所は限られる。
 キヨツグが衝立の裏を覗き込むと、近くにあった窓の帳が奇妙にそちら側へ引っ張られているのを見つけた。
「…………」
 ぐっと掴んで引けば、布が突っ張ると同時に小さな悲鳴が上がった。
 しばらくすると、観念したかのように帳が解けた。中から現れたのは、青と赤のまだらの顔色をした少女だった。
 ため息が漏れてしまう。神前で涙を流していたことを思えば、この結婚が不本意だったのは間違いなかった。残酷な仕打ちを強いたのは他ならぬ自分と彼女の父親たちだ。怯えるのも無理はあるまいと思う。
「……ここで何をしている?」
 びくりと震えたのを見て、失態を悟る。
 キヨツグの悪癖だった。言動がきつく感じられるらしい。それであのオウギの台詞なのだと納得がいった。
「……あ、……の……」
 それでもなんとか返答を絞り出そうとしている姿は、いじらしいほどか弱い。
 再びため息をつけば怯えさせることはわかっていたから、静かに、優しく聞こえるように言った。
「……隣の部屋で待っていろ」
 キヨツグは踵を返して自分の宮殿に戻り、二人分の茶を持ってくるよう命じた。すぐさま運ばれてきた急須と器の載った盆を受け取り、寝殿に戻る。
 花嫁は言われた通り、入ってすぐの居間で待っていた。
 座っていればいいものを所在無さげに立っている。こちらの姿を見るとびくりと構えたが、キヨツグは後手に扉を閉め、低い机の上に持っていたものを置くと、熱い茶を器に注いだ。
「……座って、飲みなさい」
 そう言うと彼女は焦ったようにキヨツグの正面に座り、恐る恐る器に手を伸ばし、そっと飲み始める。
 警戒心の強い小動物のようだと思う。
 背丈はキヨツグの胸ほどまでしかない。手足は細く、身体は薄い。切花の茎のように華奢なのが寝間着一枚になるとはっきりわかる。髪は水面のような淡い黒、瞳は色素の薄い赤みを帯びた茶だ。光が入ると春の花のような色になっている。
 小さいなと思う。まだ少女だ。結婚ができる年齢の娘だと聞いていたが、それにしても頼りない。
 彼女が落ち着くのを見計らって、問いかけた。
「……私たちの結婚がどういうものか、お前は理解できているか?」
 ごくりと白い喉が動いた。茶が熱いせいだけではないだろう。
 かすかに喘ぐようにして彼女は答えた。
「……ヒト族とリリス族の同盟だ、って、聞いてます」
 キヨツグは頷いた。
「……ヒト族は交戦を続けるモルグ族に手を焼いていたゆえ、より種として強いリリスに援助を請うた。リリスが同意したのは、ヒト族がこれ以上我らの土地を踏み荒らさぬと約束したからだ」
 彼女は不安そうに小さく首を傾ける。
「……ヒト族が増えれば都市も大きくなる。いずれ新たな都市を作ることになるだろう。だがこれまでの歴史において、ヒト族は幾度かリリスの土地に侵略して都市を築いたことがある。リリスはそれを阻止したかった。……知らなかったのだな」
 目を丸くした彼女は視線を斜めに落として「そうか」と呟いた。
「モルグ族に攻撃されている北部には都市が作れない。代わりにリリス族の土地に……」
 理解力はあるらしいと見直したというのに、彼女は怯えた目を向けて俯いた。
「あの……すみません……私の、種族が。ヒト族が、悪いんですよね。侵略したのに賠償もしないまま、助けを求めたなんて、虫が良すぎて……」
 立場が悪いから何かされると思っているのだろうか。心外だったし、少々複雑な気分だった。これでも精一杯怖がらせないようにしているのだが。
「……モルグ族から攻撃を受けているのはヒト族だけではない。リリスがなんらかの対策を講じようというとき、ヒト族から同盟の申し出があった。いまのところは利害関係にある。過去の侵略のことも、此度の結婚で割譲したということになった」
 この辺りの詳しいことは後日話しておいた方がいいだろう。見知らぬ土地だからだろうか、知らないことがあるとどうもこの娘は不安がるようだ。
 茶を飲む。目で促すと彼女も器に口をつけた。お互いに一息ついてから、話し始める。
「……結婚についてだが」
「……はい」
 覚悟を決めたような顔で背筋を伸ばす。虚勢だろう。生まれ育った故郷を恋しく思う気持ちはいまなお鮮やかであるはずだ。だがそれに気付かないふりをするのが礼儀だった。
「……リリス族とヒト族の同盟は一枚の紙で成せるものだとは思わぬ、という考えで、リリス族長である私との結婚という形の約束を求めた。花嫁となる者は、都市の権力者に連なる適齢期の娘という条件で、数名の候補が提示された」
「……候補?」
 初めて聞くことだったらしく目を見開いて、次にうろたえている。
「え、あの……だったらどうして……」
「……何がだ」
「決め手は……何だったんですか? どうして私が……」
 理由はある。
 だがそれを告げては酷だろうと、キヨツグは黙秘を選んだ。代わりに尋ねる。
「……この結婚は意に染まぬものだったか?」
 花嫁は面食らったように黙り込み、恐る恐るといった様子で答えた。
「……答えても、どうにもならない、と、思います」
 諦念を抱いていたということは、それでわかった。ならば答えは明らかだ。
「……私の心算のために聞きたい」
 花嫁は遠慮しながらも――自らの意思ではない、と小さく首を縦に振った。
 キヨツグは目を閉じた。こうなることはわかっていたが、無理をさせているのだと思うと哀れだった。
 だがそれで心が決まった。立ち上がり、告げる。
「……お前は寝間を使え。私はそこの椅子で休む」
「え……?」
 キヨツグが隣室から枕と毛布を持ってきて寝台をこしらえていると、混乱したような叫び声が上がった。
「でもその、そこは、ええと、寒いと思います!」
「……では共に寝るのか?」
 短い返しに、彼女の顔がおかしな色に変わる。行き場のない手が惑うように動き、胸の前できつく拳を形作る。感情を押し殺す仕草だ。
「で、でも、私は結婚、しました」
 言葉にしたその思いは握りしめた手にあるのかもしれないが、心から望んでいないのだとキヨツグはすでに知っている。ゆえに物言いは自然と冷たくなった。そちらを見ずに言う。
「……私とて望みはある。花嫁は、リリスを嫌わぬ者が良い」
 彼女はさっと気色ばんだ。
「嫌ってなんか……!」
「……言い方が悪かった。嫌ってはいないが恐れている者を、どうこうしようとは思わぬ」
 沈黙が落ちた。
 不安と恐怖、そして言い込められた屈辱と怒りに震える彼女を見下ろす。
「……無理強いはせぬ。リリス族長としての役割をこなし、体面を保ってさえいれば誰も文句は言うまい。何も求めてはおらぬ」
 望んだとしても彼女がそれに応じることはできないだろう。
 ゆえに、望まぬ。
 じっと見ていた彼女の身体から、緩やかに力が失われていくのが見えた。俯いたままではあったが、それ以上反論できないことを悟ったようだった。
 気を抜けないやりとりがようやく終わったとみてキヨツグも安堵した。隣に行って休めと言おうとしたとき、でも、と彼女が声を上げた。
「ここで寝るなんて、風邪を引きます」
「……リリスは丈夫だ。私も」
「私の寝覚めが悪いんです!」
 キヨツグは驚いて彼女を見つめ返した。
 赤く染まった頬。必死にこちらを見上げる目が潤んでいるのは、己の自尊心をなんとか掻き集めた一言だったからだろう。
 花嫁としての役割を負ってきたはずなのに、何もしなくていいと言われ、寝台を譲られた。だから『寝覚めが悪い』――その一言をはっきりと口に出すのに、どれだけ心を奮い立たせたのか。
「無理強いはしないと言ってくださったこと、信じます。だからちゃんとベッドで寝てください。あなたを押しのけて一人でのうのうとあそこに寝るなんてできるわけないんです!」
 花開く前の蕾の気高さ。
 慣れない寝間着をわずかに着崩れさせ、初夜の艶もなく、必死に訴える姿。
 開花を知らない幼い蕾には、蕾なりの誇りがあるのだと、その佇まいで思い知らされる。
 だが言い終えた瞬間いまにも倒れこみそうな顔色をして足を震わせている。激しい落差を目の当たりにして、心がふっと軽くなるのを感じた。自分も必要以上に気を張っていたのだとわかる。
 だがいまは、この気高さに報いねばならない。
「……隣でも構わぬのなら、助かる」
 これでも一応、ゆっくり横になりたいという欲求はある。
 残りの茶を飲み干そうと器に注いでいると、思い出したものがあって懐を探った。硬い石のようなそれを取り出して、渡す。
「……大切なものだと聞いた。だが要らぬ咎めを受けたくなければ、人には見られぬように」
 白い長方形のそれはヒト族の機械だ。確か通信手段だったと記憶している。
 受け取ったものを信じられないように見つめていた彼女は、かすかに唇を噛み締めると大事そうにそれを握りしめた。安堵の微笑を見て、キヨツグも安らかな気持ちになる。
「ありがとうございます。あの……」
 今度の戸惑いは恐れがない。
「お名前、なんてお呼びすればいいですか……?」
 一方的に名を告げただけだったことを思い出す。そういえばこちらも向こうの名を知ってはいても直接聞いてはいなかった。
「……キヨツグ。もしくは『天』と呼べ。……お前は?」
「アマーリエ・エリカ。アマーリエ・エリカ・コレットです」
「……アマーリエという音は私たちには馴染みがない。エリカと呼ぶが良いか?」
「はい。呼びやすいように呼んでください。あの、本当にありがとうございました。キヨツグ、様」
 敬称をつけることに慣れていない、たどたどしい呼び方はこそばゆい。
「……そろそろ休もう」
 茶器を置いて、ようやく席を立つ。
 奥の灯籠を残して明かりを消していくと、闇が濃くなる。
(…………)
 意識しないと決めたはずが、風景が変わると勝手に感情が動き出す。
 キヨツグがやってくるのを寝間で待っていた花嫁の姿を見ると、それはさらに大きく身じろぎをする。闇の中にうっすら浮かび上がる白い影は、いともたやすく抱きかかえられるほど細いのだと思ってしまう。
 だが決して表に出してはならない。キヨツグは黙って、寝台に横になった彼女に布団と毛布を着せかけてやり、自身も少し離れたところで横になった。
 寝台が広いのと彼女が小さいおかげで、なんとか接触せずに済んでいるが、かすかに相手の体温が伝わってくる。いつでもどこでも眠り、起きることのできるキヨツグだが、隣の娘はそうではないらしく、意識して息を殺している気配が伝わって来る。
「……眠れぬか」
「あ……はい」
 遅れて返事が返ってくる。寝返りを打ってこちらに身体を向けたので、キヨツグもそちらを向き、立てた肘で頭を支えた。
 こうして横になったところを見てみれば、花嫁はますます幼い少女のようだった。それを傷付けないでいよう、怖がらせないでいようと、見守る姿勢でいる自分は父親だろうか。子どもはいないが、娘を持つとこのような気持ちになるのだろう。
「……歳はいくつになる?」
「歳、ですか? 十、あ」
 何かに思い当たったようすで鋭く息を飲み、口元を押さえる。
「今日、何日ですか?」
 部屋の飾り時計はもうすぐ零時を指すところだ。日時を告げ、もうすぐ日付が変わることを言うと、彼女は長いため息をついた。
「今日、……誕生日だったんです」
 だから十九になりました、と言った。
 その冷静さが不思議だった。リリスに怯え、悲しげな顔をするのに、一人で迎えた誕生日には頓着しないという違和感だ。
「……誕生日ならば、宴を催すか」
 おおよその家庭で行われるのと同じように、だが規模を大きくするのが王宮での祝いだと思えばいい。仰々しいことを苦手とした先代を引き継いで、祝宴をあまり開かぬことにしているキヨツグだが、妻となった娘の祝いならば執り行うべきだろう。
「え!? あ、の、それはちょっと……」
 そう思ったのだが、非常に驚かれて遠回しに辞退された。
(……誕生日に何か思うところがあるのか)
 引っ掛かりを覚えたものの、改めてその若さを思う。
「……十九か。では一回り違うのか」
「ひ、一回り?」
「……私は三十一だ。老けて見えると言われるが、どうだ」
 彼女は目を丸くして何度も首を横に振った。そして何かを考えるように視線を落としてしまう。リリス族とヒト族の寿命の違いについて考えているのだろう。
「……怖いか」
 彼女はキヨツグを見た。瞬きがひとつ。
「わかりません……リリス族に初めて会ったから……」
「……そうか」
 これからはここが彼女の国になる。キヨツグよりも速い時間を生きることになるだろうが、それがどのようなものか彼女にもキヨツグにも想像がつかない。
 うまく思いやってやれるか。
「……名前に、意味はあるのか?」
「……はい?」
 彼女が身じろぎして枕に頭を乗せ直すと、思ったよりも距離が近かったらしい。慌てて後ろに離れていく。
 なんとなく微笑ましい。リリスの目は、この暗闇でも彼女の耳が赤く染まっているのを捉えることができた。
「意味、ですか? ……意味……」
 開いた唇は、何も紡がずに閉じられた。その後黙って首を振る。
 何かをためらった様子に気がかりを覚えたものの、話したくないこともあるだろうとそのまま置いた。いずれ話したいときに話せばいい。
「……私の名は、旧暦東洋の古語の一つの言語に当てはめて、雪を継ぐと書く。冬に生まれたからだ。アマーリエというのは西洋古語の音だが、エリカという名は東洋古語にも音がある」
「そうなんですか? 知らなかった……同じ綴りの花があるのは聞いたことがあったんですが」
「……その花を、見たことはあるか?」
 いいえと答えが返る。
「……リリスにはその花が咲く。暖かくなったら、見に行くと良い」
 そして、少し迷ったが、告げた。
「……誕生日、おめでとう」
 彼女の生家の人間はここにはおらず、家族となって一日と経っていない自分が告げれば皮肉だと思われそうだったが、言葉一つくらいはやりたいと思っての、祝福だった。
 すると彼女の表情は、驚きの後、みるみる解けて柔らかくなった。雪解けを思わせる、穏やかな笑みだった。
「はい。……ありがとうございます」
 泣き出すのではなく、笑ったことに安堵する。
 自分たちは案外うまくやれるのかもしれない。
 温かい予感を覚えていると、彼女が疲れたように目を閉じた。改めて見れば、目の周りには疲労の影が漂い始めている。移動中もかなり眠っていたようだし、休養を欲しているのだろう。
 都市の富裕層に生まれた、恵まれすぎたわがままな娘かと思いきや、リリスでは子どもに見られる外見に、内面も繊細で優しい人物らしい。気を張り詰めさせていたのだろうと、会話を止めて毛布を引っ張ってかけてやる。
「……おやすみ」
 声をかけるとぱっと目が開いてこちらを見たが、キヨツグが動かずに見つめ返すと安心したらしい、吐息交じりに答えが返ってきた。
「……おやすみなさい……」
 しばらく目を閉じたその顔を見つめていると、哀れみが沸き起こり――そばにいてやれるだろうかと望まれることを考える自分が、いた。

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