―― 第 4 章
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 目覚めた瞬間に自分がどこにいるのかわからなくなるときがあるのは、アマーリエがあまり朝に強くないからかもしれない。
 白い曇りガラスの窓から差し込んでくる太陽の光は白く、異国情緒溢れる部屋を照らし出している。するりと手を滑らすと、硬いシーツと柔らかな毛布の手触りと香りを感じる。首を巡らしてベッドの広さを確認し、ぼんやり考える。この大きすぎるベッドで、何故自分は隅に寄って眠っているのか……。
(――……そうだ、私。あの人はっ!?)
 がばりと起き上がる。
 隣にいたはずの人の姿はない。代わりにアマーリエは二人分の毛布で丁寧に包まれていた。おかげで寒さを感じず、一度も目を覚まさずにぐっすり眠ってしまっていた。
「…………」
 きょろきょろと部屋を見回して、やはり一人なのを知る。
 安心したような、けれど焦ってしまうような気持ちをまとめるように毛布を綺麗に四つ折りにし、二つの枕を、少々赤くなりながら綺麗に並べ直した。でもなんだかいたたまれなくて、形を整えるのに半分殴るようにして枕をばすばす叩いてしまう。
 自分の気持ちが落ち着いた頃、携帯端末を手に取った。
 夢ではなかった。こうして自分の手元に戻ってきた。これを用いたやりとりを鬱陶しいと感じたこともあったけれど、いまはこんなに愛おしい。
(電源は入れないでおこう。もっと大事なときに使うんだ)
 どこに隠せばいいだろうと考えて、結局懐の中に入れた。すぐ見つかってしまうかもしれないが、そのときは彼の名前を出そうと決める。族長が自ら手渡したのだから持っていていい理由になるはずだ。
 続き部屋から廊下に出て、向こうの建物に入る。開かれた扉から顔を覗かせると、詰めていた女性たちが気付いて両手をついた。
「おはようございます、シン様」
 おはようございます、とあちこちから声が上がる。
「お、お、おはようございます……」
 もごもごと挨拶をしてしまうのは、朝から美女たちが美しい笑顔をアマーリエに向けてくるからだ。全員赤い袴の制服を着ているというのに、みんな華麗で、目が眩んでしまう。
「すぐにお食事をご用意いたします。その前にお召替えをなさいませんか?」
「あ……じゃあ」
 着替えをしますと頷くと、彼女たちは一斉に動き出した。導かれたアマーリエが部屋の中央に置かれた腰掛けに座ると、その脇から鮮やかな衣装を突き出され、驚いた。
「本日はどのようなお召し物にいたしましょう? 私はこの青の晴れやかなものがいいかと」
「冬でございますから、上着は縹で……鹿の子ですね」
「装飾品は銀でございましょう」
「あら、やっぱり菱の上着の方がよくありません?」
 ハナダは色の縹かなとアマーリエはぼんやり考えていた。その間にも左右や後ろでは着物を広げて、ああでもないこうでもないと言い合っている。やりとりをぼうっと聞いているのは少し楽しい。朝から元気なのはいいことだと思う。
「あなた方、シン様がお困りじゃないの」
 その一声で鳥たちはぴたりと口を閉ざした。
「アイ様……」
「シン様はわたくしたちの着せ替え人形ではありません。ご意向をきちんと窺わなければ」
 そろりとこちらを窺われる視線が痛い。他人事のように聞いていてごめんなさいと申し訳なくなってしまった。
「シン様、どういたしましょう? 何かお気に入りのものはございましたか?」
 語調を和らげて尋ねてきたのは、肩に髪を垂らした彼女だ。昨日もここにいた。先ほどの叱責といい、多分リーダーシップを取る人なのだろう。名前はアイというらしい。
「ええと……ハナダっていうのが気になるのでそれを……」
 次の瞬間後ろから歓声と落胆の声が同時上がった。
 もしかして競争だったのだろうか。煽ってしまったのかもしれないと自分の行動を省みて反省する。気を付けなければ。
「では首飾りはわたくしの」
「靴はこれを」
「簪はこれにございます!」
 アマーリエが自身を戒めたのもつかの間、落ち込んでいた士気が再び盛り上がり、それぞれこれだという一品を差し出してきた。
 結局それらを身につけることを承諾すると、女性たちは達成感に満ちたいい顔をしていた。うきうきした様子で、アマーリエにリリスの衣装を着つけていく。
「さあ、お召替えを!」
「あっ」
 寝間着を脱がされた途端、懐から携帯端末が落ちた。
 アマーリエが手を伸ばす前に、それをアイに拾われてしまう。何を言われるか構えていると、彼女はにっこり微笑んだ。
「そこに置いておきますわね」
 宣言通り近くの棚に置き、それ以上のことは言わなかった。他の誰も、それがなんなのかということを無視するようになっていた。どこかで族長が介入したのことを知ったのかもしれない。族長効果は凄まじい。
「朝食の後は、給田をご案内いたします。他になさりたいことがあれば、遠慮なくおっしゃってください」
「したいこと……ですか?」
 きょとんとしてしまったが、そういえば結婚したとしても生活が終わるわけではないのだ。ほとんど零からのスタートではあるけれど、アマーリエの人生は続く。どうしてかずっと何もかもがなくなってしまうと思い込んでいたようだ。
 衣装を着つけながらアイが尋ねる。
「シン様は都市にいらした方と窺っております。どんなことをして日々を送っておられたのですか? お仕事は何を?」
「えっ……と、学生です。大学生」
「女性の身で学生とは、とても優秀でいらしたんですね。どんな学問を学んでいらっしゃったんですか?」
「医学生でした。でも優秀なんて、とんでもないです。もっと成績のいい人はたくさんいましたから……」
 いまみんなは何をしているだろう。大学に行く準備をしているのだろうか。アマーリエが退学したことを、オリガもキャロルもリュナも、ミリアから聞いただろうか。相談できなかったことを怒っていないといいけれど、
 都市はずいぶん遠くなってしまったけれど、あそこで未来を紡いでいる人たちを羨ましいと思う気持ちはいまも燻っている。
 着替えが終わると、アイが携帯端末を持ってきた。何事もなかったかのように懐にそれを入れて、一礼して下がる。
 携帯端末の硬い感触を着物の上から確かめて、目を伏せる。
 都市を思う資格はもうないのかもしれない。でも繋がりはかすかにここに残っていた。電源を入れさえすれば、それはきっと確かになるはずだ。
「医学生ということは、お医者様になられるお勉強をなさっていたんですね」
 髪を梳られながら声をかけられて、意識が引き戻される。正面の捧げ持たれた鏡に戸惑う顔が映し出されていた。
「そ、そうです」
「素晴らしいですわ。是非お続けになられたらいかがでしょう? リリスの医療は都市とは異なるかもしれませんが、身に着けて損はないかと存じます」
 瞬きをすれば、鏡の向こうでアイはにっこりした。
 彼女は、まだここでどう過ごしていいかわからないアマーリエのために、ひとつ提案をしてくれたのだ。気を使わせて申し訳ないと思う気持ちと、続けてもいいのだという希望が胸に灯る。
「……続けたいです」
「ええ、是非。テン様に申し上げておきますわ」
 彼女は笑って、お支度が整いました、と一歩下がって礼をした。
 大きな姿見を見せられて、ため息が漏れた。縹の青は優しい色合いで、白い円の染め抜きが裾に散るように、胸には大きく施されていた。下に重ねているのは日差しに照らされたような明るい緑と薄い黄緑だ。上半分だけ結った髪で団子を作り、そこに刺してあるのは大ぶりの銀の班だった。
 派手ではなくてすっきりしている。リリス族の衣装を着た自分を初めてまじまじと見ることになったが、スタイリスト役の彼女たちの手腕に感動した。とても綺麗だ。
「すごく綺麗です。ありがとうございます」
 一瞬驚いたような間があったが「こちらこそ」と笑ってくれた。
 別の部屋に連れて行かれて(もしかして、すること毎に部屋があるの?)と戦きながら、綴れ織のソファに腰を下ろすと、食事の膳が運ばれてきた。ドラマで見るような本物の御膳だ。
 メニューはふわふわした出し巻き卵。芋煮に鮮やかな人参を添えて。薄黄色い卵豆腐には胡麻と思われる甘いあんかけ。小さな器には梅を添えた漬物が瑞々しい。透明なお吸い物には三つ葉が浮かんでいる。主食は米らしく、茶碗の中の白い輝きが美しい。
 朝食を抜きがちで、食べたとしてもコーヒーや牛乳、たまにトースト一枚をつけるだけのアマーリエも、これには食欲をそそられた。
(朝ご飯が用意されてるっていいなあ……)
 リリス族の朝食はあっさりした味付けで、草原の国だからか生物はあまり出ないようだった。都市のように地下の養殖場など持たないから、好物の魚を食べる機会は少なくなるだろうというのが、少し残念だ。
 食生活が変わることも覚悟していたが、いまのところ見慣れた食材の慎ましい、けれど手間のかかった朝食で、ジャンクフードになれたアマーリエには新鮮で、優しい料理ばかりだった。
 美味しく平らげた後、お茶を出してもらう。
「少しお休みになったら、案内にお連れいたします」
 ここのお茶は緑茶のような味だ。昨夜も同じものを飲んだけれど、少し苦くて飲みなれない。
 そんなとき、一緒にこれを飲んだ人のことが、ぼんっと音を立てて脳裏に浮かんだ。お茶の温度が伝染したかのように顔が熱くなってくる。
 ――何もしない、と言った。何も求めていない、と。
 あの人には、アマーリエがときどき感じていた、男性の持つ特有の雰囲気がなかった。視線や動き、言葉、そのどれもが冷たく流れる水や雪のようで、アマーリエに何かを働きかけようという意思が感じられなかった。
 だからアマーリエは一緒にいても大丈夫だと何の確信もなく思ってしまったし、彼にとってこの結婚は感情の付属しない記号なのだと理解したのだった。
 意に染まないのは、彼も同じ。
「…………」
 彼を嫌いだとは思わなかった。
 でも少し、怖い。それから痛くて、苦しいような気持ちがある。これがなんなのか、アマーリエにはわからない。
「シン様?」
「……あっ! はい!」
 器の中をじっと見つめていたからか呼びかけられてしまった。
「お茶がお珍しいですか? おかわりはいかがです?」
「あ……ありがとうございます、いただきます」
 熱いお茶を注いでもらうと、考えすぎて強張っていた心が少しだけ緩む気がした。
「あの……名前を聞いてもいいですか?」
「はい。わたくしはアイ・マァと申します。シン様の身の回りのお世話をいたします女官を取りまとめる、筆頭女官でございます」
 すると昨日今日とお世話をしてくれる女性たちは、アマーリエの女官ということだろう。筆頭ということは、やはり彼女がリーダーなのだ。
 リリス族の言葉は難しい。ヒト族の中で生活していると使わないような用語や役職名が出てくる。
「筆頭女官の、アイさん」
「敬称は必要ありません。ここで最も地位が高いのはテン様、次いでシン様でございます。アイ、とお呼び捨てになってくださいませ」
 頷いた。アマーリエの立場が強いのなら、必要以上の彼女たちにへりくだった態度を取るのは問題だとわかったからだ。
 だが疑問はまだあった。
「あの、『テン様』『シン様』っていうのはなんですか?」
 何度かアマーリエを指して『シン様』と呼びかけられたので、敬称か何かだろうとは思っていたのだが、ようやく尋ねることができた。それにアイは嫌な顔一つせず答えてくれる。
「『天』というのはリリスの族長を指す尊称で、『真』というのはその伴侶となる御方のことを指します。ですから、わたくしたちは天様、真様、とお呼びかけするのが一般的です。もしそれがご不快なら、お名前でお呼びさせていただきますが……」
「大丈夫です」
 アマーリエは急いで言った。
「こういう文化なんだってわかりますから、慣れるように努力します」
 知らない、わからないから不安で、その不安は恐怖に繋がる。アマーリエがリリス族の国で不安に思うように、多分リリス族の人々もアマーリエに対して不安を覚えたり、恐怖を感じたりするのだと思う。何故なら昨日からずっと、彼女たちはアマーリエを過剰に気遣ってばかりいる。どう扱っていいのかお互いにまだわかっていないのだ。
 きっぱりとした物言いを意外に思ったのか、アイは目を見開き、嬉しそうに笑って頷いた。
「こちらこそ、不慣れなゆえ、ご不便をおかけするかもしれませんが、真様のことをもっと教えていただけると幸いです」
 それじゃあ、とアマーリエはそっと器を置いて、部屋を見回した。
「そろそろ、ここを案内してもらいたいです。皆さん、お願いできますか……?」
 最後は自信なさげに、しかも目が合うと照れくさくて赤くなってしまったが、女官たちは花開くように笑った。ひどく眩しかったけれど、温かい雰囲気が満ちていくのがわかった。
「かしこまりました」
「もちろんでございます。では、参りましょう」
 アマーリエたちは立ち上がったが、長身の持ち主であるリリス族の女性たちは、いまになって背の低い主人に気付いたらしい。黙ってこちらを見下ろした後、誤魔化すようににこっと笑ったので、アマーリエは噴き出しかけてしまった。
 さあとアイが促す。
「王宮探検ですわ。広うございますから、迷子にならないよう、しっかりついてきてくださいましね」
 こうしてアマーリエは自らの住まいとなる王宮の主な部分を見て回ることとなったのだった。

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